亡き王の祭壇.3








 王宮から聖域までの距離は、そう離れていなかった。山頂に続く階段はつづら折りになっており、針のように細い三日月が石段の向こうに見えている。
 風が心地良く感じたのも最初のうちだった。火照った肌が空気に馴染み、同調していくのが分かる。湿っていた髪もすぐに乾いた。
「風呂の後に夕涼みとは、何だか家族らしくていいな」
 レオンティウスが隣でほくほくとしている。突っ込む気にもなれず、アメティストスは黙り込んだまま足を進める事に専念した。松明を持ってこなかった為、粛々と深まっている宵闇の中は次第に濃くなっていく。いちいち隣の男に構っている暇はない。
 散歩がてらにリュカオーンの祭壇を観に行こう、と提案したのはアメティストスの方だった。彼とて聖域には何度か訪れた事があったが、信仰心のなさが露呈してゼウス神殿の様子を全く覚えていなかったせいもあり、実際に現場を見ておきたいと思ったからだ。ぶらぶらと風に当たりながら、淡い夜の上澄みを歩いていく。
「すっかり秋だな。空気が柔らかい」
「まだ涼しいとまでは言えないがな」
 湯上りの後で二人とも軽装だったが、用心の為に武器を持参していた。レオンティウスもそれについては賛成らしく、戦場で使う物とは別の、とねりこの柄が付いた短槍を携えている。
「確認しておくが、お前は祭壇の血と狼は無関係と考えているのか?」
「うーん……正確に言うと少し違うな。両者に関係はある。関係はあるが、それは装っただけの物だと思う」
「へえ」
 何を言っているのか理解できなかったが、階段が終わって山頂に出た為、追求するのは後回しにした。ぐるりと聖域を見渡す。
 まず目に付くのは国家神を祀ったブロンディスの雷神殿である。ゼウスの神殿はそこからやや離れた北よりの場所にあった。本来なら、年に一度牛を捧げる儀式を執り行うと言う。
 同じ雷を司るので、アルカディアではブロンディスとゼウスが混同されている場合が多く、聖域においても両者の神殿は造りが似ているように見えた。どちらの建物も外側には列柱が巡らされ、白壁の内部を美しく着飾っていたが、ゼウス神殿の方が多少こじんまりとしているようである。
「そう言えば、こっちの天井はどうなっているんだ?」
「ああ。ちゃんとあるぞ」
 雷神殿の神託所は天井を特別に取り除いて夜空を見えるようにしていると聞いたが、こちらは違うらしい。確かめるように神殿の屋根を見上げると、神話をモチーフにした彫刻が破風に刻まれているのが見えた。夜目では確認できないが、恐らくリュカオーンの姿も描かれているに違いない。
 篝火の灯された入り口には見張りの役人達が立っていた。まさか英雄二人がこんな時間にぶらりとやってくるとは思わなかったらしく、レオンティウスが声を掛けると驚いて飛び退くように道を開けてくれる。松明を貰い受けて中に入ると、ちらちらと自分達の周りだけが不安定に明るくなった。
「ここか」
「ああ」
 音の反響が変わる。柱のある玄関を過ぎると、すぐに祭壇のある主室に出た。金と象牙で作られた十メートルほどの巨大なゼウス像が、それを見下ろすように鎮座している。
 本来なら牛を捧げると言うだけあって巨大な祭壇だった。どっしりとした長方形の石は、闇の底にうずくまる陰湿な獣のように見える。松明を近づけると黒ずんだ表面がぼんやりと浮かびあがり、それが年月を表わすものなのか、あるいは幾度も血を吸った為のものなのか判断を惑わせた。
「そう言えば」
 祭壇へ手を伸ばしながらアメティストスが尋ねる。指先にざらりと荒い感触がした。
「ここに残っていた血は、本当に人間のものだったんだろうか」
「どうだろう。もう清めてしまったし確かめられないな。だが大方、別物だったんじゃないかと」
「……ふん」
 相手は既に結論が見えているようである。ならば自分は考える手間をかけなくともいい。アメティストスは早々に見切りをつけると、前髪を掻きあげて辺りを一瞥した。
 神殿内は暗いが見通しが良く、ここからでも外に立つ役人が小さく見えている。いちいち松明を掲げるのが面倒になり近くの蜀台に火を移して首を仰け反らせれば、しっかりと天井があるのが確認できた。天窓もない。
「どちらにしろ妙な話だな。出入り口は一つで見張りがいる。神殿へ侵入した奴らはどうして見つからずに済んだのか――それも貴様は分かったと?」
「仮説はある」
 レオンティウスは祭壇をしばらく見つめた後、秘密を打ち明ける子供のような口調で囁いた。
「恐らくこのまま待っていれば、私達の所に来てくれるんじゃないかな」
 狼が、と。


 ――荒い獣の足音が聞こえてきたのは、それから一刻ほど過ぎた頃である。






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