亡き王の祭壇.2








「そう言えば最近、きな臭い噂があってね」
 そうレオンティウスが切り出したのは、お互い三杯目が空になる頃だった。酔うまでには至らないが、喉を潤す葡萄酒に人心地がついてくる頃合いである。少し前まで全く酔う事が出来ず、むしろ頭が醒めるばかりだったアメティストスも最近では人並みに酒を楽しめるようになっており、相手も僅かに目元の辺りを赤くさせていた。
「近々、お前の所にも出動命令が出るかもしれないよ」
「へえ。ようやく頭の固い連中も認める気になったのか」
 いくら和睦を結んだとは言え、一時は敵対した彼らをアルカディアに受け入れるには諸々の反発もあった。立場も食客である。ここしばらくは練兵に精を出すしか仕事はなかったのだが、ようやく戦力として活かされる時が来たらしい。だがレオンティウスは杯を傾ける手を止め、言い渋るように否定を示す。
「いや……戦ではない。狩りの依頼になる、と思う」
「狩りぃ?」
「と言うか、討伐隊だな。狼の」
 話によれば死傷者こそ確認されていないものの、連夜に渡って山から離れた市街地にまで巨大な狼が出没するようになり、不吉な予兆だと人々は恐れ始めていると言う。誰もはっきりと姿を目撃した訳ではないが、夜が明けてから荒らされた家畜小屋や、喉を食い破られた鶏の死体、そして転々と血糊で刻印された足跡が幾つも見つかるのだそうだ。
「ふん――それで狼には狼を、と言う訳か」
 アメティストスは酒を煽り、醒めた気分で浴槽の淵にもたれた。こちらとて清濁を知り尽くした身の上だ。噂の裏側を予想する事はそう難しくない。
「大方、これも奴隷上がりがアルカディアに来たせいだと思われているんだろう。あまり笑えないな」
 何事にも生贄を捧げて神にお伺いを立て、自然からあらゆる未来の予兆を見出し、戦では占い師を従軍させて決戦日を定める時代だ。敵だった自分が訪れたせいでブロンディスの怒りを買い、不幸を招き入れたと噂されても無理はない。奴隷部隊を討伐隊に出すと言う提案は、濡れ衣を晴らせと言うレオンティウスの配慮だったのかもしれないが、素直に感謝するほど良い案だとも思えなかった。
 しかし当のレオンティウスは変わらず煮え切らない表情を浮かべたまま、
「いや、狼の騒ぎ自体は大したものではない。むしろ厄介なのは他の件なのだ」
 と奇妙な事を言い出す。
「どうやらここ連日、ゼウス神殿で人が殺されている、らしい」
「……らしい?」
 曖昧な言い方の上、それがどう狼討伐と関わってくるのか理解できずに顔をしかめる。レオンティウスも説明しにくいのだろう。酒で唇を湿らすと、ぽつぽつと語り始めた。
 事が起こったのは二週間前の事。
 アルカディアの山頂にはブロンディスを始めとする数々の神々を祀った神殿群があり、それらを総称して聖域と呼んでいる。他にも劇場や音楽堂、テオコレオン(神官の宿舎)なども周囲に建てられ市民の出入りも多い場所だ。問題のゼウス神殿は聖域のやや北より、城壁を背に建っている。
「その祭壇で毎回、血だけが見つかるのだ。最初に見つけたのは朝になって勤めに出てきた神官で、血がまかれた祭壇を見て誰かが無断で儀式をしたのかと疑ったらしい。次の日には見張りをつけたのだが、それから数日して再び同じような事が起こった。神に何かを捧げたような痕跡だけが残り、生贄の死体や、目撃者すらいない。それが更に三回ほど繰り返された」
「……それは」
 アメティストスの声が一つ低くなる。その意味を正確に捉え、レオンティウスは打ち消すように眉のあたりを緊張させた。
「勿論、現在のアルカディアでは人間を生贄にするのは禁じている。更に問題なのはそれがゼウス神殿の祭壇だと言う点なのだ。人々はリュカオーンの末裔の仕業だと、そう囁きあっている」
「リュカオーン……」
 重みを持って語られた名前を反復したアメティストスは、しかし次の瞬間には理解しきれないと噛み付いた。
「ちょっと待て。どこのどいつだ、それは」
 レオンティウスが驚いたように振り返った。
「知らないのか?有名な話だが」
「知らん」
「それは――」
 理由に思い当たったのだろう。レオンティウスは僅かに表情を変えた。
「ポリュデウケスの配慮、だったのかもしれないな」
「……何?」
「リュカオーンはかつてのアルカディア王の名だ。伝説とは言え、忌み子として捨てられたお前達が王家について知る事を彼は恐れたのかもしれない。運命とは何が結びつくか分からないものだ。万が一にでも興味を持たせたくなかったのだろう」
 確かに両親は、慎重に双子を王都から遠ざけていた。アルカディア人にとって誇りその物である雷神の伝説を聞く機会はあっても、遥か昔の王族達の話は寝物語であってさえ少なかった。
「私はカストルによく聞かされたな。アルカディアの王、リュカオーン。彼には五十人の息子と一人の娘がいた。息子達は悪事を働いて民を苦しめ、父親もそれを黙認していた。オリンポスの神々が放って置くはずがない。アルカディアの様子を耳にしたゼウスは旅人に変装し、宮殿に赴いて内情を探ろうとした」
 レオンティウスは一息ついて後ろ髪を払った。
「だがリュカオーンもまた、旅人をゼウスと気付いた。そして傲慢にも神を試そうと、自分の孫を殺し、その臓腑を料理にして出したのだ」
「……胸糞の悪い話だ」
「激怒したゼウスは辺り一面に雷を落とし、息子達を殺す。ゼウスは更にリュカオーンを捕らえて狼に変え、天に上げた。残虐非道な王に相応しい姿だとね。それ以来リュカオーンの一族はゼウスを恐れて祭壇を作り、深く敬うようになった。この祭壇で生贄の人間を殺し、その肉を食べれば狼になると言われている」
 ようやく話が飲み込めた。ゼウス神殿の祭壇。見当たらない生贄の死体。狼。
「つまり人狼が生まれた証だと?」
「そう言う事になるな。正式に軍から討伐隊を出す事になったのもそのせいだ」
 人が神に姿を変えられた伝説なら、それこそ数多く存在している。夜空を埋め尽くす星は数多の神話、かつての英雄たちの物語と同じだ。ギリシャで暮らす人々にとって神の存在とはそれほど近い。新しい建物を作る場合は土地の神に、安全な航海を祈願する場合は海の神に、それぞれ祈りを捧げて牛や羊を生贄に捧げるのはごく一般的だった。
 実際にアメティストスもかつては冥王の加護を受けた者であり、レオンティウスは言わずもがな雷神眷属の最高位に位置する。互いに神の力を嫌と言うほど知っている為、笑い飛ばす事は出来なかった。
 アメティストスは苦々しく口の端を上げ、飲み干した杯を背後に置く。『神域に逃れる者を何人とも傷つけてはならない』と言う掟を破ってイリオンの神殿で神官を刺し、風神の怒りを買った事を思い出した。
「だが……何も人狼とは限らないじゃないか。どこかの密儀って可能性もある。ディオニッソスを崇める女達が狂乱して、祭りの途中に山羊をバラバラに引き裂いた話なら聞いた事があるしな。まあ、奴らの場合は酒乱だが」
「しかし曰く付きのゼウスの祭壇を使うとは、何か意味があるように思う。楽に入れる神殿は近くに幾つもあったのに、わざわざ見張りのいる場所に幾度も忍び込んでいるのだぞ。それにディオニッソスの祭りは騒がしい。気付かない訳がないと思うが」
 そうなると、やはりリュカオーンの狼が出て悪さをしている、と言う事になるのだろう。忌々しい話だ。ゆっくりと風呂に入りながら語る話題ではない。
「それで狼同士、こちらが関わっていると疑われた訳か。光栄だな。その噂が本当なら既に四頭いる事になるんだろう。猟師連中には無理なのか?」
「いや。街に出る痕跡を見ると、暴れているのは一頭だけのようだ。被害は王都にのみ起きている。山が専門の猟師たちには土地勘がないから、結局こちらがやる事になったのだが」
「一頭だけ……」
 呟きながら、ふとレオンティウスはこの話をする為に風呂に入りに来たのかもしれない、と思った。兄弟同士で酒でも飲むからと言えば、周りも気を使って二人きりにさせ、浴場までは入って来ないだろう。親切に手の内を見せるにしても、随分と回りくどい事を考えたものだ。
 アメティストスは想像する。かつての血生臭い伝説を再現し、神殿に忍び込む男の姿を。縛った娘を祭壇に載せる姿を。生きたまま生贄の臓物を喰らい、自ら望んで獣へ転化していく姿を――。
 知らず、顔が強張っていた。血みどろになって食われていく娘の姿が、どうしても妹と重なった。
「嫌な話だな……」
 湯を掬い、ざぶりと顔を洗う。顎を伝って流れる雫を手の甲で拭いながら、アメティストスは胸を抉る想像を打ち消した。衝撃はなかなか身体から去っていかない。
「そいつら、何が目的だ。人を喰らい、呪いを利用して――要らぬ業を背負う意味など」
「あるのだろう。少なくとも本人にとっては。狼となれば身体能力も上がるだろうし、何かを成し遂げたいと思うなら、それも一つの手なのかもしれない」
 レオンティウスは淡々と言った。
「私がブロンディスの代わりに雷槍をふるう事で玉座を得、お前が黒剣を取る事で死神になったように。これだけで随分とこの世界の運命は動いた。神との契約はそれだけ重く、強大だ。その力を手に入れようと流血を望む者がいたとしても、私は驚かない」
「……まるで生贄を肯定するような言い方だな。仕方がないとでも?」
「肯定はしていない。ただ、そういう面もあると思うだけだ」
 それはレオンティウスにしては珍しく、互いの傷口に触れる話題と、言葉の選び方だった。普段がおっとりしているせいか、ざらりと乾いた口調には人を薄ら寒くするものがある。それに苛立つ反面、アメティストスは腑に落ちない物を感じた。
 ――何故こうも不用意に。
 底が知れないと思うのは、こういう時である。いかにも王族らしい洗練されたおおらかさを持ち合わせているのに、レオンティウスはふと目さばきや沈黙の中に、掴み所のない殺伐さを垣間見せるのだった。それが戦いの中に身を置いた武人としての資質なのか、それとも別の理由があるのかアメティストスには分からない。柔らかで人当たりのいい彼の表情の中、時折見つける乾いた自嘲がひどく不釣合いだと思うだけで。
「……すまない。嫌な空気になったな。話を戻そう」
 本人も気付いたらしい。祈りでも込めるようにそっと瞼を閉じると、緩く首を振って話題を変えた。装った平穏の下で、未だ疼く過去の残骸が濁った湯船の底に見える。
 だがアメティストスも蒸し返す気はなかったので、知らず強張らせていた拳をゆっくりと解き、頭を切り替えた。妹を争いの言い訳に使うのは、もう止めたのだから。
「とにかく――生贄を食ったって言うのなら、そんな派手な出来事を見た者がいないのはおかしい。時間もかかる。最初はともかく、聖域には見張りを付けたと言う話だったな?」
「ああ。神殿の出入り口のみと聞いている」
「そいつらが見落としただけじゃないのか?」
「うーん……あそこの広場はがらんとして見通しのいい場所だし、怪しい者が通ったとしたら気付くはずだが」
「狼を見落とした、と言うのなら分かる。呪いとは言え神の力を得たんだからな。何かしら気付かれない手段があったんだろう。完全に気配を消すとか、な。だが神殿に入る前は普通の人間だったはずだし、生贄だって運ばなくてはならない。見た者がいないってのは妙だ。そうでないと閉ざされた神殿にどうやって入ったのか、まるで分からん」
 長湯のせいか朦朧としてくる。アメティストスは早口で述べ立てながら、瞼や首筋にじっとりと纏わりついてくる湿り気を手の甲で拭った。考えるのが段々と面倒になってくる。
「まあ、確かに四回もそんな事があったんじゃ、討伐隊を出してとっ捕まえた方が早いと言うのも分かる。アルカディアに来て与えられた最初の任務が狼狩りとは、少し出来すぎているがな。なかなか見ものじゃないか」
「……出来すぎている、か」
 レオンティウスはふと動きを止めて視線を宙に泳がせた。いつの間にか彼の酒を飲み終えて、空になった杯の淵をゆっくりと親指でなぞっている。
「――お前はどう思っているんだ?」
「ん?」
「聞くばかりじゃ芸がないだろう」
 ここ数ヶ月レオンティウスのやり方を見てきたが、彼は軍議でもあまり喋らない。戦略の大骨を自ら立て、細かい部分を部下に任せるアメティストスの方法とは違う。しばらく臣下達の議論を聴き、短い質問を幾度か挟んだ後、出揃った意見を総括してレオンティウスは結論を出す。今も説明だけするだけで、あまり自身の考えを口に出していない。
「さあ、どうだろうな。ただ――あの戦いを境に神々の奇跡はこの地から去りつつあるように思う。私とて以前のようには雷を扱えなくなったから」
 考えを整理しているのだろう。どこか明後日の方向を見つめながら、レオンティウスはゆっくりと語り出した。
「祭壇の伝説は昔からあった。だが、実際にそれを確かめた者の話は聞いた事がない。あそこの神官殿には私も何度か世話になったが堅実な人で、普段から神殿もきちんと管理されていた。お前も言っていたが、今回の件にしても全く儀式を目撃した者がいないのは妙だ。リュカオーンの祭壇が何かしら必要だったとは思うのだが……しかし呪いの狼など、本当に生まれたのだろか?」
「……つまり?」
「狼と祭壇の血は無関係なのかもしれない」
 おぼろげに話の行く末に気付き、アメティストスは目を眇めた。無関係――別物だという事。
 成る程。確かに話はずっと簡単になる。神殿に進入した者は、何が目的か知らないが祭壇に血をぶちまけただけ。狼は単に山から下りて来ただけ、という事。
「そうすると見張りの目をかい潜って、少しの間だけ神殿に忍び込むだけで事足りる。厄介な儀式も、重い生贄を運んでくる必要もない。機を伺いさえすれば誰でも出来るだろう?」
 レオンティウスは言う。大仰に呪いだ神話だと考えていたせいで肩透かしを食らった気がするが、それは新鮮な意見に聞こえた。だがアメティストスには違和感がある。
 ――別物だと?
「おかしい。そうなると野生の狼が気ままに出没している事になる。しかも一匹で、だ」
「おかしいか」
「おかしいんだよ。一匹狼なんて言葉があるのも、それがかなり珍しいからだ。子育ての期間はともかく、奴らは基本的に群れで行動する。賢いし、決して人に懐かない。餌がなくなって止むを得ず人里に出たのなら話は別だが、理由もなしに人間を襲う生き物ではないはないはずだ」
 そもそも、とアメティストスは続ける。
「二つの件が無関係だとして、祭壇に血をぶちまける必要がどこにある? せいぜい朝になって神官が驚くだけだ。何か意味があるとは思えない。だったら、まだ人狼を生む儀式だと言う方が俺は納得できる」
 やはり早く討伐隊を出すべきだ。風呂場で議論したところで結論の出るとは思えない。市外に出没しているのは一頭だけと言う話だが、勢子を用意して山を徐々に囲んでいけば他の狼も見つかるだろう。自分がその指揮を執るのは気が進まないが、濡れ衣を晴らすには一番確実な手だ。
「いや――意味ならある」
 出し抜けにレオンティウスが呟いた。
「え?」
「意味ならあるじゃないか」
「どこにだよ」
 聴き返しても耳に入っていないのか、相手はぼんやりするだけだった。琥珀の瞳が徐々に冴えてくる。彼は自身の思いつきに驚いたように少しの間ぽかんとしていたが、やがて確信を持ったのか瞳の色がゆるゆるとほどけた。すると今度は頬を緩めて、「やはり風呂はいいな。考え事に向いている」と、にこにこしている。機嫌よく肩まで湯船の中に潜り込んだ彼が憎らしくなり、アメティストスは苛立ち紛れに湯を浴びせかけた。
「おい、何を勝手に納得してるんだ。ちゃんと説明しろ」
「む……。その前に移動しないか」
「あ?」
 レオンティウスは顔の水滴を拭いながら、真剣な面持ちで頷いた。
「いい加減、のぼせそうだ」






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