亡き王の祭壇.1







 乳白色に濁った湯は、春の沼のようだった。
「思ったより温いな。のぼせずに済みそうだ」
 良かったと、嬉しげな声が小波を立てる。大理石の浴槽は新しい訪問者を受け入れて、ざぶりと小さく湯面を揺らした。
「豪勢な浴室だろう。東方の技術を参考にしたらしい。父上が即位なされた時に新しく作り直したのだそうだ。戦場から帰って、ゆっくり血を洗い流す場所があれば翌日の寝覚めが良いだろう、と」
「……へえ」
 得意げに話すレオンティウスの声をおざなりに流し、アメティストスはこめかみを押さえる。
 広い熱浴室は湯気で眠たげに霞んでいた。並々と湛えた湯面は香油を混ぜてあるせいか不透明に濁っており、海や川でしか水浴びをした事がない者にとっては奇妙に思える。だが慣れてしまえば滑らかな湯は心地良く、こんな浴場の片隅にも目の覚めるような鮮やかな花が飾ってあるのを見ると、生まれ故郷に帰ったのだという思いが強くなった。雑草すら身を縮めるギリシャ本土の荒涼とした大地や、風と星しか信じるものがない海原で成長期を過ごしたアメティストスにとって、緑に恵まれたアルカディアの空気は拭いきれない子供時代の匂いがする。大仰な調度品がやや悪趣味だが、慣れてしまえば浴室に充満する乳香の湯気も柔らかく、凝り固まった身体を解す格好の場所だった。
 問題は隣に座る男である。
「で、だ。何故お前がここにいる?」
「……何故って」
 隣に腰を落ち着けて、年若いアルカディア王はきょとんと不思議そうに瞬いた。
「ここがアルカディア王宮で、私の住処だから……じゃないだろうか」
「馬鹿らしい、それが答えのつもりか。先代の話ではないが、俺も訓練から帰って一人でゆっくりしていた所だったんだ。何故お前と風呂に入らなくてはならない?」
「広いからいいじゃないか。二人くらい」
「貴様の目的を聞いているんだ」
「ああ。それなら勿論、親睦を深めに」
 レオンティウスは臆面もなく言った。手応えのない会話にアメティストスは小さく舌打ちをする。
 ギリシャ同盟軍と異民族がイリオン城砦で衝突してから数ヶ月。結果的には和睦が結ばれ、紫眼の狼率いる奴隷部隊はアルカディアに組み込まれる事になった。協力関係にある二人の英雄が血の繋がった兄弟だったと今では周りも知っている。
 その事実を持て余しているのは、見ての通り当の本人達だったが。
「……貴様はどうしてそう、面倒な……」
「ん、文字通り水入らずだぞ。楽しくないか?」
「面倒と言ったばかりのはずだが」
「そう遠慮せずとも良い。ほら、酒も持ってきたぞ」
「……時折、貴様と話している自分が途方もなく偉大に思えてくる」
 こちらの嫌味も聞かずにいそいそと酒を用意する王を見遣り、本当に血が繋がっているんだろうか、とアメティストスは眉を寄せた。彼と言葉を交わすようになって随分とたつが、未だに類似点を見つける方が難しい。
「大体な、風呂に入りながら酒なんて酔いが早まるだけだ。ぶっ倒れても知らんぞ」
「大目に薄めておけば大丈夫だろう。お前だって随分強いと聞いたし、まあ、飲み比べといこうじゃないか」
「言ってろ」
 ギリシャでは葡萄酒を水と一対一の割合に混ぜて飲む。普通の貴族連中は酒の用意くらい下働きの者にやらせるのだろうが、レオンティウスは浴槽の淵に置いていた酒を自らの手で準備していた。杯に酒を注ぐ彼の腕は逞しく、象牙色に近い肌をしている。日に焼けた首筋は褐色と言っても良いくらいで、どんなに太陽に晒されても季節を過ぎれば白く戻ってしまう自分とは違っていた。体質も似ていない兄弟だと、湯船に浸かりながら観察する。
 レオンティウスは奇妙な男だ。精力的に政務を仕切る様子は毅然として才覚を窺わせたが、私生活の彼はどこか輪郭が曖昧で、底の知れない部分がある。こうして邪険に当たっても薄く笑んだ表情が崩れる事はなく、こちらの戦闘意欲を削ぐ温和さに呆れるしかない。
 それでも彼の隣にいると先程感じた「故郷に帰ったのだ」という思いが一層強くなった。共通の懐かしい思い出がある訳ではない。一般庶民として育った自分と、王族して何不自由なく暮らした彼とでは見ていた世界が違うだろう。だがレオンティウスの髪や肌や立ち振る舞いに漂う空気は確かにアルカディアのもので、幼い頃に見上げた空が、脳裏でぼんやりと立ち昇るのを感じた。何故、郷里が同じ人間は匂いで分かるのだろう。
(――さっさと酒で潰してしまおう)
 感傷にも近い想いが煩わしくなって、アメティストスは邪魔な横髪を耳に掛けながら嘆息した。湯につからないよう結ってはいたが、既にしっとりと濡れた感触する。いっそ髪を解いて洗った方が早いかと考える傍らで、ふと、レオンティウスの視線に気付いた。
「何だ?」
「……いや」
 彼は微笑を浮かべる直前のような、淡い表情を浮かべた。
「私達はあまり似ていないが、それでもやはり血が繋がっているんだな、と感じる瞬間があるよ」
「……どこが」
「どこだと思う?」
 話題に食いついた事が嬉しいのか、そう切り返す声は僅かに弾んでいる。
「分からないから聞いているんだ。こっちは未だにお前を兄と実感した事はないんだぞ」
「残念だな。せっかくだから少し考えてみてはどうだ?」
「もったいぶる程の答えでもないだろう」
「いいから考えて。酒の後で教えよう」
 反論を押し込めるように葡萄酒を差し出された。相手が質問に応じる気がないと見て取って、諦めて杯を受け取る。付き合うしかなさそうだった。


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