這いずる地に草はなく.2











「……あにうえ!」
 珍しくぼんやりとしていたらしい。物思いから覚め、背後からの呼び声で振り向くスコルピオスは、ぱたぱたと走ってくる屈託のない笑顔に眉を寄せた。
 庭に面した回廊。柔らかい茶色の髪を揺らし、茂みの中から弟がこちらに駆けてくる。遊んでいたのか服のあちこちに芝生の枯れ草を付けており、従者のカストルが慌てて後を追ってくるのが視界に入った。
「どこにいかれるのですか?」
 レオンティウス誕生から四年。様々な言葉を覚え始めた最近では、盛んに周りの者に話しかけて場を和ませていた。しかし先程までヒステリックな母親から父や王族に対する恨み言を延々と聞かされてきたスコルピオスには、子供の甲高い声も耳に障る。
「……父上の所だ。ラコニアとの講和会議から帰ってくるらしいからな」
「ちちうえが?」
 本当なのかと確かめるように、レオンティウスは背後のカストルを見上げた。彼は代々王家に使える家系で、兄のポリュデウケスと共に宮廷で重宝されている。実直な男で、王子を支える第一の家臣であった。彼は異母兄弟の政治的な立場をよく分かっているので、一緒にさせて良いものかと思案げにしている。
「……ええ。お耳に入れるのが遅くなって申し訳ありません。暫く遠出をして王宮を留守にしていましたが、ようやくお帰りになるそうですよ」
 そう聞いてレオンティウスの顔が輝いた。何故今まで言わなかったのかと従者に責めるような事はせず、何よりも父親が帰ってくるのが嬉しかったらしい。あにうえ、と再びこちらを見る。
「ごいっしょしてもよろしいですか?」
「駄目だ。そんな格好でお前は父上に会いに行く気か」
「……?」
 レオンティウスは不安げに眉を下げる。兄の視線を辿り、ようやく自分が芝生の草を体中にくっつけている事に気付いたらしい。慌てて手を動かし、草を払った。
「あの、これでいいですか?」
「……勝手にしろ」
「っ、はい!」
 喜んで後ろを付いて来る。速度を落とさずに歩きながら、この幼い弟をスコルピオスは未だ理解できずにいた。
 雷神の寵児と呼ばれたレオンティウスだが、だからと言って近寄りがたい神性がある訳ではない。幼いながら品のある顔立ちと温和な雰囲気には、彼の力になりたいと自然と人に思わせる愛嬌と求心力が備わっていた。今年から家庭教師がついたが、得意科目に多少ばらつきはあるものの才能があると認められている。
 愛される王子――まさにレオンティウスは望まれた世継ぎだった。
 子に咎はないと言え、スコルピオスが自分の立場を奪った弟を憎まなかったはずがない。レオンティウスが生まれた当時、不要になった兄は邪魔だと命を狙う一派が宮廷内にいたのも確かだ。
 王がスコルピオスを庶子として位を下げ、王位継承権を剥奪した事で事態は鎮静化したが、母親は自分たち親子の境遇を恨んで離宮に閉じこもった。年々ヒステリックになっていく様子は手のつけようがなく、誰もが扱いに困り果てている。息子を溺愛するあまり見境のなくなる母親を、スコルピオス自身も持て余していた。
 弟が生まれてこなければと、幾度そう思ったか知れない。自然と態度も厳しいものとなり、父王が自分にした事を再現したかのように、彼は弟に冷たく当たった。
 しかしいくら素っ気なく相手にしても、めげずにレオンティウスは兄を慕ってくる。おそらく誰にでも慈しまれて育つが故、敵意を敵意だと分からないのだろう――自分とは真逆の生だ。苦々しい。
 やがて回廊を過ぎ、二週間ぶりの王の帰還を知らせる騒ぎが聞こえてきた。外門から人々の話し声がする。
 見ると、馬から下りたデミトリウスがイサドラの接吻を受けて笑んでいた。睦まじい両親の姿を見ると待ちきれなくなったのか、レオンティウスは転がるように隣を駆けて行く。
「ちちうえっ!」
「おお、レオンか」
 飛びついてくる我が子を、デミトリウスは逞しい両腕で軽々と抱き上げた。きゃっきゃっと身をくねらせて笑う王子を、正妻と共に眩しげに眺めている。
「また重くなったな、この腕白坊主め。留守の間も元気にしていたか?」
「はい!」
 スコルピオスは立ち止まり、奇妙な物でも眺めるように目を細めた。羨望とは違う。絵に描いたような幸福な家族は完璧すぎて、いっそ作り物めいて見える。
「殿下はお会いにならないのですか?」
 踵を返しかけた所を、いつの間に姿を現したのかポリュデウケスが引き止めた。数年前からの教育役である。がっしりとした体躯に似合わず文武の両方に優れ、時には参謀まがいの事もする男だ。
 聞きようによっては嫌味とも取れる台詞だが、本心から見かねたらしい。実直すぎる弟のカストルと違って飄々とした所のある彼が真面目な顔をしている。一人引き返そうとする庶子の王子が、そんなに痛ましく見えたのだろうか。
「……俺は後でいい。構うな」
「そう遠慮せずに行けばいいでしょう。陛下は困った御人だが、貴方もあそこに入る権利はある。臆する事はありません」
 ポリュデウケスは自分の子供にでも言い含めるような口調で言う。気に障った。
「父は、誰にでも愛情を振り分ける人ではない」
 スコルピオスは薄く笑う。
「息子は一人しか持たないと宣言しておいて、俺がまだ生かされている事の方が不思議なくらいだ」
 返事を待たずに歩き出す。再び回廊に出たところで、引きつった口元を手の甲で拭った。自分の言葉に傷ついているようでは情けないと、人知れず自嘲したのだった。

 南にあるラコニア王国と、再び剣を交える事になる。
「講和会議は決裂した。我が国の聖地を狙うと表明したラコニアに、報復を行う」
 故郷に帰還したその日、デミトリウスはすぐさま戦の準備を命じた。
 地上で最も神の加護が強いとされる聖地は、アルカディア王国の領地内にある。レオンティウスが神託が受けた神殿もそれだ。同じペルポネソス半島にあって南北を隣り合うラコニア王国は、この聖地と国境線を巡って長年しのぎを削る敵対国である。
 このようにして当時ギリシャの王国は、それぞれが戦乱の中にあった。どこか一つの国が勢いを増すと、周りが結束して叩き潰す事の繰り返しである。一時的に同盟を組む事はあっても長くは続かない。
 今回の戦場となったのは東の国境線。二週間の移動で辿り着いたアルカディアの山々が終わりを告げる平原で、二国の戦力が存分にぶつかり合う陣営が組まれた。
 この戦で、スコルピオスは初めて父王から最右翼の部隊を任される事となる。しかし彼の正面に向かい合うラコニア軍は屈強さで名が知れる一隊であった。いくらアルカディアの双璧とされるポリュデウケスが補佐に就くとは言え、初陣の殿下には荷が重いのではないか、と臣下たちは困惑した。
 ――本当に父上は、俺を殺すつもりなのかもしれない。
 重要な戦局を任されたと喜ぶような、そんな単純さは勿論なかった。太陽はまだ昇らない。周囲でがちゃがちゃと鳴る戦装束や武器の穂先が、死ね、とスコルピオスに迫っているような気がする。
 ――国元に後継ぎのレオンティウスが残っている。ここで自分が死んでも、かえって後の憂いが断たれたと喜ばれるのだろうか。
 王位継承者のみに許される雷槍も使えない。母が用意させた剣を持たされていたが、いくら随一の職人が作った武器でさえ、どうしても神器には見劣りする。心許ない。
「緊張なさっているようですね。殿下」
 隣に馬を並べたポリュデウケスが、例の落ち着いた口調で問うた。淡い笑みさえ浮かべている。普段なら無視するところだが、夜明け前の異国の風に当たって気が変わった。
「……見ろ。父上の左翼にカストルがいる」
 問いには答えず、スコルピオスは低く本陣を指差す。
「お前たち、兄弟仲は良かったな。どう思う?」
「……どう、とは?」
「今回の戦で、お前は俺の補佐などと言うお守り役。武勲を上げるには不利だ。しかしカストルはレオンティウスから離れ、指揮官として一部隊を任された。不当だとは思わんか?」
 どうしてそんな質問をしたくなったのか自分でも分からない。やはり気が高ぶっていたせいだろうか。一言、弟が憎いと言う台詞を聴きたかった。しかしポリュデウケスは動じずに、思いませんな、と快活に答える。
「私が殿下の補佐に回ったのは、貴方をお守りする為でしょう。余程、こちらの方が責任が重い」
「……物は言いようだな」
 食えない男だ。簡単に言い包められる。スコルピオスは舌打ちをして、同族を得ようとした女々しさと、戦いの前だと言うのに雑念に駆られている自らを恥じた。
 やがて乾いた平原の向こうで白々と夜が明けていく。待機の時間が終わった。地平に砂塵が立ち始め、本陣が動き出す地響きが馬を煽る。引き抜いた剣の重さが掌を湿らせた。
 当時スコルピオスは十四歳。初陣である。




 * * * * * * * *



 幾度、死ぬかと思った。
 最初の一人が絶命した顔を覚えている。騎馬で斬り合い、叩き落した。次の相手は腕を切り落として、倒した。その後からは何も分からなくなった。
 これほど必死になった事が今までの人生の中であっただろうか。
 目が覚めるような恐怖と、興奮だった。敵と味方が入り乱れる戦場で自分はあまりに小さく、いつ首と胴が離れても不思議ではなかったのだ。
「殿下!」
 一度、落馬した。背骨が悲鳴を上げ、敵兵の槍が脳天を狙う。慌てたポリュデウケスが身を挺して庇い、攻撃を受け止めたのを視界の隅に見たが、感謝する時間も何もない。ひたすら前に進んだ。
 無様に転がりながら這いずって砂にまみれ、死にかけた負傷兵を踏み越えながら逃げる。主をなくして所在無げにしている馬を見つけ、どうにか手綱を握って再び騎乗した瞬間、自分が泣いていると知った。
 死にたくない。
 それからは無我夢中で切り抜けるしかなかった。目の前の敵を倒せば、そのぶんだけ死が遠のく。次も、その次も、自分の命を永らえさせる為に。
 ――父上。
 血に酔ったまま敵を斬りつけながら、呼びかけるように湧いてきたのは、今まで躊躇っていた父への激しい憎悪だった。
 自分を常に孤独たらしめた者、自分をここに送り込んだ者。愛されたいと望んでも、決して与えなかった者――その全ての感情が、まるで死を覚悟した者だけが悟る速さで一気に胸の奥底から湧き上がる。
 ――俺が、ここで死ぬはずがない。死んでいいはずがない。
 この世の理不尽な汚辱の中で滅びるに任せようと、このまま、哀れな庶子として使い捨てられる事だけは我慢ならなかった。馬鞭をふるって兵を率いながら戦場を駆けると、世界は驚くほどの単純さでスコルピオスを呼び覚ます。
 殺すか、殺されるか。人間にはそれしかないのだと。
 剣を振り、人の命を絶つたびに、自分の中の脆い部分が泣きながら生まれ変わっていくのを感じる。叫ぶように生きあがく、己の本能を感じる。
 やがて太陽が真上に来る頃には、怒涛のようなアルカディア軍の攻撃に押されたラコニア軍は敗走を始めた。気がつけば馬もろとも血と砂にまみれ、刃こぼれした剣からどろどろと滴っている。
「勝った――」
 いや、正確には「生き残った」と言うべきだろうか。高々と剣を掲げて隊をまとめながら、スコルピオスは笑みを浮かべる。
 体が震えるほど喜びが駆け上がり、自分が何か重い糸の一つを断ち切ったのだと、そう知った。







TopMainMoira



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -