地の贄、海の榊.3









 部隊に警戒態勢を敷かせる際、シリウスが適当にでっちあげた理由は「このあたりの有力者が海賊を恐れて傭兵を雇ったらしい」と言うものだった。それは半ば事実で、度重なる彼らの襲撃で丸損をする奴隷市場の商人、あるいは領主たちが自衛する為に私軍を作り、彼らを警戒するのは珍しくなくなっていたのである。部隊の兵たちは納得し、見張りを立てながら慎重に海を渡った。
 船はそのまま二日、何事もなく進んだ。一度だけ時期外れの霧雨に見舞われたが、その後は天候にも恵まれ、不振な船が近付けばすぐに発見できる穏やかな航路である。水平線はどこまでも広く、左手には人気のない岩場ばかりが続いていた。人目を避ける為、やがて彼らは進路を西に取り、陸地から離れて沖合いを目指した。
(……まだ、いる)
 アメティストスは甲板に佇みながら、じっと兵たちを眺めている。櫂を漕ぎ、剣技を競い、帆に海鳥の群れが戯れているのを喜んで見上げている男たちの背後には、変わらず《影》が取り憑いていた。その色は日増しに濃くなっていく。アメティストスは長年の経験からそれを四日以内だと想定していたが、ここまで濃くなってしまえば残りの刻限がどれだけ迫っているのか判断が難しい。
 部隊が今回の獲物に定めたのはボイオティアの港だった。出航する奴隷船を海上で襲う計画の為、最終的な目的地は港近くの沖である。夜は近くの入り江に隠れ、昼になれば狩りに出る。巣から飛び立つ鳥を次々と射殺すように、一度の船旅で多くの奴隷船を捕まえるつもりだった。
 しかし《影》が出た以上、どこかで綻びが出るはずである。アメティストスは何度か引き返すべきなのかと考えて実際に実行してみたが、不思議な事に《影》は薄くなるばかりか、反対に濃くなっていくのだった。まるで道を逸れるを許さないとばかりに。アメティストスは悩んだ末、計画通りボイオティアに向かう道を選んだ。
 かつて彼がエレフセウスだった頃、何度か《影》を追い払う事はできないのかと奮闘した事がある。奴隷としてイリオンで酷使されていた少年時代だった。しかしあの場所では死が身近にありすぎて、相手を死に至らしめる原因が何なのか――役人の奮う鞭なのか、飢えなのか、あるいは自殺なのか――すら特定できず、《影》はやすやすとその色を深め、目の前を掠め取るようにして命を刈り取っていたのである。エレフもいつしかそれに慣れ、無駄な事はしなくなっていた。
 しかし、もしあの時、《影》に取り憑かれたのがオリオンだったら自分はもっと抵抗を続けていたかもしれない。あの時代、唯一心を許せた相手。彼が死ぬとしたら、おそらく今のように動揺していたはずだ。
 シリウスは少しだけオリオンに似ている。こちらの不安を察しても何でもないように笑いかけるところや、生きているのが楽しくて仕方なさそうに見えるところが。アメティストスは彼らのように光の下で生きるべき男たちが奴隷として酷使されるのが我慢ならなかった。そして《影》を見る稀有な能力を持っていながら、大事な人を助ける事もできない自分にも苛立っていた。
(ミーシャもこんな気持ちだったんだろうか)
 ふと、そんな想いが沸き起こる。海賊に拾われて遠洋に出ていた頃、妹はレスボス島で巫女になっていた。先見の巫女と呼ばれ、未来を見通す事ができると。彼女もまた傍観するだけの己の能力に絶望していたのかもしれない。だから進んで生贄になったのかもしれない。ずぶ濡れで引き上げた彼女の死に顔は奇妙なほど満足げだった。まるで一番悲惨な結末を避けられて喜んでいるように。
(でも間違ってる、ミーシャ)
 他のどんな未来と引き換えにしても、投げ出していい命ではなかったのだ。そんな事の為に母が妹を産んだ訳ではない、父が慈しんだ訳でもない。あくまで彼女の人生を歩ませる為に与えた命、そしてエレフが長年捜し求めた命だった。
 もうあんな光景は見たくない。ならば勝ち取らなければならなかった。どの命も、どの未来も、どの自由も、自らの剣で。
 船がボイオティアの領海に入ると、アメティストスはまず小船を出して港の様子を探らせる事にした。シリウスの言う通り、慎重にしすぎて悪い事はない。
「俺たちが航海している間にきな臭い事が起こっていても不思議じゃないですし、陸には六人、出しましょう」
 シリウスが両手を広げ、指で人数を示しながら言った。その背にも《影》を負っているのも知らず。
「旅人になりすまして、色々と聞いて回らせる。そのくらいの人数なら一日あれば大体の事は把握できると思います。翌朝に入り江で落ち合って、報告を聞く。何事もなければ計画通りに奴隷船を探しに船を出し、何か異変があれば様子を見て待機。不測の事態で緊急の連絡が取りたい時は、鳴り矢を放って知らせる。それでいいですか?」
 アメティストスはその案を許可した。さっそく小船が一艘下ろされ、四隻の中から年齢をばらけさせて選んだ六人の男を乗せる。一番若い者で十六、上で五十。それぞれの年齢層で聞き出せる情報があるだろうと踏んでの事である。アメティストスは彼らを見送ろうと海面に視線を向け、続いて目を剥いた。
 一人だけ《影》の取り憑いていない者がいる。
 若い男だった。四隻のうち、今まで最後尾の船に乗っていた為に見逃していたが、彼だけが黒い《影》の中からぽっかりと浮かび上がって見える。彼は比較的最近になって部隊に参入した青年で、アメティストスもあまり話した覚えがないが、ひどく物静かな印象があった。服の袖からむき出しになった二の腕は細く、剣を持つには適さないように見える。だからこそ警戒心を持たれにくいだろうと偵察の任に選ばれたのか――いや、もしかしたら自ら立候補したのかもしれない。
 反射的にアメティストスは船べりに手を掛けた。そして両足を持ち上げ、ひらりと小船へと飛び移る。一気に体重がかかった事で船体は大きく揺れ、先に乗り込んでいた六人の男たちは泡を食って重心を取り直した。
「私も行く」
「ええっ」
 驚いたのはシリウスを始め、部下たちである。
「いや、待ちましょうよ、あんたは俺たちの頭なんですから!わざわざ真っ先に乗り込まなくても!」
「他に用事ができた。留守中の指揮はお前に任せる。船を出せ」
 手がかりを見逃す訳には行かない。事務的な中にも頑なさが垣間見れるアメティストスの態度に何を言っても無駄だと判断したのか、不本意そうにシリウスが頭を掻いた。
「俺は反対ですけどね……ちっとも聞きゃしねぇ。いいですよ、分かりました。せめて行くなら髪を隠してください。あんた、目立つんですから。目も紫だって気付かれないようにね」
 そう言って部下に白い外套を持ってこさせると、ばさりと宙に放った。それを受け取り、頭から被る。シリウスは理由が分からずに渋い顔をしていた。それをいなすように片手を上げ、再び小船を出すように支持をする。陸が近付いた証に海の色は紺碧から緑色を帯びたものに変わっていた。櫂を漕ぐ六人の男をアメティストスは順繰りに眺め、その視線を何気なく止める。
 死ぬ運命の人間を、果たして助け出す事ができるか――。
(私を試す気か、冥王) 
 目まぐるしく思考を働かせながら口元を緩め、かろうじて笑みの形を取る。アメティストスは船べりに腰を下ろすと、そっと《影》のない青年に視線を送った。







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