地の贄、海の榊.2








 古代の船は喫水が低く遠洋に向いていない為、夜になれば港に入れるのが一般的だった。
 奴隷部隊は人目を避ける為、無人の浜を見つけて野営する事が多い。寝床は天幕を張って作る。その日の夕方も浜辺に腰を落ち着けると、慌しく夕餉の時刻となった。
 食事は船に積んであるものを使った鍋が定番だが、料理に詳しい者が近場から野草を採取したり、簡単な狩りをして兎や鳥を捕まえたりと、毎度それなりのものが仕上がってくる。
「これ、ちょっと味が濃いんじゃないか?」
 シリウスが紛れ込んで口を出すと、調理班の面々は一様に不満げな顔をした。
「これがボイオティア風なんです。もう、毎回そうやって口を出すならシリウスさんが担当して下さいよ」
「そうそう、たまに作って下さるシリウスさんのごった煮、どの国の奴らにも評判いいですし!」
「焼き魚も単に焼いただけなのに、異様に美味しいんですよね。何かコツとかあるんですか?」
「お前らなぁ、これ以上俺に仕事を増やそうっての?」
 料理は得意でついつい口を出してしまうが、そうでなくとも部隊を切り盛りする雑務は多い。そこまで手が回らない。しかし部隊の中でも少年と呼んでいいほど年若い者が調理班に割り当てられているので、シリウスは弟の面倒を見るような気持ちで様子を見に来てしまうのだった。そんな訳で彼らは無駄に親密度が高い。
「それにしても急に進路を変えるなんて珍しいですね――いってぇ!」
 調理班の若者が鍋の味を見ながら言うと、もう一人がすかさず頭を叩いた。
「馬鹿お前、そりゃアメティストス様の事だ、何かお考えがあるに決まってるだろ!」
「まあ……そうだな、風が弱いせいじゃないか。このままだと船足が鈍るばかりだし」
 シリウスは苦笑しながら答えたが、その実、急な進路変更が気になっていたのは彼も同じだった。アメティストスが突飛な策を取るのは珍しい事ではないし、海を相手にしていると柔軟な対応を迫られる事が多々ある。だが、問題はアメティストスの様子がおかしかった事だ。
(血相を変えた大将って、初めて見たかも)
 心なしか顔も青ざめていた。彼が天候の変わり目に敏い事を知っていたシリウスは、さては嵐でも来るのかと指示に従ったのだが、その後も天気が崩れる訳でもなく、普段よりも早く航海を取り止めて、浜に停泊しただけだった。
 となると、一体彼を焦らせたものは何だったのだろう。普段あれだけ動じない青年が、幽霊でも見たような顔で瞳を凍らせていたのは。
 そう考えると、シリウスとて腹の底がすっと冷えるような不安に陥る。しかし部下の前でそれを見せる事はできず、少しばかり味を薄めた鍋を碗によそい、自分の天幕に戻る事にした。シリウスもシリウスで、もう少し落ち着いて考えてみたかった。
 配給所から天幕までは少し距離がある。零れかけた汁を慌てて啜りながら歩いていると、件のアメティストスを見つけた。剣だけを腰に下げ、砂浜をなぞるように歩いている。上陸した彼がふらふらと出歩いているのは珍しい事ではなかったが、先程の事もあってシリウスは直感的に声を掛けた。
「どうしたんですか、もう夕飯ですよ」 
 振り返ったアメティストスの目の鋭さに、びくりと不穏なものを感じる。彼はシリウスを見て微かに顔をしかめた。そして躊躇うように唇を舐めて湿らせ、こちらに向き直る。
「……何か異変はないか」
「いえ、特には」
「見張りは立ててあるだろうな」
 当たり前の事を改めて確認するのは、不安の表れなのだろうか。やはりとシリウスは表情を引き締めた。
「何かありましたか?」
「……いや。今のところは」
 ないんだが、とアメティストスは語尾を風に流す。誤魔化されていると言うよりも、彼自身がどこか気持ちを持て余しているような居場所のない口調だった。剣の柄に手を置いたまま絶えず何かに警戒している。天候だけでなく、彼の勘が鋭いのはシリウスとて知っていた。
「大将が気掛かりなら見張りも増やします。幸い、海でも暇をしていましたからね。体力の残っている連中ばかりです」
 提案すると、アメティストスは何かを躊躇う素振りを見せる。表情に大きな変化はない。ただ、その目の中で一瞬ひらめいた脆い光のようなものが気になった。深い理由を尋ねてみるべきだろうかと口を開きかけたが、アメティストスに先を越された。
「では見張りを増やせ。四日……それまで持たせろ。四日やり過ごせば、おそらく何も起こらない」
 神託の巫女のようにそう吐き捨てると、彼は再び歩き出そうとする。シリウスは思わず呼び止めた。
「何か気掛かりなのに、理由、言ってくれないんですか?」
 ぱっと飛び出た問いだった。シリウスとて何から何まで彼の考えを把握していなければ気がすまない男ではない。アメティストスにも何か考えがあるんだろう、とあれこれ思案しながら命令を聞き、結果に結びついた時、ああそういう事だったのかと答え合わせをする。それだけでも別に構わなかった。あまり距離を詰めすぎれば、この野生の獣めいた青年がふいっと姿を消すような気がしていたせいかもしれない。人里のわずらわしさを避けて、また一人で剣を取る事を躊躇わないだろうと思えた。
 僅かに非難めいたその問いの珍しさに、アメティストスも足を止める。振り返った顔は意外そうに目を眇めていたが、シリウスを改めて見つめなおした後、彼は静かに首を振った。
「別にお前を信頼していない訳じゃない。ただ、私にもよく分かっていないだけだ。……シリウス、お前、この部隊が全滅するとしたらどういう状況だと思う?」
「全滅?」
 思わず聞き返す。あまり穏やかな単語ではない。しかし、ようやく不安の一部を明け渡す気になった主人の前で派手に驚く事はできなかった。内緒話は小声でやるものと相場が決まっている。不吉なものならば尚の事。彼が抱え込んでいた問題を傷つけずに、そっと紐解く為には。
「海ですか、それとも市場で?」
「場所は限らない。ここ数日の間に起こるとしたらだ」
 シリウスは腕を組もうとして、持っていた汁碗が邪魔だと気付いた。すっかり湯気が立たなくなってしまっている。
「……あるとしたら、手の内を読まれての奇襲、ですかね。俺たちがこれまで無事でこれたのも、市場を狙うにしても不意を突いて上陸する事を徹底してきたからです。奴隷市場を襲う神出鬼没の船、いつどこで刃を向けられるか分からない、足取りも掴めない。それが崩されるとなれば、やはり弱いかと」
「奇襲……そうだな」
「だから見張りを増やせ、なんですか?」
「そんなところだ」
 もしかしたら何か悪い夢でも見たんだろうか。この時代、夢とは神と通じる道のひとつであると考えられている。巫女でなくとも神託は下る。アメティストスもそうした声なき声を聞いたのかもしれない。シリウスは気持ちを切り替え、明るい声で頷いた。
「まあ、慎重にしすぎて悪いって事はありませんもんね。分かりました、少し体制を変えましょう。航路にも斥候を立てませんか?安全を確認してから本隊が動くように」
「構わん。やってくれ」
「承知しました。大将も他に何かあれば言ってくださいね。日程を変えるのだって別に問題じゃないし、引き返す手だってあるんですから」
「ああ」
 アメティストスはようやく口元を緩めたようだった。多少おざなりなものだったが、それでも笑みは笑みである。シリウスも話の区切りを示すように碗の汁をすすり、「早く取りに行かないと冷めますよ」と笑顔で配給所へ促した。







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