地の贄、海の榊








 己の絶望にしか興味がなかった。だからこそ、名を捨てるのも簡単だった。
 陽の中に死を、風の中に血を、神の中に報復を見出して。それが少しずつ形を変え、武器を持ち、部下を得て、正しいものに擬態しようとしていても、つまるところ紫の瞳に映るのは絶望の親類に他ならない。
 ――生を憎め。
 耳元で囁く声は、彼を焚き付けるだけ焚き付けてすぐに消えてしまった。亡き妹を泉から引き上げ慟哭に暮れた夜、その手に黒き剣を握らせた姿なき死神は、決して説明を施さない。首を駆る武器と死を見通す瞳だけを与え、気紛れに甘言を囁くだけで、何を期待しているのか明かそうとはしなかった。
 与えられた能力を持て余しながらも、しかし彼は英雄の衣を纏って、復讐譚を始めていく。
 船旅に身を置くたびに周りの景色は色合いを変えた。アルカディアの青、マケドニアの緑、テッサリアの茶――しかし人々に纏わりつく死の色は変わらない。
 彼はそれを確かめるたび、徐々に世界の毒に慣れていった。命は砂を撒くように大地から零れていく。
 病んだ黒。
 それがエレフセウスことアメティストスが最も親しんだ、この世の色である。





* * * * * *






 風が凪いだ日の船は、不思議な活気に溢れていた。
「やった、俺の勝ちだ!」
 若い兵が叫んだ途端、どっと歓声が湧く。打ち込みをしていた二人を囲み、賭けに興じていた男たちが手持ちのささやかな金をやり取りし始めた。甲板の一段高いところでそれを眺めながら、アメティストスは自然と頬を綻ばせる。
(こんな時くらい休めばいいものを、よくやる)
 部隊の本拠地である、テッサリアの隠れ里を立ってから数日。アメティストス率いる四隻の船は海岸線を北上し、市場から出航する奴隷船を海上で待ち伏せする算段を立てていた。しかし風の弱い日が続き、なかなか前へと進まない。退屈を持て余していた部下たちが剣を取り、試合形式で賭け事に興じ始めていた。
 部下が勝手に始めたお遊びだが、特に目くじらを立てる気はない。賭け事とは言え、剣技には強くなろうとする実直な熱心さがあった。アメティストスも彼らの試合を鑑賞して退屈しのぎとしている。
「シリウス、最後はお前が相手をしてやれ」
 名前を呼びつけると、風の様子を見ていたのだろう。帆の膨らみを観察していた相手はこちらを向き、きょとんと自分を指差した。
「俺がですか?」
「ああ、あいつらも喜ぶだろう」
 シリウスは甲板の騒ぎに目を移し、顔を和ませる。
「仰せの通りに。でも、あんたが出た方が盛り上がると思いますよ。少しくらい構ってやったらどうです?」
「馬鹿言え。私が出ては賭けにならん」
「ははっ、確かにあんたが負ける訳ないか。なんせ天下の大将だ」
 午後の日差しの中、彼の開けっぴろげな笑いにかかれば、大げさな扱いもそう悪い気はしない。
「じゃあ張り切ってやって来ますよ。俺の剣だって様になってきたんです。あんたほどじゃないですけど、そう負けやしませんからね」
 シリウスは大剣を担ぐと、壇上から「おーい、俺も入れろ!」と気安く声を張り上げた。彼が参加すると知り、部下たちは子供のようにはしゃいでいる。残されたアメティストスは風で乱れる髪を背中に払いながら、ふっと目元を細めた。
 主人の打算など知らずに尻尾を振る犬たちの、なんと保護欲をそそる事だろう。馬鹿な犬ほど愛しいと、そんな言葉を引用する事もできる。今思えば彼らを助けた理由も後付けに近いのに。
 奴隷船を選んだのは自分の過去を髣髴とさせる事は勿論だが、突き詰めれば、能力を見極めるのにちょうど良かったからだ。単に自分は試したかっただけ。死ぬ運命の人間を助け出す事ができるのか、知りたかっただけなのかもしれない。
 けれど実際に手を差し伸べてみれば、その懐きように驚かされる。耳障りのいい言葉だけを吐いて、都合よく彼らを利用している己の醜悪さには反吐が出るが、しかしその実、笑いたいような穏やかな高揚も確かに存在していた。
 子供じみた破壊願望も、彼らの前では美しく善良に生まれ変わる。それは決して居心地が悪いものではない。
 しかし――そう思い上がっていた事への罰だったのか。あるいは更なる傲慢さを、この体から引き出す為の撒き餌だったのか。
 その日、常と変わりない船の甲板へと目を走らせた時、陽炎のように揺らめいたものがあった。すっかり慣れ親しんだ黒き《影》がアメティストスの心を再び少年時代へと引き戻す。
 最初、それは単なる残像に思われた。シリウスが試合に割り込んで、年若い兵を相手に剣の打ち込みをしている。その背に、ゆらりと黒いものが走った。残像にしては形がはっきりとしている。死を招く《影》の黒。
 久々に、身が震えた。
 弾かれるようにアメティストスは視線を走らせる。その《影》は船上の人員、ほぼ全てを捕らえていた。まるで船全体が煙に巻かれたように、彼らは黒き《影》を背負っていたのである。
 ――何が。何が起こると?
 反射的に水面を覗き、己の背後を確認する。《影》はなかった。自分は死なない。死ぬのは他の兵たちだけだ。
 急速に口の中が乾いていく。アメティストスは顔をしかめた。数人ならば戦いで散るものだと諦観もできよう。しかし今回は数が数だ。失うものがあまりに多すぎる。一体どのような災禍が行く手に立ちふさがるのだろう。ご丁寧に自分だけを残して。
「どうかしましたか、大将?」
 試合を終えて汗を拭いながら、シリウスが不思議そうに尋ねてきた。僅かな逡巡の後、アメティストスは首を振る。どうしてか誰にも動揺を見せたくなかった。見せたら、それが現実になるものと認めるようで。
「……いや、何でもない」
「少し顔色が悪いですね。まさか今になって酔いました?」
 場を和ませるシリウスの笑いが、今ばかりは空回りして耳に響いた。
(冥王、いるのか?)
 宙に呼びかけても返答はない。アメティストスは頬の内側を噛みながら、言い知れぬ不安に立ち尽くしていた。



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