吠え笑え子供達.1










 月が嫌いだった。
 特に丸い月が。
 水に映ったそれを見つめたまま、妹がいつまでも動かない泉があったから。あれが欲しいと駄々を捏ね、家に帰りたがらない夕暮れがあったから。
 ――早く帰らないと、野道が分からなくなってしまうのに。母様のご飯が冷めてしまうのに。
 妹は嬉しそうに水辺にしゃがんだまま動かない。絶えず光を増していく月影は、自分達を引き離そうと狡猾に膨らんでいく。日が落ちて闇が濃くなる森の中、丸々と肥えていく月は妹の髪まで金色に塗り替えてしまった。
 ――ミーシャ、月に食べられちゃうよ。
 そう涙声で訴えても、彼女はなかなか聞き入れてくれない。だってこんなに綺麗なんだもの、髪に飾ってみたいね、なんて無邪気に笑うだけで。強引に手を引っ張るまで動いてくれない。
 そんな記憶のせいだろうか。遠く引き離された今でも、月を見るとぞっとする。取り返しの付かない時間まで遊び呆けてしまって、ミーシャを水辺から連れ出すのを忘れてしまった時の焦りが蘇る。

 ――そう言えば今日一日、オリオンの姿を見ていない。
 イリオンの奴隷居住区。寝入り際、エレフは粗末な寝床の中でびくりと身じろいだ。窓から顔を覗かせる月を見上げ、条件反射のように不安になった矢先の事である。
 ここ最近は暑さのせいで朦朧とする事が多く、倒れるように眠りを貪る日々が続いていた。今日も今日とて泥のように手足が重かったが、月が引き連れてきた不吉な発見に体が緊張する。
 本当に友人の姿を見ていないのか、はっきりとした記憶がない。あやふやなままエレフは地面に肘を立て、ずるりと寝床から体を引き上げた。
 奴隷専用の寝所では誰がどこに寝るか決まっておらず、早い者勝ちで床が埋められていく。風の通る出入り口付近は人気が高く、空気の濁る窮屈な部屋の隅はハズレ。今夜エレフが寝床と決めたのは比較的当たりの部類に入り、そよそよと入り込む風が汗に塗れた肌を乾かしてくれた。
「オリオン……?」
 呟いても返事はない。ごろごろと横になった奴隷達のシルエットは、浜辺に打ち上げられた漂流物のように無造作に連なっていた。金髪はマケドニア人に多く見られる特徴だったが、そのどれもが今や砂埃によって鈍く霞んでいて、太陽の恵みを存分に受けて輝くオリオンの髪とは異なっている。エレフは眠気と戦いながら彼らを見渡し、そう言えば二日目だ、と気付いた。
 ――この二日、オリオンを見ていない。
 とは言え、彼はさほど本気で友人の身を案じていた訳ではなかった。こんな事は日常茶飯事、そう珍しい事ではない。
 ここ数ヶ月前からアナトリアの平和を祈念した神殿が新しく作られる事になり、仕事は目に見えて多くなっていた。そのせいか以前よりも風当たりが厳しくなっている。石を積む作業場では役人があれこれと指示をするので、一緒にいても仕事をしているうちに引き離されてしまう事も多いし、自由時間にしても奴隷居住区は常に混雑していて、友人と四六時中いる事は困難だったのだ。
(……他の所で寝てんのかな)
 おそらくここで居場所が確保できず、どこか軒下にでも寝転がっているのだろう。少し姿が見えないからと言って心配するほど弱い少年ではないし、何より死を意味する黒い影をオリオンの背後に見た事は一度もない――。そう考え、エレフは徐々に緊張を解いた。
 この不可思議な能力の正確さを、既に嫌と言うほど知っている。目を凝らせばこの寝所でも黒い影は容易く見分けられた。何人かは夜明けを待たずに息絶えるだろう。それは夜になっても闇に紛れる事なく、はっきりとした絶望の形で人々の魂を狙い続けているのだ。
 けれど、所詮は他人事だ。心を動かす余裕もない。気にしていたら精神が壊れてしまう。
 冴えた月に嫌な予感は消えなかったものの、やがて重たい手足に引きずられ、エレフはぐったりと寝入ってしまったのだった。

 翌朝、彼の能力を裏付けるように寝床には一人の老人の死体が残されていた。衰弱した体に夏の暑さがとどめを刺したのか、奴隷達が各自の仕事場に向かって散会する朝日の中、ゴザの上で冷たくなっているのが見つかったのである。
「可哀想になぁ……爺さんじゃねぇか。ただでさえ皺々だってのに、ぐったり干上がっちまって」
「供養してやりたいが、この暑さじゃすぐに腐っちまうし、早く谷に運んだ方がいいかもしれん」
 死体に気付いた他の奴隷達が集まり、難しい顔で相談している。眠い眼を擦って起き上がったエレフは彼らの声を聞きつけて、引き寄せられるように輪の中に歩み寄った。
 仲間の供養はしてやりたいが、体が腐って疫病が流行るとまずいし、何より早く片付けなければ仕事に遅れて役人に大目玉を食らうので、どうするべきか決めかねているらしい。
 エレフはしばらくの間、息を詰めて死体を見下ろしていた。
 大人達の隙間から見える老人の濁った目は、死の前兆を感じながらも助けもしないエレフの非情を恨んでいるようにも見える。
「おう坊主、いいところに来たな」
 ひょっこりと顔を出したエレフを見て、前に立っていた男が振り返った。
「悪いが役人達が来る前に、コイツを運んでやってくれねぇか?」
「え……」
「俺らは今日、西の壁を作るって言うんでそっちで働かなきゃならねぇし、谷まで行く時間がねぇんだ……このまま放っとくのも可哀想だし」
「そう、だけど」
 言いつけられたエレフは言葉を濁し、ぶるりと肩を震わせた。老人の死体に対する後ろめたさや恐怖ではない。生理的な嫌悪で、である。
 絶望の谷――。
 それは早い話が死体置き場であり、火葬場の呼び名だった。ギリシャでは魂を弔った後に火葬するのが正式な方法だが、日々何人と死人が出るイリオンでは死体を谷底に集め、炉にくべる薪のように一気に燃やしてしまう。
 いくら死の気配に慣れつつあると言え、そんな不気味な場所に好んで行きたくはない。エレフは困惑しながら足元の死体を見遣ったが、ふと、谷に行く名目ならばイリオンの中を好きに歩けるじゃないか、と気付いた。
 もちろん周囲には見張りがいるし、そう簡単に脱走できないようになっているが、少なくとも普段の石積みよりは力の要らない仕事だし、歩き回る途中でオリオンが見つけられるかもしれない。
「嫌な仕事で悪いなぁ。気ぃつけろよ、坊主」
 エレフが無言で頷くと、男達は申し訳なさそうに小さな手押し車を持たせてくれた。
 荷台に乗せた老人の体は気味が悪いほど軽く、車輪の振動で細い手足が時々ぶらりとはみ出す事があったが、直接担いでいくよりはずっといい。エレフは神妙な顔で手押し車を引き、てくてくと谷に向けて歩き始めた。
 早朝だと言うのに、外では石積みの作業が始まっている。左手に見える土手には奴隷達が黒く群がって、さながら蟻の巣のようだ。顔見知りの子供がこちらに気付いて不思議そうに動きを止めたが、エレフが死体を運んでいるのだと分かると、同情とも嫉妬とも付かない表情を浮かべて作業に戻っていく。死体運びは体力的には楽だが、まともな神経の残っている人間にしてみれば忌み嫌われる仕事なのだ。
 地面に転がる小石に車輪を取られながらも、エレフは注意深く道を進んだ。
 最初は薄気味悪く感じた死体も、感覚が麻痺して特に怖いとも思わない。薄く開いた瞼から白目が覗いている事さえ気にしなければ、老人の死体は全くの無害なのだ。エレフを怒鳴りもしなければ鞭打つ事もない。
 役人が見張る城門を潜り、海に面したイリオンの外に出ると、ざあっと吹き付ける潮風に涙が滲んだ。
 この砦の周りには常に風が吹いている。風神を始祖とする王族の血のせいだろう。砂を巻き上げ、視界を覆う風は天然の城壁となり、未来永劫イリオンを守る。その加護を受ける為、神殿は常に清められていなければならないし、供物を絶やしてはならないのだと言う。
 エレフは顔をしかめ、強い風に髪を遊ばれながらオリオンの姿を探した。海岸からの石運びの途中、よく彼がこの辺りでつむじ風と戯れていた事を思い出したからだ。
 オリオンが機嫌よく口笛を吹くと、まるで飼い主の足元に擦り寄る子犬のように小さな風が巻き上がる。エレフにはそれがひどく不思議で、風を読むコツでもあるのかと尋ねたが、おしゃべり好きなオリオンには珍しく「エレフが天気を読むのが上手いのと一緒だよ」と笑うだけだった――。
 しかし城門前には石運びの奴隷達が列になって歩いているだけで、親友の能天気な金髪など見つからない。オリオンがいればこの向かい風も弱めて貰う事ができるのにと、エレフは吹き荒れる砂が口に入らないよう口を引き結んだ。
 絶望の谷は、海とは反対側にある。まばらに草が生える砂浜が次第に硬くなり、足元が凹凸の多い岩場へと変わる事には、他にも死体を担ぐ人間の姿がちらほらと目に付くようになった。しかし嫌われる仕事のせいか誰もが背中を屈めて砂煙の中を足早に去っていくので、すぐに見えなくなってしまう。
 やがて人影も遠ざかり、両脇を岩に囲まれた上り坂を越えると、むわりと異臭が立ち上ってきた。エレフは手の甲で顔を庇うと、ゆっくりと視線を下へ向ける。
 谷、と言えるほど深い亀裂ではない。本当ならば窪地と呼ぶのが正しい言い方だろう。
 斜面は急だが底は見える。その中に広がるのは積み重なった無数の体、体、体――鳥に肉を啄ばまれた残骸に、人間であった名残を見つける事の方が難しい。点々と咲いている花が場違いに美しかった。
(……鼻が曲がる)
 エレフは一刻も早くここから出ようと、乱暴に荷車を傾けて死体を放り落とした。死んだ老人には申し訳ないが、丁重に扱うような余裕もなく、逃げるように谷底から顔を背ける。
 しかし踵を返したエレフは、ふと足を止めた。身を隠すように姿勢を低くしたオリオンが、谷に面した茂みの中を歩いている光景が目に入ったのだ。
(何やってんだ、あいつ?)
 声を掛ける事もできず、エレフはぽかんとする。確かに道中にオリオンが見つかればいいと思ていたが、まさか悪名高いこの谷で見つけるとは考えていなかった。
 オリオンはこちらに気付いていないらしい。茂みの中からひょいと首を出すと、木の根をつたい、谷底に向かう緩やかな斜面を下り始めた。エレフは親友の正気を疑ったが、かと言って無視する事もできずに彼の行動を見守る。
 オリオンは慎重に足場を選ぶと、着実に底に向かって下りていった。やがて身軽に死体の山へ飛び降りると、群がっていた鳥を木の棒で追い払う。そのまま彼は死体を踏み越え、躊躇う素振りも見せずにどんどん谷の奥へ進んでいった。
 エレフは混乱したが、大声を出して問い正す真似もできない。今ここに運良く自分しかいないから良いようなものの、こんな所を役人に見つかったらオリオンだって殴られるだけでは済まないだろう。逃亡を企てたとして殺されたっておかしくない。
 居ても立ってもいられなくなり、エレフも谷底へと向かった。耐えられないほど悪臭が強くなり、慌てて口元を塞ぐ。できるだけ死体を踏まないよう足場を選んだ。
「オリオン!」
 声を潜めて呼びかける。オリオンは飛び上がらんばかりに驚いて、へなへなと座り込んでしまった。
「なんだ、エレフかぁ。脅かすなよぉー…」
「驚いたのはこっちだ。こんな所で何してるんだよ?」
 尋ねると、オリオンは見るからに困った顔になった。
「……探し物。じいちゃんの形見、前に役人に取り上げられてさ、このへんに落ちてるかなって」
 里心がつくと辛いからと、これまで家族の話は慎重に避けていた。突然聞いた「じいちゃん」と言う単語が妙に生々しく、エレフは訳もなく緊張する。
「形見って……どんなの?」
「木のペンダント。小鳥が彫ってある奴。こんだけ探しても見つからないって事は、もう燃えちゃったかもなぁ」
 あははとオリオンは笑うが、彼が気落ちしているのは明らかだった。エレフは自分も探すのを手伝うと提案したが、もうそろそろ人が来て危険だから引き上げよう、と簡単に断られてしまう。
「両親がいなかったから、オレ、じいちゃんに育てられたんだ。じいちゃん、群れからはぐれた山羊を探しに行ったら崖から足を滑らせて死んじゃったんだけど、形見を探してオレが危ない目にあったんじゃ、やっぱり気に病むだろうから」
 諦める覚悟なのか、オリオンは早口に言う。もし家族の形見を失くしたのが自分だったらと置き換えて、エレフはぞっとした。
「本当にそれでいいのか?一緒に手伝うから、もう少し探したら……」
「だーめ。このへん、神殿の奴らも来るからマジ危ないの。終わり終わり!」
 口調こそ明るいが、オリオンは見るからに焦っていた。引き立てるようにエレフの手を掴むと、脇目も振らずに斜面を登っていく。
 もしここにいるのが彼だけならば、もう少し無理をしてでも探し続けていたのではないだろうか。自分が来たせいで余計な気を回してしまったのではないかと、エレフは後悔した。
 その日は久々にオリオンと組んで作業場で仕事をしたが、邪魔をしてしまった引け目でエレフは上手く笑えず、オリオンはかえって陽気に振舞っているので、ますます謝りどころがない。
 ――ペンダント、本当に燃えちゃったのかな。
 どうにかして確かめられないだろうか。エレフは石を運びながら、親友の代わりに何とかできないかと思いを巡らせていた。



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