吠え笑え子供達.2











 
 赤銅色の太陽が西の尾根に沈もうとしている。
 昼を追いやるように白い月が姿を現す頃、その日最後の死体運びに立候補したエレフは、再び絶望の谷へと足を運んでいた。手早く用事を済ませると、空になった手押し車を茂みに隠し、こっそりと斜面を下る。
 オリオンに言えば止められるだろう。だからこそ一人でやり遂げてしまいたかった。世話になった恩もある。彼は悪臭に耐えながら死体を掻き分け、探し物に専念した。
 しかし、どれだけ時間を掛けても見つからない。どろどろと死体の油が靴に張り付くのも不愉快で、エレフはすっかりくたびれてしまった。城門が閉まる時刻も近づき、帰らないと脱走者として追われる事になってしまう。
 ――やっぱり諦めるしかないのか。
 額の汗を拭って溜息を吐いたエレフは、そこでふと異変に気付いた。
 谷の上から女の声がする。それも一人ではない。複数だった。
 作業場には女の奴隷はいない。城壁を作る戦力にはならないからだ。となると、イリオンの自由市民だろうか。咄嗟に斜面にへばりついて身を隠す。
 女達のさんざめく声は次第に谷へと近づいてきていた。歌っているのだろうか。言葉までは聞き取れない。やがて足音は止まり、今度はごそごそと動き回る気配がする。顔を上げて様子を覗いてみると、彼女達は斜面に咲いている花を一心に摘み取っていた。
 ――何に使うのだろう。
 こんな薄気味悪い場所にまで花を探しにくる必要があるのだろうか。エレフが奇妙に思っていると、ぐっと背後から肩を押さ付けられた。岩場に叩きつけられた痛みで一瞬意識が白む。
「……っ!」
「こんな所で何かご用かなぁ、坊ちゃん?」
 突然の事で頭が働かない。しゃがれた男の声だった。酒臭い息が耳に掛かる。
「おや、奴隷じゃないか。逃げようとしていたのかね。ん?」
 手首に巻きつけていた鎖を乱暴に引っ張られ、エレフは小さく呻いた。首を捻って無理に振り返ると、背後には緑の上衣を羽織った男が気味の悪い笑みを浮かべて立っている。
「神官様ぁ、どうしたの?」
「あら、可愛い子」
「珍しい髪ね」
「ちょうどいい。連れて行きましょうよ」
 わいわいと頭上から女達の声が聞こえた。完全に見つかってしまった。ここには神殿の連中が来るのだとオリオンが言っていた事を思い出す。エレフは青ざめたが逃げ出す事もできず、谷の外へと引き出された。
(どうするつもりだ?)
 連中は酔っているらしい。連れ出されたのはイリオンの新しい神殿だった。建設途中のはずだが既に大部分は完成しているようで、正面には壮麗なレリーフが彫られている。空に浮かぶ満月に嫌な予感が膨れ上がり、エレフは小さく唇を噛んだ。
 中に入ると、むっと空気が澱む。香草を焚き込めているのか祭壇の脇に火を灯す台座があり、そこから紫の煙がたなびいていた。息を詰めたが、それも長くは続かない。
「さあ信女たちよ、目覚めよ!」
 エレフの鎖を離さぬまま、背後で神官が怒鳴る。その声と共に先程の女達が祭壇に近寄り、谷から摘んできた花を火にくべ始めた。紫の煙が更に濃くなる。まともに吹き付ける強い匂いが強烈で、エレフは何度も咳き込んだ。
 女達は花を燃した者から次々に広間へと集まり、ゆっくりと歌い出い始めている。それは徐々に大きくなり、やがて全員で輪になって踊り出した。服の裾を振り回す肢体は艶やかで、白い肌が篝火に照らされている。腰を振り、胸を弓なりに反らし、彼女達は奔放な性を隠さない。
 ――何の儀式だ?
 エレフは怪訝に思ったが、どう言う訳か頭がぼうっとしてきて動かない。手足がしびれ、歌声も徐々に遠く聞こえるようになる。
 かろうじて、祭壇に犠牲の豚を捧げるのが見えた。豚の断末魔の後に真っ赤な血が飛び散って、夏の水浴びを楽しむように女達が歓声を上げるのが聞こえる。豚の頭がボールのように投げ飛ばされ、続いて蹄のついた足が、内臓が、手から手へと渡されていった。どこから現れたのか輪には男達も加わって女と絡まり、宴は淫行な物へと移り変わっていく。
 いつの間にかエレフは床に座り込んでいた。場に満ちた異様な熱気に当てられたのか、嫌な汗が出てくる。気持ちが悪い。ぺたんと座り込んでいると、床に何か丸い物が落ちているのに気付いた。
 ――木彫りの、小鳥のペンダント。
 何故これが。オリオンも以前ここに?
 咄嗟にそれを掴む。朦朧とするものの、これが大切な物だと覚えていた。縋る物がなければ崩れてしまいそうで、単に支えが欲しかっただけかもしれない。
「幸いなる者よ、ディオニッソスを讃えよ!」
 しかし神官がぐいっと鎖を引いた為、エレフは呆気なく床に転がされた。
 突然の痛みに喘いでいると、体を担がれ、祭壇に連れて行かれる。さすがに恐ろしくなって暴れようとしたが、無理やり酒を飲まされて手足が重くなった。
「やめ……!」
 あの豚のように殺されるんだろうか。恐怖に震えた肩を女達に押さえつけられ、エレフは天井を見つめる。仰向けの腹に何か重いものが圧し掛かるのが分かったが、視界がぼやけてはっきりとしない。ぬるぬるとした物が肌の上を這う。
『生ヲ憎メ』と――遠く、耳元で誰かが囁いた。

 ディオニッソス。
 またの名をバッカスと呼ばれる男神は、葡萄と酒の神である。彼を讃える祭が現在の演劇になったとも言われているが、野性的で好色な性質から、黒ミサの原点と言われるほど過激な祭に発展する事もしばしばだった。
 神との交合。ディオニッソスの信者達は酒に酔い、薬草に痴れ、血に笑い、狂喜乱舞して恍惚の領域へと辿り着く。宗教的な陶酔とは性的な意味合いも含んでおり、イリオンで行われたその晩の儀式も神の名を借りた乱交であった。

「くそ……」
 一夜明け、神殿から放り出されたエレフは、自分がぼろぼろの布切れになった心地がしていた。
 小さく悪態をつくのが精々で、もう涙も出ない。空っぽになった心の底で、抉り取られた衝撃だけが拭えずに残っていた。一歩踏み出すごとに体が軋む。
 早く寝床に着けばいい。褒美だと渡されたイチジクの実が麻袋に入っていたが、食べる気も起きなかった。とにかく早く寝て忘れてしまいたい。
 足を引きずりながら歩いていると、奴隷居住区の方から見知った顔が駆けてきた。
「エレフ!どうしたんだよ、昨日は突然いなくなって――」
 オリオンだ。安堵のあまり倒れ込みそうになる。立ち止まったエレフは太陽のような明るさに救われたくて、友人が近づいてくるのを無言で待った。
 だがオリオンは聡い子供である。消沈したエレフの様子で何事か察したのだろう。駆け寄るうちに段々と青ざめて、やがて足を止めてしまった。
「バカ、なんっ、で……!」
 悲しみとも後悔ともつかぬ彼の形相に、ああ、もしかしてと思う。エレフは握り締めていた木彫りのペンダントを静かに取り出した。
「これ、神殿で拾ったんだ。オリオン……お前もあそこに行った事あるのか?」
 オリオンはしばらく返事をしなかった。真ん丸に見開いた目が彼の動揺を映し出していたが、やがてそれも溢れ出す。
「……だ、って」
 彼は搾り出すように言った。
「腹一杯食わせてやるって言われたんだ。それでホイホイ付いてったオレもオレだけど、でも、一回で懲り、て……」
 綺麗な顔がくしゃくしゃに歪む。オリオンは差し出されたペンダントごと、エレフの手を強く握った。
「ごめん、ごめんなぁエレフ、オレ、ちゃんと話しとけば良かったんだ。オレ達、ツラだけは良いって分かってたのに、友達に言える事でもないよなって諦めずにいたら、お、お前だって同じ目に遭わなくて済んだのかもしれない、のに……!」
 エレフは驚いた。あのオリオンが泣いている。その事実の大きさに、今更ながらガツンと頭を殴られた気がした。
「ばか、泣くなよ。泣きたいのはこっちだって同、じ……!」
 声が小さく震える。冷たく硬直していた心が、友人の涙で再び柔らかさを取り戻していくのを感じた。二人は互いの額を付き合わせて、わんわんと泣き始める。
 何故、どうして、自分達がこんな目に遭わなければならないのだろう。家族と共に幸せに暮らしていたはずなのに、妹は、じいちゃんは、どうして寂しくてもここにいてくれないのだろう――。
 泣いて泣いて、顔もぐちゃぐちゃになり、やがて体力も尽きた。一通り泣いて冷静になった二人は、ぜえぜえと息をしながら地面に座り込む。
「アホらし……あれって、愛がなきゃ単なる暴力だろ。だったらボカスカ殴られてる普段と同じじゃん。きっと本当はさ、なんも特別な事じゃないんだ」
 泣き疲れた顔でオリオンが言った。
「だから大丈夫、耐えられるよ。オレ達は明日からも堂々と胸張っていける。……だろ?」
「そう、だな」
 エレフも頷く。この友人と不幸を共有した事で、喉につかえていた物がすとんと胸に落ちる感覚があった。
「別に女の子じゃないんだし……」
「だよな」
「お尻が痛いのが難だけど」
「エレフ、お前、それを言っちゃあ……うん、後で薬もらってくるわ。マジお疲れ。マジごめん」
 会話も普段通りのリズムに戻る。オリオンはまだ負い目を感じているようだが、このくらい殊勝な方が大人しくていいかもしれない。そう思ってエレフは少しだけ笑った。まだ笑える自分が嬉しかった。
「オリオン、これやるよ」
「うん、イチジク?」
「あいつらから貰ったってのは癪だけど、泣いたらお腹減ったから」
「だなぁ……こいつらに罪はないし」
 ヘタを噛み千切り、皮を剥く。二人は黙々とイチジクの実を食べた。
「ペンダント、ありがとな。取り戻してくれて」
「……いいよ」
「あんなとこで落としたら、そりゃ見つからない訳だよなぁ」
 オリオンのはにかんだ笑顔に、エレフもまた同じものを返す。胃に物を入れた事も気力に繋がったのだろう。どん底だった気持ちが浮上して、ようやく楽に呼吸できる気がした。

 ――とは言え、満月の夜になると集会がある決まり事なのか、その後も二人はたびたび祭儀の被害に遭う事になる。
「つーか、完全に目ぇ付けられてるだろオレら!やばい、何これ、変態神官ども失脚しろ!イリオンは風神の国だろ、なんでディオニッソスまで崇拝してんだよぉおぉ!」
「隠れてやってるからだろ!うっさいオリオン、傷に染みる!」
「くっそー、ぜっっってぇ逃げてやる!こんな奴隷生活、天国のじいちゃんが知ったら泣く!エレフ、絶対逃げ出そうな!なぁ!」
 このままなんて冗談じゃない。傷の手当てをしながら鼻息荒く意気込むオリオンに、エレフは力強く頷いた。
 こうして二人の逃亡計画は本格的に練られ始めたのである。









END.
(2010.8.15)

『狼は奔る前に満月に吠える』的なアレ。この部分はCDで初めて聞いた時は可哀想で可哀想で涙目だったですが、変態神官のわざとらしい台詞回しに幾分か救われた気がしていました。ナイス陛下&じまんぐさん。わざとギャグにしてくれたんだって信じてる。

ディオニッソス祭は本来なら葡萄の芽吹きと共に春にすべきものなんですが、変態神官たちは儀式と言う名目で好き勝手に行っていた設定です


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