遠かりき予兆.2











 雷神殿が建つ丘の頂上には、幅の広い参道をつづら折りに登っていくようになっている。神託所のある神殿の最奥は神官や巫女の他、王族と一部の重臣達しか立ち入る事が許されていないが、参拝に訪れる市民の為にもう一つ別の拝礼所が隣に建ててあった。
「ええと……」
 参拝客に混じって坂道を登りきったレオンは、きょろきょろと広場を見渡した。モザイク模様の敷石の先、立ち並ぶ円柱の隙間に埋もれるように、一人の老人が腰掛けている。
「ご老体!」
 レオンの弾んだ声が晴天の下に響いた。
「おや、これはこれは……」
 呼びかけられた老人が顔を向ける。洗い晒しの質素な服と、乱雑に蓄えられた髭。一見すると浮浪者とも思える出で立ちだが、レオンの眼にはそれが酷く眩しく見えた。
「良かった。もう神殿にはおらぬかと」
 息を切らせてレオンは笑い、杖を掴む老人の手を上から握る。白く濁った盲目の瞳を瞬かせ、老人はレオンの顔の位置を推し量るように小さく首を動かした。
「この声は……殿下でいらっしゃいますな。今日もお一人で?」
「ああ。そなたの顔を見たくなったのだ。雷神殿なら護衛もいらないからな。心配するな」
 レオンは機嫌良く答えて隣に腰を下ろす。
 ここ数日、名も知らぬ年老いた暗誦詩人が雷神殿の広場で寝泊りしていた。レオンが彼と出会ったのは、ちょうど朝の参拝に訪れた時である。聞けば各国の聖地を巡り歩いていると言う話だ。雷神殿では王子の姿を取り立てて気にかける人もなく、近頃のレオンは気が滅入ると、息抜きと称して頻繁に彼の下を訪れていた。
「何度も押しかけて迷惑ではないか?」
「なんの……思索は時と場所を選びませぬ。アルカディアに来てからと言うもの、お若い方と話す時がこの年寄りの一番の楽しみ」
「それなら良かった。今日も何か聞かせて頂けないだろうか?」
「もちろん構いませぬが……わたくしめの物など聞かずとも、王宮では詩人には事欠かないでしょうに」
「そなたの詩が一番好きなのだ。何度聞いても覚えれなかった創世神話が、ご老体のおかげで暗誦できるようになった恩義、忘れはしないぞ」
「それは光栄じゃの」
 ほっほっほっ、と笑う老人の穏やかさが訳もなく嬉しい。気の張っていた首筋が徐々に解れるのを感じ取り、レオンは抱えていた膝をゆっくりと伸ばした。
(……居心地が良い)
 無理に取り繕わなくとも、彼は自分に幻滅しない。どことも焦点の定まらない視線が老人の思慮深さをかえって強めており、レオンは彼の隣でごく普通の子供でいられた。崩した脚をぶらぶらと揺らし、聞こえてくる歌物語に耳を澄ます。
 叙事詩の章節を朗唱しながら広めていた吟遊詩人とは違い、この老人は滅多な事で詩を披露しようとはしなかった。それこそ街の広場で朗読会と称し、高々と新作を謳い上げる詩人もいるが、レオンにとっては堅苦しく面白みに欠ける。
 その点、この老人の話す歌物語はどこか人間臭い。神々や英雄に威厳がない訳ではないが、まるで世間話のようだ。知り合いの武勇をいとおしむように話す。
 伴奏もない。若者のような声量がある訳でもない。しかし彼のしわがれた声は不思議とレオンの耳に馴染み、身体の底に沈んで沈殿し、血肉になっていく――そうした思いを抱かせた。
「どうしても王宮には来てはくれぬのか?」
 短い英雄譚をひとつ聴き終えた後、レオンは名残惜しげに尋ねる。
「そなたのような人が毎夜こうして野ざらしの場所で寝泊りしていると思うと、堪らなくなる。父上は武勇で名を馳せた人だが、あれで詩楽を好まれる御方だ。きっと喜んで招き入れて下さるだろう。私の側で教えを説いてはくれないか?」
 どうか家庭教師にと、そう再三レオンは頼み込んでいたのである。しかし老人は「自分には過ぎた事」と首を縦に振らなかった。
「心苦しいが、何より旅が性に合っているのでの。風雨に晒され、寝食に欠き、みすぼらしい身で日々を過ごそうと――雲の流れと星々の導きのまま生きる事に、何の不自由もありませぬ」
「……そうか。満足か」
 レオンは残念がったが、無理に老人を留め置く事はしなかった。自分から言い出した事ではあったが、この浮世離れした老人が実際に王宮にいる姿を上手く想像できなかったせいかもしれない。しつこく食い下がって煙たがられるのも避けたかった。。
 老人は夏至の前にはアルカディアを去り、海を渡るつもりだと言う。
「ご老体。一度だけ、私に付き合ってはくれないか。一緒に来て貰いたい所がある」
 レオンは立ち上がると、そう控えめに提案した。

「父上に教えて貰ったのだ。ブロンディスの神殿とは別に設えられた、王家の聖域だそうだ」
 老人の手を引いてレオンが向かった場所は、雷神殿の脇から地下に降りる階段である。
 薄暗い洞窟は松明の焔を鈍く照り返し、古代の空気をそのまま封じ込めたように荒く乾いていた。くらりと視界が歪むような、聖域の持つ場の力がレオンの足取りを重くする。
 元は谷間だったと言う話だが、数百年の間に地形が大きく変わって岩場が崩れたのだろう。天蓋のような岩が頭上に張り出して雨風を防いでいた。隙間から差し込む光は細く長く、歪曲した壁は円状の広い空間になっている。
「ご老体には見えないだろうが、中央にはブロンディスの像があるのだ。ほら、ここに」
「ほう……」
「そして壁には、歴代アルカディア王の絵物語が描かれている」
 説明しながら、レオンは松明を上へ掲げた。闇の中に浮かび上がる壁絵は左奥から螺旋状に歴史を紡いでいる。広い岩肌には古代の森を駆ける野生の獣、アルカディアの町――そして王の姿が彩色されて描かれていた。
「先月、初めて父上に連れて来られたのだ。ここには王として成功した者と失敗した者がいる。先人からお前も学ぶがいい、と」
 レオンは記憶の中の父の声を思い起こしながら呟いた。ゆらりと、当時デミトリウスが掲げていた焔が、今は自分の手の中にある。
「最初の王は賢帝……三代目の王は戦いに破れて土地を追われたが、アナトリアに助けを乞い領土を取り戻した。五代目の王は僅か十四にして王位を継いだが、邪教に染まり身を滅ぼし……首は臣下によって斧で切り落とされたと……その後、後継者を巡って長い争いがおきたらしい」
 見上げた壁には一杯に戦乱の様子が描かれている。淡い、微妙な色合いで浮かぶ人、馬、戦車。目を転じて見れば雷の降り注ぐ野、燃えた山、変わらずに佇む玉座。
 それらを見守るブロンディスの巨体は半ば抽象化されているが、右腕の落とされた逞しい姿は強烈にレオンの胸を震えさせた。松明を握る手が次第に汗ばんでいく。
 最初に案内された時、デミトリウスは秘められた歴史を臆せずに語った。王家の恥や汚濁と思える事も、ごく淡々と。全ては過去の事だと割り切りながらも、父の表情の中には薄い諦観に似た皮肉が浮かんでいた。
『やがて俺やお前も、ここに描かれる。そして子孫に笑われ、過去の教訓となるのだ』と。
 そう虚ろに笑う横顔を覚えている。レオンは松明を握り直し、軽く息を吸った。
「……父上に教えて貰ったは良いものの、なかなか一人で入る勇気が出なくてな。ここに居ると、大きな物に押しつぶされそうになる。ご老体にはつまらないかも知れないが、一度ご一緒したかったのだ」
 すまないな、と小さく詫びる。本来なら王位継承者しか立ち入らない場所だが、この盲目の暗誦詩人になら教えても構わないと思えた。老人はレオンの言葉を静かに聞きながら、曲げた腰を苦労して伸ばし、染料の匂いを嗅ぎ取るように顔を仰向かせている。
「いやいや、興味深い事ですじゃ。目には見えずとも……この場所の空気が、神話の御世から続いてきた種族の豊穣を教えてくれおる」
「豊穣?」
 重々しい洞窟にはそぐわない言葉である。怪訝に聞き返すレオンに、老人は事もなげに頷いた。
「左様。どのように血生臭くとも、ここには現在のアルカディアに続く王家の苦悩と栄光が宿っておるじゃろう。殿下の受け継ぐ血脈の、何と誇らしい事か。この地を任された運命の、何と尊いものか……」
 咄嗟にレオンは頷く事が出来なかった。普段はすんなり胸に落ちる老人の言葉が、どうしてか上手く飲み込めない。
「爺の言葉がお気に障りましたかの、殿下」
 こちらの戸惑いを見通し、老人が冗談交じりに促す。どこまでも柔らかい問いかけが、かえって眠らせていた胸の淀みを掻き乱すように思えた。木霊した溜息の音がどこか遠く沈んでいく。
 レオンは自身の本心を探すのが得意ではない。両親や臣下の前では望まれた王子でありたかった。期待を裏切りたくはないと背伸びする自分を彼らに見抜かれていたとしても、それでも、弱音は吐きたくない。そうして次第に揺らぐ不安から目を背けるようになっていた。
 だからこそ行きずりの詩人に、こうして零す。
「……不思議なのだ。神が全能であるのなら、その仔らである我ら人間は何故こうも不完全なのだろう……どうして私はこう、未熟なままでしかいられないのだろう」
 レオンは躊躇った末、そう切り出した。
「確かに私はブロンディスの加護を受けていると思う。しかし、それが本当に神が私を見守っている証拠にはならない。神託はあったものの……それが本当に私に相応しい物なのかも、自信がない」
 聳える王家の壁画を見上げながら、彼は難しく眉を寄せた。
「いや、どう言い繕った所で同じか。いずれここに描かれる覚悟が、未だ私は出来ていないだけなのだ」
 溜め込んでいた心許ない本音が、爆ぜる松明の火花の中に掻き消える。その途端、ぎろりと歴代の王達の視線が身体に突き刺さるように感じた。
 成長も、物覚えも悪い第一王子。最近では祭儀にも参加できない。ブロンディスの力を受け入れるまでの苦しさだと自らを慰めても、苦く、悲しみが渦巻く。
 じっとレオンは壁画を眺めていたが、再び火が爆ぜる音で我に返った。
「……すまない。詮無い事を言ってしまったな。私の悩みなど、ご老体にはさぞかし甘く聞こえるだろう」
 気恥ずかしくなって隣を見ると、爪の中まで土に汚れた老人の皺だらけの手が見える。薄汚れた白い髭が旅の疲れを物語り、レオンは自分が羽織っている絹の衣が急に嫌味に感じられた。しかし顎髭を撫で、さも老人は愉快そうに頬を緩めるのだ。
「いえ。殿下の不安が、爺にはむしろ喜ばしく思えましたぞ。悲しみを知る者は概して聡明であられる」
 彼は地に付けていた杖を動かし、カツカツと小さく鳴らした。
「思うてみなされ、これらの王が辿った多数の道を。『神話と共に生きるほど孤独な事はない』とは、どの叙事詩の王の言葉だったかのぅ……恩寵であれ呪縛であれ、国を背負うとは何と安寧から遠い人生じゃろうか。恵まれた生まれと責任ゆえ、彼らは誰にも同情を乞う事が出来んかった。怯えるのも当然の事。どれだけ美しく着飾っても、王は最も過酷な道を通らざるを得ないのじゃから」
「………」
「殿下も彼らと同じ責務を背負われた。避けられぬ因縁を運命と呼ぶなら、それをどう引き受けるのか……それを決める事が人間に許された唯一の自由と言えるかのぅ」
「自由……」
 レオンは再び壁画を見上げ、描かれている王達の末路に思いを馳せた。彼らはどのようにして運命を引き受けたのだろう。
「女神は残酷じゃ。咎がなくとも災禍は容赦なく襲い掛かる。殿下もいずれ、彼女に対して己の態度を決めねばならん」
「……どうすれば良いのだ?」
 老人はレオンの問いに答えはしない。ただ年を重ねた人間の持つ老獪さと落ち着きを持って、励ますように彼の頭を撫でた。
「今はまだ答えに到達するには早かろう。だが少なくとも、王子として自らの在りようを探す姿勢は正しい……だからこそ爺は喜ばしく思うた。その健やかな魂を誇りに思いなされ」
 言葉が胸を突き抜ける。レオンは頷く事が出来ないまま、薄く唇を噛んでいた。
(王、か……)
 重く厳しい、その役目に殉じて死ぬ事が自分には出来るだろうか。気が遠くなるほどの遠い年月が、巻き布を転がすように足元へ広がるのを感じる。レオンは一度目を閉じ、それから弱く微苦笑した。
「……やはり、ご老体は王宮に置けぬな」
「ほう?」
「話すたびに知恵熱が出てしまいそうだ」
「それは確かに困りますのぅ」
 軽やかに笑う声が陰気な空気を和らげる。老人は結局レオンに対して具体的な忠告を施してはくれなかった。
 やがて彼は言葉の通り、夏至に入る前にアルカディアから姿を消す事になる。出会った時と同様、風や雲のように後腐れなく立ち去った詩人の薄情さをレオンは恨んだが、決して直接的に道を諭すのではなく、自身で考えよと促す老人の気質に似合った幕引きのようにも思えた。

 レオンが父王の側室であるシャウラに命を狙われたのは、それから数週間後の事である。







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