遠かりき予兆.3











 その日、王宮は常よりも賑わっていた。レオンティウス十二歳の生誕日、雷神殿にて祝いの儀が執り行われる為である。
 体調は万全と言いがたかったが、軽い微熱程度で支障はない。飾り立てられた装束を身に纏いながら、レオンは母の手を取って神殿に向かう御輿へ歩み寄っていた。
 シャウラが刃物を携えて飛びかかってきたのは、その時である。
 凄まじい形相だった。数年前にレオンの子犬を杖で叩いた時とは、比べ物にならない程の。長らく離宮から姿を見せなかった彼女が裸足で駆けて来るのを、レオンは幻影ではないかと疑った。それ程までに様変わりしている。
 咄嗟に避ける事が出来なかったのは、背にイサドラを庇っていたせいだ。しかし何か喚き散らしながらシャウラが刃物を付き立てようとした時、その手元を取り押さえたのは、彼女の息子で。
 ――あれほど取り乱したスコルピオスの姿を、レオンは他に知らない。
 見てはいけない物を見たと思った。させてはいけない事を、彼にさせてしまったと思った。実母の手を捻り上げ、地に倒し、暴れる背を押さえる兄の顔に余裕などなく、眼は悲痛を刻み。
 やがて王宮の奥から、デミトリウスが何事か怒鳴りながら厳しい顔で出てくるのが見える。
 瞬く間の、しかし決定的な出来事だった。





* * * * * * *





(人の憎悪を真正面から見たのはこれで何度目、だったろう)
 そんな意味のない疑問が脳裏を過ぎる。
 離宮へと続く道は残照で青く燃えていた。衝動のまま御輿から抜け出たレオンは馬を駆り、人知れず道を急いでは、罪悪感で胸を焦がしている。
 先程の出来事が背筋を堅く強張らせていた。デミトリウスの采配でシャウラは一時拘束され、後日、処罰を決める事になると言う。側室の乱心により一時騒然としたが、何よりも優先すべきは神との約束事であり、第一王子の生誕日を祝う祭儀は他日には変えられない。呆気ないほど簡単に場は収まった。
(……これではまるで、存在ごと忘れ去ったようではないか)
 暗殺騒ぎを起こしたと言うのに、その沙汰すら後回しにされる側室を、哀れに思うのは間違いかもしれない。けれどもレオンにはそこまで追い詰められた彼女の境遇が耐え難く感じられた。疎んじられて辛く思う行き場のない感情を、彼自身も知っていたせいかもしれない。
 自分が何をしたいのか、そこまで考える余裕はなかった。両親や臣下に気付かれる前に、シャウラと、そしてスコルピオスに会わなければと、それだけの想いで無理やり馬に飛び乗った。周りの景色が後ろへ遠ざかるたび、髪をさらう風が切りつけるように熱い。
 シャウラを隔離し見張る為だろう。普段は人気のなかった側室専用の離宮に、見た事もないような数の兵が配されている。しかしレオンが怯んだのも一瞬で、本当なら神殿に向かっているはずの第一王子が現れたと困惑する彼らを制し、玄関前の石畳から中へ踏み込んだ。
「……儀式の主役がここに何の用だ」
 聞き間違いようのない兄の声が耳に届いた。レオンは動きを止め、石畳の階段から上を仰ぐ。
 スコルピオスは無表情だった。先程シャウラと揉み合った為か、常ならば一部の隙もなく編まれていた髪が僅かに乱れて背に落ちている。そのほつれた毛先に、彼に助けられたのだと言う想いが膨れあがった。
「一時、抜け出して来ました」
「……何?」
「暢気に儀式などしていられません。祭儀などどうでもいいのです。ただ私は――」
 一言、詫びたかった。それがどれだけ高慢で無神経でも、ここで食い下がっては二度と彼らに顔向け出来ない気がしたのだ。
「どうでもいい、か」
 しかしレオンの言い分を遮り、兄は目を眇める。
「あれは跡取りの成長を祝う儀式のはずだ。いずれ王位に就くべく育てられ、民の期待を背負っていると言うのに、お前は自分を祝ってくれる連中をどうでもいいと放り出してきたと?」
「………!」
 息を飲む。レオンの喉が、言葉も返せずに震えた。
「そうまでして俺を笑いに来たか」
「ちが……!」
「母上に報復でもしたいのか」
「……違います!」
「では何が?」
 言葉こそ辛辣だが、むしろスコルピオスの口調は平坦だった。畳み掛けられる質疑にレオンが言葉を探していると、彼は一度眉を寄せ、こちらの腕を力任せに掴む。
「兄上?」
「黙れ」
 周りの兵が道を開ける。引きずられるように柱廊を歩かされると、開かれた扉の中には気を失って寝込んでいるシャウラの姿があった。豪奢な天蓋の下に横たわる彼女に色はなく、全てを投げ打った抜け殻として、力なく寝台の上に横たわっている。
「お前の命を狙った女だ」
 スコルピオスは腰から剣を抜き、放るように手渡した。
「そして今後も絶えず狙い続けるだろう。邪魔だと思うなら斬るがいい」
 レオンは弾かれたように隣を見上げる。兄の真意が汲み取れない。
「……何を、おっしゃって……」
「お前には斬る権利がある。デミトリウスがどのような処罰を下すにせよ、第一王子の暗殺を企てたとなれば……それは立派なアルカディアに対する謀反だ」
「ですが!」
「けじめも付けられないか、レオンティウス」
 目の前が闇に包まれた気がした。抜き身の剣の重さに現実は濁る。意味が分からない。
(けじめ……?)
 謀略者を斬る事が?
 それとも側室との決裂を示す事が?
 どんなに見つめてもスコルピオスはこちらに視線を寄こさなかった。彼の眼は臥せている母の上にだけ注がれている。その姿が不思議と、王家の壁画を前に松明を翳す父王の姿に重なった。薄い諦観に似た、何か。
 レオンは縫いとめられたように動けない。動けるはずが、なかった。
「……儀式を放り投げ、何をしに来たかと思えば」
 しばらくしてスコルピオスが忌々しげに言う。
「誇りも責任も持っていないとは見苦しいな、レオンティウス。軟弱すぎて、不愉快だ」
 そうしてレオンの手から剣を抜き取ると、それを素早く腰の鞘に戻した。ぎらついた刃の光が視界から消えた事で張り詰めた心の一部が折れそうになる。硬直し続ける背を乱暴に押しやられ、部屋の外へと追い出されたが、そうした動作の間にもスコルピオスは一度も眼を合わせなかった。
 堅く閉ざされる扉に跳ね除けられ、レオンは一人、立ち尽くす。
(……馬鹿な事を、した)
 強張る掌で首元を覆う。脈が早い。
(私はここに、来てはいけなかったのだ)
 スコルピオスは本心から母を討たせる気はなかっただろう。しかし実母を捕らえる事になった罪悪感や、正室に楯突いた自分達の処罰について彼なりに苛立ちや焦燥もあったはずだ。そんな中、のこのこ顔を出したりして。
 己の短慮を悔やむには遅すぎる。喘ぐような喉の震えが収まらない。あの剣で兄が斬らせたのは、レオン自身の甘さだったのだ。
 叩きのめされた。
「殿下!」
 やがて姿を消した第一王子の行方を追って、庭の砂利道を馬蹄が響く。悄然と佇む彼の横へカストルが走り寄ってきたが、それでもレオンは扉から視線を外せずにいた。
「……また、何事かあったのですね」
 状況から王子の傷心を察したのだろう。首筋を押さえる癖の意味を、聡い従者は的確に見抜く。跪いたカストルは見ていられないとばかりに黙り込んだ後、重く口を開いた。
「……私が始末を付けましょう」
 何を、とまでは言わなかった。レオンは呆然とカストルの顔を見返す。彼の手は剣の柄に掛かっていた。
「殿下にご迷惑は掛けません。シャウラ様と同様に私が乱心すればいいだけの事。彼らは再び貴方を害します。その前に終わらせるのならば、私が」
 悲しみの宿る忠実な眼だ。揺らぎがない。その視線の熱さに、ずっと以前からカストルが考えていた事なのだろうと悟らされた。思えば幾度、この腹心に支えられた事だろう。
 しかし彼の言葉は今、レオンを思考の果てまで追い詰める。先程の衝撃でまだ頭は痺れていると言うのに、追い討ちをかけるように、物事は更に先へ進もうとしていた。
 反射的に手が出ていた。腕が震えているせいで痛みは然程でもなかったろうが、殴られたカストルは数秒、顔を伏せる。
「……殿下」
「いつからだ」
 呟いたレオンの声は自分でも意外なほど冷静だった。
「いつからお前に案じさせるほど、私と兄上は決裂していた?」
「……残念ながら、最初から分かっていた事です」
 カストルの声も、また冷静である。その答えの響きが傷口に沁み込む前に、ぐっとレオンは眼を瞑った。様々な想いが苦しく胸の内に押し寄せたが、どれ一つも上手く捕まえる事が出来ない。
 ――そうだ、最初から分かっていた。
 王家の壁画。酷く鮮やかに蘇るその中に、兄弟で争った絵が幾つあっただろう。生まれる前から予見されていた出来事を、今、まさに自分は歩み始めている。
「……物騒な話は止めよう。先程の発言は取り消せ、カストル。卑怯な真似は許さぬ」
 ざらついて胸に落ちた一つの予感を、レオンは遠い未来の為に封じた。例え今後どうなろうと、それはまだ先の話だと。今はただ黙っていたかった。
「殴って悪かった。痛むか?」
「いえ」
「……そうか」
 眼を開ければ、こちらを安心させるようにカストルが微笑む。レオンは彼の頬に軽く触れ、悪かった、と再び謝罪して手を離した。こういう時、話を蒸し返す事なく物事を切り替える彼の美点にレオンは感謝する。頼んだ以上、カストルも早まった真似はしないだろう。彼は自分の手足であり、裏切る事のない守護者だった。余計な事は語らずとも済む。
「……疲れたな」
 レオンは一言だけ、そう零した。

 後日、シャウラの処罰が決まった。
 愛妻家であり愛息家であるデミトリウスの怒りは大変なものだったが、アルカディア名門の娘というシャウラの出自と、結局被害が出なかった点から差し引かれ、離宮へ幽閉と言う穏やかな処分に落ち着いた。スコルピオスに対しては王子の命を救ったと言う事で恩赦が与えられ、かえって階級が一つ上がる事になる。
 シャウラが来春を待たずに狂死にしたと聞かされた時、一瞬レオンはそれを臣下の仕業かと危ぶんだが、自分の許可も得ずに勝手な真似はすまい、と疑いを捨て去った。ようやく雷神の力が身に馴染み始めたレオンにとって、鍛錬で忙しい日々が続いていたせいもある。それきりシャウラの事は思い出さなかった。そして滅多に顔を会わせなくなった異母兄の事も、遠く、意識の隅に追いやった。
 どれほど疎まれようが純粋に兄を慕う事の出来た子供時代が、終わろうとしていた。





END.
(2009.05.15)

いい加減、兄について諦めがつき始めた殿下。ミロス師匠を「ご老体!」と呼ぶ場面も書けて満足です。ショタ殿下けしからん。
殴られても理由すら聞かせて貰えないカストルとか、殿下にどれだけ甘えられてるんだと地味に美味しい役どころ。
『神話と共に生きるほど孤独な事はない』はアレクサンドロス大王の言葉です。私は彼のファンなので、今度もちょこちょこオマージュしていくかもしれません。


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