遠かりき予兆.1











 アルカディア王宮の片隅には、象牙やヒマヤラスギなどの豪華な書棚が並ぶ私設図書館がある。
 学術的に価値のある書籍を収めた大図書館は別に設置されていた。ここは二代前のアルカディア王がごく個人的に集めた、今では半ば忘れ去られた古いコレクションルームである。仕切りのついた本棚に幾束も巻子本を積み重ねている様子は、まるで書物の巣か、あるいは墓場のようであった。
 ぽつりと、そこに一人の少年が佇んでいる。
「何か探し物かい?」
 王宮勤めになったばかりの若い司書が尋ねた。さてはどこかの貴族が寄こした小間使いだろうと思ったのである。
 すらりと姿勢の良く、子供にしては物憂げな眼付きの少年だった。自分の背では届きそうにもない段を見上げ、試すように腕を伸ばしかけている。はっと驚いた表情を浮かべた後、
「これを」
 と一枚の紙片を差し出した。丁寧なギリシャ文字で何冊かの書名が書かれている。中には難しい史学書や戦術書なども混じっているが、有名な格言集や叙事詩がほとんどだった。
「へえ、教本に使うのかな。これなら知ってるよ」
 いくつかの本を抜き取って渡してやると、重い巻子本を両手一杯に抱えて少年は軽くよろめいた。
「重そうだなぁ。大丈夫?」
「ああ、すまない。やはり紙と言えども量があると重いな……」
 妙に凛とした苦笑を浮かべ、少年は礼を言って部屋から出て行った。一人で大丈夫かなと心配になり見送っていると、慌てたようにカストル将軍が追い掛けて来て、少年から本を奪い取ったのが見える。なんだろうと思っていると、後ろから同僚に思いっきり頭を殴られた。
「馬鹿っ、殿下の荷物くらいお持ちしてやれ!」
「……ええっ、今のがレオンティウス殿下!?」
 若い司書は飛び上がらんばかりに仰天した。
「時々ふらっと本を借りに来るんだよ。お前、王宮勤めの癖に殿下の顔も知らないのか?」
「俺は田舎から出てきたばかりで、王族なんて祭儀の着飾った格好しか見た事がないんだ。まさか一人でこんな所に来るだんて思わないじゃないか!」
 ひとしきり反省した後、司書はしみじみと彼の姿を思い返して溜息を吐いた。
「しかし近くで見てみると、豪胆なデミトリウス王の息子にしては随分と大人しそうな子だったなぁ。確かに気立ては良さそうだが身体も小さいし、せいぜい十くらいの子供にしか見えないじゃないか」
「まあ、まだ床に臥せっている事も多いらしいからね。それだけブロンディスに見込まれている事かもしれんが、確かに少し心配だな。この先もご無事に育ってくれるといいが……」
「その点、兄の方はブロンディスの加護がないぶん楽だったのかもな。病気知らずだったんだろう?」
「ああ、スコルピオス殿下ね。元気も元気、最近ではバリバリ活躍しているもんな。皮肉なもんで、最近では庶子の彼の方がデミトリウス陛下に似ているかもしれないと思うよ」
 二人の司書はそう評し合い、王子の去った方向を眺めていた。まさか話題の主にまで、自分達の声が届いているとは気付かずに。
「……あやつら、陰口ならもう少し小声で話せんのか。不敬罪で首を飛ばされても文句は言えんぞ」
「いいのだ、カストル。放っておけ」
 眉をひそめて憤る臣下を制し、レオンは小さく苦笑する。
「彼らの言う事も最もだ。民の声は真摯に受け止めるべきものだろう?」
「しかし……」
「良いのだ。気にしていない」
 レオンは何でもないように頷いている。だがその涼やかな表情の下に隠された心中を察し、カストルは主の幼い背を無言で眺めた。
 レオンは今夏で十二歳を迎える。一般的なギリシャ都市では大人の一員として扱われ始める頃だが、アルカディアでは伝統的に十五歳で成人の儀を執り行う事になっていた。雷神の力を受け入れるため身体に負担が掛かるのか、この国では成長の遅い子が生まれる事が多かったからだ。
 特にブロンディス直系の血筋となると受け継ぐ力も並み大抵のものではない。父王のデミトリウスも六つの年まで寝たきりの生活を送っていたと言う話だが、レオンの場合は特にそうした弊害が顕著だった。
 なにせ事あるごとに体調を崩す。本人も慣れっこになって発熱に気付かず、いつの間にかバタンと倒れて近習を慌てさせる事も少なくない。
 このような微笑ましい逸話も歴代アルカディア王史から見るに珍しい事ではないが、こうした幼少期の虚弱さ――あるいは能力の不安定さは十を越した頃にはなくなる事がほとんどだ。その時期さえ越せばアルカディオスの子供達は逞しい青年へと変貌し、普段は暢気に羊飼いなんぞを勤しんでいても、有事の際にはブロンディスの加護を受けた頼もしい戦士となるのである。
 しかし今日でも成長が遅く、力を扱いきれぬままでいる温和すぎる第一王子の事を「もしや王の器でないのでは」と不安がる声も次第に増えてきていた。彼が神託を受けて生まれた事はアルカディア人の記憶に新しく、非常に誇らしい事ではあったのだが、この夏、王子の体調不良を理由に闘技大会が中止になった事が人々の猜疑を煽ったのかもしれない。そうした心ない陰口を耳にする事もあり、宮中の大臣達が自分を見る眼も変わったように思えて、レオンの胸を密かに苛んでいるのである。
(こうも物覚えが悪いようでは、皆が不安がるのも当然かもしれないな……)
 一人戻った自室で巻子本を広げながら、ふう、とレオンは息を吐く。
 彼は蝋を引いた木板と尖筆を用意し、カリカリと内容を書き取り始めた。これらは綴りの練習用として初等教育に用いられるものだが、削った蝋を平らに均せば何度でも使える為、今でもレオンは物を暗記しようとすると好んでこの練習板を引っ張り出してくる。
 覚えなければならない事は無数にあった。体調の善し悪しで勉学に割ける時間が限られる為、彼の修学速度はお世辞にも早いとは言えない。
 だが帝王学の基礎を覚え、次第に勉学の楽しさも分かってきた年頃である。レオンは遅れを取り戻そうと本をめくり、また熱の出ないうちにと筆を走らせた。
 しかし本の余白に小さな書き込みがしてあるのを見つけ、ぴたりと手が止まる。右肩上がりの鋭い文字は。
(兄上の教本だったのか……)
 用済みとなって書庫に放り込まれていたのだろう。見覚えのある文字は、確かに彼の異母兄の物だった。ぱらぱらと頁をめくれば、かつては彼も愛読していた本だったのか、無数の書き込みがなされてある。
(……やはり敵わないな)
 スコルピオスの知識を裏付けて並ぶ、的確な文章。レオンは複雑な心境でそれらを眺めて続けた。


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