ディアスポラ.1











 イスラム世界において、人の手で物語は創られない。
 運命は神の記した書の中にある──そんな言い回しが存在するようにイスラムの人々にとって純粋な創作物というものは一種類しかないのだ。
 即ち、全てはアッラーの手で創られたものだと。
 それは太陽の恩恵よりも深く、月の神秘より尊いもの。アッラーの御姿は如何なる壮麗な偶像を持っても表すこと叶わず、その慈悲はどんな善を持ってしても比肩することは許されない。
 来るべき侵略者の攻撃に備え、彼らはモスクで祈る。既に彼らの安住の地はここ以外に残されていない。神の恩寵を信じて導師が、導師の祈祷に続いて市民が、市民の声に続いて大気が、熱く震える。
 声、声、声、声――無数の声が求めるアッラーの慈愛。蛮族どもを退ける勝利をと祈念して、一心に呼びかける群衆の波。
「……これでは、呪詛と言った方が近いな」
 アラハンブラ城砦の軍区、任務からの帰路につき二階建ての兵舎から外を眺め、イスハークが不謹慎に笑った。
「数千の人間からこうも恨みがましく撤退を祈られては、さぞやキリスト側も不気味に思っているだろう。いい気味だ」
 ばさりと口元を覆っていた砂よけの布を剥ぐと、彼らの野営地で見た天幕の数々を思い出す。
 目的通り、敵将も間近で見ることが出来た。あの生真面目そうなラミレスという男、果たしてどう出るだろう。
「……帰ったのか、イスハーク」
 廊下の向こうから初老の男が声をかけた。呼ばれたイスハークは彼を見て、口の端に喜色を浮かべると軽く拝礼する。
「これはこれは、お師殿!」
「すぐさま王に報告しにこんか。軍区で見つけたから良いものの、ハーレムなんぞに向かっていたら殴りつけてやったところだぞ」
 卓越した武人を輩出するグラナダ王国の名家、その重臣である。既に壮年を迎えたが、鍛え上げられた四肢は未だ衰える兆しはなく、目や口元に刻まれた皺さえ戦いの傷跡のように猛々しい。
 彼はイスハークの慕う師であり上司であり、そして育て親でもある。
「捕虜は無事に帰してきたのか?」
「さて、どうでしょうね。まずは任務から帰った息子の心配を先にして欲しいところですが」
 師は呆れたように眉を寄せた。この養い子は何かと茶化したがる。
「誤魔化すでない。そなたは勝手をしすぎるのだ。今回もあの捕虜を殺した方がいいと言い出し、周りの不興を買っただろうが。全く、あの時は生きた心地がせんかったぞ」
「そりゃ、その方が合理的でしょう。しかし残念ながら、戦いに敗れて捕らえた者を剣にかけてはならぬと──それが掟だと覚えていますからね。きちんと送り届けてきましたよ」
 イスハークは笑った。
「掟のお陰で当時幼かったとは言え、謀反を起した組織の子であったに関わらず、こうして俺はお師殿に拾われたのだから。今更、それを破る訳にはいかんでしょう?」
「当然だ。まだコーランも覚えきっとらん残党の幼子に、血塗れた剣を向ける訳にもいくまいよ。アッラーは不義なす者どもを好まれぬ。お前だって何だかんだ言いながら無用な殺生を避けておるだろう。今回の任務に赴いたのも、あの地に赴けば弱き使者は殺されるかもしれぬと、そう考えわざわざ引き受けたのではないのか?」
 かつて暗殺者として育てられたかつて少年は、気高き育て親の言葉に微笑する。
 ――全く、これだからイスラムを見限ろうにも出来ないのだ。居心地が良すぎる。
 近いうちに、グラナダは堕ちるだろう。レコンキスタ初期と違い、数世紀を経た現在、キリスト教徒たちの戦い方も代わってきている。戦上手なアラゴン王と、グラナダ陥落に熱心なカスティーリャ女王が結婚した事も大きかった。誇りをかけた一騎打ちよりも、合理的に大砲を使って陣を看破する彼らの力には目を見張るものがある。
 向こう見ずな子の勢いが、時に親を凌ぐように――このままで行けば、この壮麗な都は敵の手に堕ちるだろう。
 しかし、それでもイスハークがグラナダを諦める事はない。忠誠心からではなく、例えば師や友人の為に彼らの居場所を守ることも悪くないかと思える。
 ひいてはそれが自らの砦を守ると言う事だ。例え敗将の憂いを見ることになろうが、ここで使わなければ何の為の誇りだろう。
「いえ……このイスハーク、最後までお供しましょう。アッラーの子らが冷たき地に放り出されることのないよう。この都を少しでも長く、我らの楽園であり続けるように」
「うむ」
 いつの間にか、窓の外から聞こえた祈祷の声は止んでいた。代わりに遠く耳に届くのは、爪弾く音楽と歌声だ。宮殿のどこかで奏でられているらしい。
「……どうやら夜の姉妹がお出でましのようだな」
 師は視線を背後へと送った。
「恐れながら、今宵も我らの王は物語をご所望らしいですね。さて、今日はどの娘だろう。王への報告がてら挨拶でもしていくかな」
 イスハークは薄く目を細め、凛と鼓膜を震わす歌声に耳を傾けた。
 神を第一とする彼らは物語を作らない。物語は──運命と同義だ。
 イスラムの世界には、人が創る物語だけが意識的に欠けている。それはアッラーに代わる行為であり、人に身には大それた事と思われているからだ。
 ただそれでも遠き地の御伽を知る者は、居る。
 それは千と一夜にわたって噺を紡ぐ者。歴史と歴史に埋もれる者。
 即ち、語り手たちである。




 * * * * * * * * *





「――そうして数奇な運命から、その若者は偉大なる魔法を求め旅に出たのです」
 歌と共に語り終えた娘は、ゆっくりと瞼を開いた。王宮の噴水に望む離宮には、現在一人の観客しかいない。
「それで、その男はどうなるのだ?」
 豪奢な白衣に身を包み、ターバンから覗く黒髪に縁取られた少年の顔は、薔薇のシャラバット水を飲むことも忘れて期待で満ちていた。
「まさかそこで終わりではあるまい、トゥリン?」
「……勿論、物語は先を続けるでしょう」
 トゥリンと呼ばれたユダヤ娘は静かに言った。赤い衣に身を包み、長い髪を三つ編みにして背に流している。泣き黒子のある目元が優しく、彼女の人柄を表しているようだ。ここ数ヶ月、王の招きに応じて時折訪れる姉妹たちの次女である。
「しかし陛下、元から終わりなどありません。この男の物語は彼の子に、そして孫に、或いは名もなき無縁の者にさえ引き継がれ、数多に続いていくでしょう。どこかで区切らなければ夜が明けてしまいますよ?」
「ふふん。全く、そなた達は焦らすのが上手い。そうやってサランダにもはぐらかされてしまったし、エーニャに至っては滅多に招きにも応じてくれぬのだからな」
 クッションにもたれた年若い王は楽しそうに言う。しかし娘は笑顔には応えず、何かを見定めるように神妙に髪を揺らすと、頭を床につけるように礼の姿勢を取った。額に書かれたヘブライ文字が隠れる。
「僭越ながら――物語にしおりを挟むように、陛下との夜話も区切らねばなりません。私の話も今宵で聞き納め、これで最後に。もう王宮へ来ることもないでしょう」
「……それは、」
「行かねばなりません。時が、廻り始めました」
 真剣な声は預言であり、予言だった。その意味することを遠巻きながら察し、王は瞬きもせず彼女を凝視する、しかしふっと瞳を翳らせると、悲しげに笑みを刻んで了承した。
「……いや、ちょうど潮時だったのかも知れぬ。このような娯楽にうつつを抜かせるのも、キリスト教徒たちが息を潜めた今時分でしか叶わなかったのだ。元から知っておる」
 彼は心持ち背筋を伸ばすと、王としての顔でトゥリンに向き合った。そこにあるのは先程までの少年の顔ではなく、傾国の憂いを支える一人の青年である。
「お陰で良い夢を見られた。サランダとエーニャにも別れの挨拶くらいしたかったが、仕方あるまい。一時の友として余に尽くしてくれた事、心から礼を言おう」
「その御心だけで十分でございます」
「ふふ、余もシェラザードのようにお主らを引き止めることが出来れば良いのだが、生憎シャフリヤール王ほどの余裕もないのだ。いつグラナダが敵の手に落ちるか怯えるしか能がないのだからな。そして久々に得た友も、中立でしかない」
「……そう在る事が私たちの定めですので……」
「はは、本気で取らないでくれ。何も嫌味を言いたい訳ではないのだ。余は既に覚悟しておる」
 彼は娘に顔を上げるように言うと、噴水の向こうにあるであろう、敵の陣を遥かに見つめた。
「キリスト教徒たちは都の周りを囲んだ。こうなれば篭城するか、前面衝突しかあるまい。先王である父を廃し、その後を継いだ時から察していたが――我ながら損な時代に生まれたものだ」
 トゥリンは黙って王の言葉を聞いている。流浪の三人姉妹の中で歌い手の役割を担いながら、普段は生真面目で言葉少ない娘であった。王は彼女を振り返ると、軽く両手を上げて外を示す。
「さあ行くがいい、トゥリン。最後の審判の日には自ずと巡り合えるだろう。アッラーの御心がそなた達の元にあるように」
「――陛下も、お元気で」
 トゥリンは深々と礼をして退室した。傾国の王の潔さに微かに胸が痛んだが、もはや自分がここですべき事はない。そう――他に為すことがあるのだ。彼女は額の文字をそっと片手で押さえると、気持ちを切り替えるべく目を閉じる。
「久しいな。今夜はトゥリン殿であったのか」
 すると回廊の陰から、まるでタイミングを計ったかのように男が現れた。普通、王家の色とされる白を着るのが貴族たちの慣習なのだが、将軍職でありながら黒の長衣を羽織っている男など一人しいない。しかしそれすら、狼将と呼ばれるこの男には似合っていた。
「イスハーク様……もしや立ち聞きなさっていたのですか?」
「おやおや、立ち聞きとは人聞きの悪い。取り込み中のようだったので待たせて貰っただけだ。美人の歌声を聞けるなら、苦でもないしな」
 けろりと悪びれず応えるイスハークを前に、彼女は顔を強張らせる。
 苦手な相手だ。自分はサランダ姉上のように上手く彼をあしらう事も、或いは物怖じしない妹のように蹴散らしてしまう事も出来ない。
「しかし貴方がた姉妹が来なくなると、陛下も淋しくなろう。つれない娘たちだな。俺もサランダ殿を是非ハーレムにと思っていたが、結局笑顔であしらわれ続けたままだ……あれは手ごわいぞ」
 トゥリンの困惑を横に、イスハークは勝手に喋っている。彼は顎鬚に手を当てると鋭い目尻を横に流し、くいと口の端を上げた。
「それで、陛下に仰った“時が巡った”とは何の事だ?」
 成る程、ここからが本題という事だろう。彼女は慎重に言葉を選びながら目を伏せた。
「……それは王家の方のみにお伝えする言葉です」
「王家、か。確かにそれは大仰だな。我ら臣下たちは、何故ゆえ陛下が貴女方を招いているのか、本当の理由を知らない。歌や踊りはともかく、占いは悪魔の力を使うものだと厭う輩もいる。しかし陛下はそれを退けてまで謁見を許し続けた……お前達は一体、何者だ?」
 泰然とした態度を崩さず、獣の瞳がトゥリンを射る。 
「わたし、達は……」
 誤魔化されてはくれないだろう。しかし全てを話す訳にもいかず、彼女は一つ息を吸い、端的に答えた。
「ムハンマド様と同じです。神からの御言葉を預かった、物語の紡ぎ手です」



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