ディアスポラ.2












 シャララ、と涼やかな音が響く。
 手首を飾る鈴の輪、薄いベールを蝶の翅のように広げて風を乱す、しなやかな両腕。沙漠の太陽を思わせる赤茶の髪がそれに続き、陽に焼けた娘の顔を彩った。
 夜を照らす赤い炎が白壁を染め上げ、さながら夕陽に包まれているような幻想を導き出す。岩を削った酒場は陽気さと哀切さを帯びた旋律で満ち、彼女の踊る脚に絡まって、手拍子と交じり合った。
 かき鳴らされるギターのリズムに合わせて踵を鳴らせば、じゃん、と夢の時間は終わりを告げる。酒場の男達はすかさず拍手を踊り、この若い踊り子を賞賛した。
「いやあ、相変わらず素晴らしいねぇ!血が騒ぐってもんだ!」
 店主も満面で彼女に笑いかける。一礼したエーニャは拍手に応じてにっこりとすると、息を整えながら舞台から去り、壁際のクッションに座り込んだ。
「ありがと、オジサン。でもどうせ褒めるなら、今日の夕飯で気持ちを表して欲しいなー。奮発してくれる?」
「エーニャちゃんの為なら何とかするさ」
「やった!」
 無邪気に喜ぶと、彼女は手渡された飲み水に口を付けた。やはり仕事の後の一杯は格別に心地良い。
 ここはアラハンブラ宮殿から僅か北にある丘、ロマ族たちが住みついている地だ。鬱蒼と森が侵食している中に、クエバと呼ばれる白塗りの洞窟住居が道沿いに並んでいる。ここに至ってはレコンキスタの被害もほとんどない為、宵闇に包まれると、何事もない平和な町のように見えた。
「ここ最近は闘い続きで辛気臭いからねぇ。都を離れる者も後を絶たないが、未だここに残っていて正解だったよ。キリスト教徒たちが来たのは厄介だったが、まさか一緒に、こんな可愛い巡礼者たちも来るんじゃねぇ」
「もー、オジサンは口が上手いんだから。でも今日は用があるから、おだててもこれ以上踊らないよー?」
「なんだい、そりゃ残念だ。そう言えば最近見ていないが、姉さん達はどうしているんだい?」
 店主と軽口を叩き、エーニャはアラブ風の絨毯を手でなぞりながら首を傾けた。
「それぞれお仕事中、かな。トゥリン姉さんは人が良いし真面目だから、寂しがりな王様の話し相手になってるみたい。サランダ姉さんは……またどこかの金持ちに妖しげな占いでもして、色々と巻き上げてるのかも?」
「まあエーニャったら、随分な事を言うのねぇ」
 おっとりとした口調が背後から響き、エーニャは飛び上がらんばかりに仰天した。
「サ、サランダ姉さん!いつから聞いてたの!」
「ふふふ、どうかしらね。あ、ご亭主さん。わたくしにも飲み物を頂けるかしら?」
 紫の衣服を優雅に纏い、一番上の姉が傍らに佇んでいた。エーニャが陽気な太陽を思わせる娘ならば、サランダは逆に、満ちた月のような美しさを持つ娘だ。神秘的と言えば聞こえはいいけれど、こうして音もなく現れると心臓に悪い。
「びっくりした……サランダ姉さんは暫く来ないかと思ってたのに」
「あら、そうのんびりもしていられないと思って駆けつけたのよ。お陰で色々と巻き上げ損ねちゃったわ」
「うっ、ご、ごめんなさい……」
「相変わらずエーニャは口が悪いんだから」
 サランダは掴み所のない円満な笑みを浮かべ、そっと杯に口付けた。互いに姉妹と慕っていたが血は繋がっていない。二人の間にトゥリンも入るが、彼女達は故郷をなくし彷徨っている、ユダヤの巡礼者たちだった。随分前からイベリアを旅していたが、数ヶ月前からアラハンブラに滞在して期を窺っているのである。
「残るはトゥリンだけかしら、急がないといけないわねぇ。もう二つの軍は睨み合って、いつ衝突するのか分からない状態ですし、それに例の“噂”もあるでしょう?」
「……ああ、噂、かぁ」
 エーニャは疑わしそうに唇を尖らせた。
「それ、本当に本物の悪魔なの?先生は封印が解かれたって言ってたけど……しかも一人ではなかったんでしょ?」
「乙女を連れているだなんて随分とロマンチックね。でも本物で間違いないんじゃないかしら。今だって――」
 サランダは店内を流し見た。ギターの曲は新しいものに移っている。
「彼を狙って、色々と入り込んでいるようですし」
 ちらりと視線を向けた先には、常連の客たちに紛れて身を潜めている二人連れの男達がいた。黒いローブを着込んで場に溶け込む事はなく、小声で囁き合っている様子は少し不気味なところがある。エーニャは思わず顔をしかめた。
「あっ、踊ってるときは夢中で気付かなかったけど、奴らじゃない!」
「教団が動いているという事は、噂の悪魔が本物だと言うことでしょうね。何をお願いしに来たのかしら?」
「そんなの決まってるわ、すぐに先生に報告しないと!」
 いきり立って今にも駆け出そうとするエーニャに、姉は服の裾を掴んで立ち止まらせた。ぐいと勢いを殺されて、危うく転びそうになる。
「落ち着きなさいなエーニャ。サディ先生はわたくし達に『まずは見よ』と仰ったのよ。どちらにしろ物事が動く速度は変わらないわ。トゥリンと合流してから参りましょう。焦った所で転ぶだけよ?」
「ま、まずは姉さんのせいで転びそうになったけどね……っ」
「あら大変。頭を打ったりしたら、せっかく覚えたお話が消えてしまうわねぇ」
 よしよし、と頭を撫でられる。この姉は始終こんな感じだ。毒気を抜かれながらエーニャは頬を膨らませ、自らの胸元に刻まれた文字を押さえながら不満げに呟く。
「そんなに簡単に忘れないったら。だって私達は、物語の貴重な一部なんだもの」



 * * * * * * * *



 ――かつて、文字の霊に取り憑かれた男がいた。
 図書館は広大であり、紙の発明されていない当時、粘土板に刻まれた書の群を追って彼は何を考えたのか。夜な夜な文字の囁く声を聞き、その意味する所、その精霊の脅威を何と定義したのか。
 男はそれを、魔術と同等と見なした。
 即ち、文字は全てを支配する、と。
 文字の霊共が一度或る事柄を捉えて、これを己の姿で現すとなると、その事柄は不滅の生命を持つ。反対に文字の霊に触れなかったものは、如何なるものも、その存在を失わなければならぬ、と。
 どれほど曖昧な物事も言葉を与えられれば形を成し、力を得て人々の心に忍び込む。どれほど善良な王であれ、書が彼を愚王と記すなら、それが真実となる。
 我々は文字のしもべ。
 我々は彼らに生かされ、殺される。

 その結論が正しいものであったのか、判断できる人は少ないだろう。しかしその一端が真実であると認めない訳にはいかない。実際に文字が世界を支配していると、如実に示す存在があるのだから。
 ――黒の歴史書である。




 * * * * * * * *





「……やれやれ、そろそろかの」
 アラブの町を見下ろす小高い岸壁の上、老人は一つ呟いて杖を進めた。
 迷路のように入り組んだこの古い町も、今では人気もなく閉ざされている。乾いた眼下に見えるのは城砦と森、そして砂ばかりだ。
 彼は長らく待っている。それこそ物心ついた時から、歴史の分岐点に立つ事に深い羨望と使命感を感じ続けてきた。既に白濁しかけた目を瞑れば、今でも古い書庫の匂いが蘇ってくるようだ。複雑な楔の模様を記す粘土板、乾いたパピルスの植物の手触り、朽ちかけた書物の最後の吐息――。
 記憶を辿るうち、ざわざわと、頭の中で文字が動き出す。それは額のヘブライ語の刺青から、様々な人間達か語りかけてくるように感じられる。古代の聖書ヘブライ語は「聖なる言葉」、即ち「神の言語」という名前で知られていた。確かに彼にとっても、これは特別なものだった。
 波間を漂うに、文字の囁きは大きくなる。声は老若男女問わず、密やかに物語を紡ぎ始める。
「      」
「      」
「      」
「      」
「      」
 それは人々の記憶から失われ、あるいは故意に忘れ去られてきた歴史の断片だ。ざわざわと心地良い囁きに耳を傾け、ああ、何と貴いものかと老人は嘆息する。
 魔術師が黒の書から破棄した可能性――未来が枝分かれしていく際に捨て去られた、挿話の遺言。『歴史』から離れ『物語』となった記述たち。
 教団から離れた今になっても、あの広大な図書館は鮮明に思い出せた。必死に覚えて盗み出した90の記述も、こうして額の文字と共にある。
「お待たせしました、サディ先生!」
 現実の声が明るく耳に届き、彼は目を開けた。アラハンブラから続く坂道を辿り、彼の教え子達が登ってくるのが見える。手を振って声を上げたのは三女のようだ。その後を、二人の姉が追っている。
「おお、揃ったようじゃの」
 彼は柔らかに笑むと、三姉妹に愛情の意を示す。いずれも放浪の先で拾った孤児だったが、今ではこうして彼の意志を継ぎ、語り部となって失われた物語を記憶していた。
「皆、元気そうで何より」
「ええ、先生もご息災で嬉しい限りですわ。どうやら時が来たようですねぇ」
「……ふむ」
「陛下にもお伝えしてきました。これで少しは彼らの思惑から外れる事が出来るでしょうが……」
「教団も悪魔も動き始めたみたいです。どうしますか?」
 姉妹達がそれぞれ報告する言葉に頷きながら、彼は目を細めた。
「古の神も蘇った……争いの系譜も記述の通り進行しておる。終末に至る書の言葉は未だ生きておるようじゃ。これは回避する為には、我らも多少表舞台に上がらねばならぬやもしれぬ……が、しかし……悪魔が人の子を連れるとは、記述にはない物語が始まるかもしれぬのう」
 岩窟寺院で見た光景を思い出しながら、老人は微笑を零すと眼下に向けて杖を振り上げた。指す先は西――流浪の末に辿り着いた争いの都。
「さあ、参ろうか。希望は未だ潰えてはおらぬようじゃから、のう」










END.
(2008.06.05)

預言者一行は何の役目なんだろうかと思いながら捏造。イスハーク→サランダを個人的に推奨しております。
「文字の霊に憑かれた男」の話は中島敦『文字禍』から。


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