星を失くし、星を掴む.1











 乾いた岩の迷宮は、闇に閉ざされていた。
 無数の穴で繋がれた通路は横幅を変え、高さを変えながら、いつ果てるともなく伸びている。天井には鍾乳石に似た鋭い突起が生えており、時折、先端からぴちゃんと雫を滴らせていた。
 光源はない。完全な闇。
 さながら蟻の巣を思わせる洞窟の一角に、悪魔はぼんやりと佇んでいた。
(冥府――)
 しばし彼は眼前の景色を見つめる。よどんだ空気の中、微かに水と鉄の匂いがしていた。悪魔はゆっくり目を瞑り、そして開き、落胆と共に消えない景色を確かめる。
 間違いない。かつて自分が封印されていた場所だ。また、ここに舞い戻ってきたのか。
(しかし、何故?)
 経緯を思い出そうとするが、その途端、炙られたように頭の芯が痛み始める。思わず呻き声を上げた悪魔は、そこでようやく自分の体が常とは違う状態にあると気付いた。
 四肢はある。胴も、頭も、背中には六対の鬱陶しい羽根もある。しかし、全てがあまりにも軽い。
 よく見れば、火の粉を集めたように全身が赤く揺らめいていた。腕を翳すと、その向こう側に岩が透けて見える。
 実体がないのだ、と悪魔は察した。精霊や下等な魔神のように、今の自分は意識と魂を練り合わせた、いわば影のような状態にあるのだろう。一見すると砂漠をさまよう鬼火のようである。本質である『焔』がより顕著に現れているのだ。
 体を、どこに置いてきたのか。
 悪魔は周囲をぐるりと見回した。封印されていた頃は当然の事ながら冥府を出歩く真似はできず、それどころか体の自由を奪われて眠っている状態だった為、まるで土地勘がない。陰鬱な空気と乾いた死の匂いには嫌というほど覚えがあったが、目の前に広がる複雑な通路は、鏡に映し出されて延々と増殖した産物のようで、まるで現実味がなかった。
 歩き出す。一歩踏み出せば、それと同じだけ景色が進んだ。全身が透けてはいたが、岩を通り抜けるような事は器用な真似はできない。体を求める本能に導かれるまま、彼は洞窟の中を進んだ。
(何か――)
 ぼんやりと悪魔は思う。
(他にも、何かを探さなければならなかった気がする。しかし、一体何を?)
 影となった今、再び記憶が曖昧になっていた。そのせいか不安も焦りもどこか遠い。肉体を取り戻さなければと考えるが、それも切迫した想いではなかった。ただ惰性のように右手の壁を辿り、変化の乏しい迷宮の中を歩む。いくつもの角を曲がっても、道は途切れる事なく先へ先へと続いていた。
 ――冥府とは、魂を留めておく場所。再び魂が地上に舞い戻って過酷な生を歩む事がないように、このような複雑な造りになっているのだ。
 そう、誰かから聞いた記憶があった。相手の姿は思い出せないが、その言葉だけは耳の奥で鮮明に甦ってくる。
 洞窟はなだらかな上り坂になり、それにつれて天井も高くなる。やがて道が開け、小さな広場のような場所に出た。赤く揺らめく自らの体が光源となり、苔むした四方の岩壁と、崩落した岩が積み重なっているのが見て取れる。どこからか滲み出しているのか水溜りができており、ぱしゃりと寒々しい音を立てて足元が揺れた。
 広場の正面と左右にはひとつずつ穴が開き、奥へと続く道となっている。しばし悪魔は考えた。ここが地下ならば上へ向かうべきだろう。正面の道を選ぶ――が。
 その時、闇の中を何かが蠢いた。
 緩やかに右へ曲がる道の先で、薄っすらと白いものが床に浮かび上がる。それは細長く、地面を這うような形で徐々に姿を現した。
 それは人間の腕だった。ひょろながい四本の腕が、かりかり……と爪先を地面に食い込ませ、少しずつ前進しているのである。頭部があるべき場所には何もなく、代わりに、背中の中央に頭が二つ、横並びに生えていた。両足は蜘蛛のように曲がり、地面に擦り付けている腹の下には、また別の足が生えている。胴には布のようなものを巻いているが、到底衣服と呼べる代物ではなく、岩壁に擦れてぼろぼろになっていた。
 冥府に巣食う亡者の一人だろうか。
 悪魔は冷静にそれを眺めた。気味の悪い見た目だが、自分の脅威になるとも思えない。影となって力を削がれているが、身の内に溜まる焔の魔力は充分に残っていた。
 その亡者は二つの魂が融合したものなのか、背中に生えている頭はそれぞれ男と女のものだった。耳をすませば、二つの口からは互いを罵る呪詛の声が聞こえたが、音が篭って言葉までは拾えない。
 やがて亡者はこちらの存在に気付いたようだった。漆黒の闇の中、二組の目を細めた後、ぎしりと体を硬くする。そして虫が蝋燭の火に飛び込んでいくように、凄まじい速さで暗がりを這いずってきたかと思うと、悪魔の目の前で大きく飛び上がった。
 跳躍の高さは身の丈の二倍、いや、三倍はあっただろう。悪魔は身をかわしたが、亡者は不器用に地面に転がると再び襲い掛かってきた。自分たちが相手にしているものが神の一人だと分かっていないのだろう。理性の飛んだ奇声を上げて突進してくる。
 かわすべきか、倒すべきか。危機感のないままぼんやりと悪魔が決めかねていると、また別の物音が聞こえてきた。右手の洞窟から、何者かが走りくる足音がする。
(……新手か)
 音からして、二本足の生き物のようだった。足取りは速く、瞬く間に広場に達する。最初の数秒は相手を見極める為だろう。僅かな時間を置いた後、その人影は亡者に向かって跳躍した。
「眠れ」
 告げる声は若く、鋭い。両手に構えられていた剣が容赦なく亡者の胴を貫き、地面に縫い付けると同時に、彼は返り血を避けて後ろへ飛び退った。背中を覆う長い髪と幅広のマントが、ばさりと鳥の羽音のような音を立てる。
 見覚えのない青年だった。神々にしては小柄だが、よく鍛えられた身体がマントの上からでも見て取れる。古風な鎧と剣帯を身にまとい、亡者に突き刺した一振りとは別に、もう一本の剣を左手に握っていた。
 その左の剣を、彼は続けて振りかぶる。亡者の背中に生えた二つの頭を潰しているのだ、と悪魔は気付いた。凄まじい悲鳴が上がる。しかしそれが途切れると、亡者の体は呆気なく崩れ落ちていった。そして霧のように形を失い、すっと闇に溶け込んでいく。
「……お前は誰だ。単なる死者ではないな?」
 振り返った若者が悪魔に問う。波打つ漆黒の髪で顔の半分が塞がれており、残った片目からは感情の見えない紫色の瞳がこちらをじっと見据えていた。
『私は』
 悪魔は言いかけ、口を噤む。自分の名を、肉体と共に遠く置いてきた事に今更ながら気付いたのだ。しかし問いかけておきながら悪魔が言いよどむ間さえ惜しむように、相手が先に口を開いた。
『ほう。誰かと思えば……久しいな、ベスティアよ。我を覚えておるか?』
 先程とは声の質が変わっている。何かが乗り移ったように、低く、二重に響く声だった。突然名前を言い当てられ、悪魔は青年を無言で見返す。
『ふん……この姿では分からぬか。しかし封印が解けたはずのお前が再びそのような姿で迷い込んでくるとは、いよいよ亀裂がひどくなっておるようだ』
 青年は地面から剣を引き抜くと、双剣を腰の鞘に収めた。紫交じりの黒髪と、独特のしゃべり方――悪魔は唐突に理解する。
『冥王か』
 その呟きに応えるように、若者の口元がついと吊り上がった。艶のある笑みは、かつて闇の眷属として合間見えた冥府の少年王のものとは違っていたが、紫の瞳の奥に覗く、死を慈しむ色だけは見覚えがある。悪魔がこの迷宮に封印されていた際、たびたび彼の訪問を受けて言葉を交わしたのだ。奇妙な懐かしさと共に違和感を覚える。
 彼は人を愛し、それ故に生を奪う神。常に己の存在を自問し、母に恋焦がれて神だったはず。
『何故、お前が死人狩りなどをしている?誰でも等しく愛するのが、お前のやり方ではなかったのか?』
 悪魔の問いに対し、冥王は青年の姿のまま微かに皮肉るような目で睫毛を伏せた。そろりと剣の柄を撫でる白い手が、闇の中でほのかに浮かび上がる。
『……以前はこのような性質の悪い死者はいなかったのでな。あれは人恋しさのあまり他の魂まで喰らうのだ。少しばかり、仕置きしておかなければなるまい』
『その体はどうした。お前のものにしては小さいが』
『我が器であり、我が眷属よ。剣を取るにはこちらの方が適しているのだ。普段は放っておいても勝手に冥府の掃除をしてくれるのだが、お前を見つけたので、今は体を貸してもらっている』
『掃除とは、先程のような事か?』
『ああ。ここはかつての冥府とは違うのだ――来い。昔のよしみだ。面白いものを見せてやろう』
 青年は踵を返し、自らがやってきた右手の穴へと向かう。悪魔は逡巡したが、他に頼る当てもない。青年が立ち止まって顎をしゃくるのを見て、黙ってその後に続いた。
 道はしばらく平坦だったが、角を曲がっているうちに急な勾配になる。青年は慣れた足取りで複雑な回廊を進んだ。青年自身も薄明るい光に包まれており、苔むした石壁が次々に照らし出されては闇へと消えていった。洞窟には蛇の通った後のような狭い横穴もあれば、古代の建物を思わせる廃墟などもいくつか見受けられた。どれも砂に埋もれている。
 ぽっかりと上下に吹き抜ける渓谷のような場所もあった。石橋が架かっており、その遥か下、谷底に数万もの亡者たちが谷底に蹲っている気配が感じられる。悪魔が眉間に皺を寄せると、沈黙の中、青年がぽつりと言い添えた。
『彼らはああして、地上に戻る日を夢見ているのだ』
 石橋を渡って再び洞窟の中へと入る。道はいよいよ急になり、突き出した岩から岩へ飛び移って、垂直に近い斜面を進んだ。最後の岩を飛び越えると、滑らかな台座のように磨かれた広い床の上に出る。青年に続いてそこによじ登った悪魔は、唐突に飛び込んでくる眩い光に顔を庇った。
 地上の朝日を思わせる光が、天井の天辺から煌々と差している。円形のドームを思わせる天井はひどく高い。見上げても、その頂点を見極める事は出来なかった。そこから白い光が零れ出て、岩壁の輪郭を霞ませている。
 その真下には巨大な円形の水盤が鎮座していた。外界の様子を覗き見る為に造られた水鏡だが、いまや大量に降り注ぐ光を受け止め切れず、湖面はゆらゆらと輝くばかりで何の映像も映してはいない。
『壊れたのか』
 悪魔は問うた。かつて冥王が少年であった頃、この水盤を日々の楽しみにしていたのを思い出したのだ。死者しか存在しない冥府の中、この水盤が映す地上の物語が、彼の唯一の娯楽なのだと。
 しかし青年の体に宿った冥王は、ゆるく首を振った。
『ああ……しかし仕方のない事だ。冥府を変えるきっかけを作ったのは、他ならぬ我なのだから』
 天井を仰ぎ見る様子は静かだったが、断ち切ったような語尾からは苦いものが伺えた。悪魔は横目で青年の様子を窺う。彼は天上から目を離さずに淡々と言葉を紡いだ。
『かつて、あそこから漏れる光だけが冥府と地上を繋いでいた。しかし、現在は違う。あちこちに亀裂ができたせいで、ここに眠るはずの魂たちまでもが再び外に出るようになった』
 見ろ、と青年が背後を指差す。水盤が置かれた場所とは反対側の岩場に、一人の亡者が佇んでいた。
 女のようである。しかし先程のような禍々しい姿の亡者ではない。ぼんやりとした白い光に包まれて、さながら幻のようであった。女が二人の事など目も向けず、起き抜けの子供のようなたどたどしい様子で水盤に向かって歩き始めると、その体は徐々に透き通っていき、やがて完全な光の粒子になる。そしてそのまま吸い込まれるように、すっと光のあふれる天井の隙間に向かって溶け込んでいった。
 途端、ごうっ、と大きく空気が鳴る。
 悪魔は驚いた。ありえない事に、風が――風が吹いているのだ。岩ばかりに囲まれた、よどんだ迷宮の中に。
『もはや運命の女神などはいない。我が殺したのだ――もう、とうに昔の事だ』
 青年の黒い髪が、風に乗って舞い上がる。刃のような鋭さを持った風の音と共に、その横顔が露になった。まばらに頬を叩く髪には死を意味する紫色が混じっている。白い横顔には微かに自嘲めいたものが含まれていた。
『しかし皮肉な事よ。以前は大人しく冥府で朽ちていくばかりだった魂が、女神の亡き後、亀裂に乗じて地上に出るようになった。生き物の本能的な欲求なのだろうな。生きたい、生きたいと喚きおる。悪しき亡者は切り伏せてきたが、魂の輪廻などというものが生まれてから、この冥府も随分と慌しい場所になった。時には生者でありながら理を曲げ、ここを訪ねてくる不届きな者もいるしな。……退屈はしないが、少しばかり目が回る』
『輪廻……』
『お前にとっては耳新しかろう。魂は死後ここで眠り、百年か、千年か、ここで眠った後に再び地上で生まれ変わる。それが現在の冥府の在り方よ。生など虚しいだけだと言うのに、いつまで繰り返せば、人は満足するのだろうな――』
 それを見守るのもまた一興か、と青年は己に言い聞かせるように苦笑した。ばさりと、髪と同じ方向に衣服の裾がたなびく。
 しばし二人は口をきかなかった。黙ったまま、それぞれの考えに沈んでいる。天井から吹き込む風が二人の髪を揺らし、ばたばたと服をはためかせた。やがて青年がこちらに顔を向けた。
『……それで、お前はどうしてここに舞い戻ってきたのだ。肉体はどこに置いてきた?』
 そう問われて、ぽつりと、ひとつの名前が降ってくる。
(……ライラ)
 それは波紋となって、身の内から熱い何かを引きずり出そうとする。その答えを探ろうと、悪魔はゆらりと舌先に名前を乗せた。
『ライラ』
 そして声に出した途端、少女の姿がどっと心に甦ってくる。彼女の名を雨水だと例えるなら――乾いた土のように貪欲に、悪魔は少女の記憶を追い求めた。もっと、もっとと。
 そうだ。彼女が封印を解いた。名を与え、地上に戻り、単なる一介の悪魔として彼女に付き添ったのだ。
 唐突に蘇ってきた記憶に唖然としていると、本人からの説明は無理だと判断したのか、青年が焦れたように悪魔の額に手を伸ばした。人の死を司る冥王は、その始まりと終わりを見届ける特質上、ある程度の未来を見通す能力を持っている。どういう手を使ったのか、彼は額に手を置いただけで悪魔が何に驚いているのか読み取ったらしい。彼は手を離しながら、『成る程――お前も人を愛したか。しかし、また何とも不毛な相手だ』と、くすりと笑った。
『愛……?』
『封印によって不完全とは言え、お前の魔力は強大だ。人の願いをひとつ叶えるだけで、歴史を歪めるほどの力を得るだろう。しかし、お前が庇護した少女はそれを望まないのだな。お前の力を持ってすれば一国の王にも勝る富や、絶対的な権力を持つ事もできると言うのに。願うべき欲望もなければ、憎むべき対象も見つからないとは……勿体ない話だ。例えば彼女が富や権力、あるいは復讐を望むなら、お前はすぐさまそれを叶え、幸せに浸れただろうに』
 全てを見通すような青年の物言いに、悪魔も徐々に不安が募ってくる。それは形のない、ひどく漠然とした恐怖だった。思い出した少女の記憶が鮮やかなだけに、じわりと色を濁らせる。
『もしその娘が平和を望むのならば、それは我ら神々にとってさえ難しい命題となる。かつて争いを止められた者はいない――いや、唯一いたとすればお前だろうな。世界の終焉をもたらしたのであれば、次の地平が生まれるまで誰も争いようがない。我にはお前の未来が見えるぞ、ベスティアよ』
 青年は蠱惑的な笑みを浮かべ、悪魔の顔を覗き込んだ。
『お前はやがて苦しむだろう。たった一人の少女の願いすら叶える事ができない自分に。あるいは、お前の力を有効に使わずに足踏みをしている少女に。満たされないそれは、いずれ飢えとなってお前を蝕む。共にいる事が辛くなる。いっその事この世界を滅ぼして、少女の迷いを強引に晴らそうと……そう浅ましく望むほどにな』
 そんな事はないと、どうしてか否定する事はできなかった。少女の望むようにしたいという心は確かに悪魔の中に宿っており、それを叶えられない苦さもまた、徐々に感じ始めていた事だったからだった。飲まれたように相手の言葉を聞く。
『気を付けるがいい。以前は我々が人間界を支配しているものと考えていた。しかし不変であるはずの神でさえ、彼らと関われば在り方が変わる。我が人の器を得た末、この冥府が様変わりしたようにな。運命の女神は消えたと言うのに、未だ世界は儘ならぬ――』
 青年の顔から笑みの気配が消えた。最後の言葉は溜め息のように細くなって消えていく。
 悪魔は何も言う事ができなかった。突然もたらされた不吉な感情に、まだ翻弄されたままでいる。
 青年はそんな悪魔の様子に軽く片眉を上げると、淀んだ空気を切り替えるように右手を振り上げた。
『……さて、思った以上に話し込んでしまったな。そろそろ肉体の元に戻らねば、いくらお前とて存在が危うかろう。出口はあちらだ。見送ってやる』
 彼が指差す先には例の水盤がある。あそこから出て行け、という事だろう。悪魔は促されるまま水盤に近寄った。これ以上ここに居て、冥王の言葉に毒されるのも恐ろしかったのだ。
 水盤に手を浸せば、天上から注ぐ光の柱に包まれていくのを感じる。徐々に視界が明るく霞んでいくと、光の膜の向こう側で、青年が腰から片剣を引き抜くのが見えた。彼がその剣に軽く口付けると、すっと刀身が伸び、戦闘に適した長さになる。
『餞別だ、受け取れ』
 青年は剣を放って寄こした。
『お前が書の魔獣となって世界を滅ぼそうが、地平線は幾度でも生まれ変わる。それをもどかしく思った時期もあったが……今はそれより、お前の行く末の方に興味がある。祝福しようぞ、ベスティア。お前のその恋が、いずれ歴史を歪ませる』
 悪魔は剣を掴む。これは本来なら冥王の鎌であるはず。その片方を寄こすのだから、餞別というのは嘘ではないのだろう。悪魔は黙ったまま、光に向かって吸い込まれていく感覚に身を委ねた。
 と、青年が最後に声を掛けた。
「――その娘を、もし、失いたくないと思うのなら」
 声の質が僅かに変わっている。冥王の声よりはやや高い、若者らしさの残る声だ。微かに翳った紫の瞳が、まっすぐに悪魔を射た。
「手放さないことだ。守ろうとしても、時間は待ってくれない」
 その言葉を最後に冥府の景色が遠のいていく。ごうっと耳音で大きく風が吹き抜けた。青年の黒髪が舞い踊るのを視界の端に捕らえながら、悪魔は己の意識が上へ引っ張られていくのを感じる。
 上へ、上へ、上へ――。



前 |



TopMainIberia



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -