星を失くし、星を掴む.2











 目覚めると、魔方陣の描かれた床に縫い止められていた。
 床は冷たく、周囲に人気はない。燭台の炎が薄暗い室内を照らしている。
 悪魔はぴくりと身じろいだ。四肢や翼が動かないのは、何かに固定されている為だと気付く。膝の上には一振りの黒剣が置かれていた。
(夢ではない……)
 どうやら冥府から戻れたようである。悪魔は細く息を吐き、物憂げに睫毛の先を奮わせた。
 魔術師に古い契約を呼び出され、書の魔獣として無理やり覚醒させられた事は覚えている。その先は記憶も曖昧だが、かろうじて預言者一行に封印を施されたのは思い出す事ができた。その間、意識ごと冥府へ飛ばされたか。
 ぶるりと翼ごと体を奮わせる。四肢を封印されているようだが、以前のように強力なものではない。かえって暴走していた力が抜けて、体が軽くなっているようにさえ感じた。黒い翼を震わせると軽い風が起こる。魔方陣は青白い光の糸になって体を縛り付けていたが、試しに冥王の剣で触れると、じりじりと焼け焦げてしまった。
 悪魔の動きを封じ、黒の書から飛び出た呪文を取り除く目的で施された魔方陣は、他の力に対しては多くの抵抗力を持たなかった。まして相手は冥府を統べる王の剣だ。千切れた魔方陣の破片が光となって静かに飛び散る。
『……ライラ』
 乾いた声で呟いて、悪魔は魔方陣を抜け出した。まだ本調子ではないものの、意識ははっきりしているし、手足も自由に動く。
(会わなければ。会って、確かめなければ)
 湿った匂いから察するに、ここは地下のようだった。翼に絡む封印の糸を引きずって、ずるずると床を歩く。やがて上に向かう階段を見つけた。
 地上に出ると、既に時刻は夜である。宮殿の柱と柱の間から、星をばらまいた夜空が見えた。月はない。あれからどれだけ自分は眠っていたのだろう。
 感覚を研ぎ澄ませて耳を傾けると、宮殿の数箇所で人の眠っている気配を探り当てた。ひとつ、ふたつ……全部で五つ。悪魔はその中から迷いなく少女のものを選び出し、そちらに向かう。
 静かな夜だった。時折、宮殿に隣接する林の奥から鳥が飛び立つ音がする他は何も聞こえない。悪魔は自分の鼓動がいつになく早いのに気がついた。得体の知れない焦燥が足元から這い上がってくる。
『お前はやがて苦しむだろう。たった一人の少女の願いすら叶える事ができない自分に。あるいは、お前の力を有効に使わずに足踏みをしている少女に。満たされないそれは、いずれ飢えとなってお前を蝕む――』
 周囲が静かなせいだろうか。まるで呪いのように、冥王の言葉が耳の奥で繰り返される。
(……怯えているのか、私は)
 悪魔はそんな自分に驚いた。魔方陣から抜け出してから真っ先に確かめたいと思うほどに、自分はあの言葉に動じていると言うのか。
 少女が眠っているのは突き当たりの小部屋だった。六対の翼を引きずる悪魔が中に入れば、それで一杯になってしまうほどである。刺繍の施された掛け布に包まって、少女が静かに寝息を立てていた。他には誰もいない。悪魔は静かに寝台を見下ろした。
 焔を分け与えた証に髪色が変わっている事を除けば、何の変哲もない、普通の少女である。謎の病にかかってからは、悪魔の力を注いですら衰弱していくばかりだった。寝顔にも疲れが見える。
『ライラ』
 悪魔はそっと呼びかけた。しかし声は小さく、少女が起きる気配はない。毛布を抱きしめて雛鳥のように身を丸めたままだ。悪魔は形を確かめるように、そっと彼女の喉元に手をかける。華奢の造りに恐れさえ感じた。
 ――なんて細い。なんて、無力な。
 少し力を込めさえすれば、この細い首はぽきりと折れてしまうだろう。少し爪を立てれば、この柔らかい皮膚は真っ赤な血を流して温もりを失ってしまうだろう。人間はそうした生き物だ。あまりにも脆い。放っておいても寿命で死んでしまう。同じ眷属に加えてさえ、その脆弱な造りは変わらない。不老ではあっても不死ではない。簡単に傷つき、病に倒れ、冥府の底へと沈んでしまう。
 そう考え、悪魔は落ち着かない気持ちになった。
 これほど脆い存在を隣に置いていたのだと改めて恐ろしくなる。長い封印から自分を開放してくれた少女に対し、自分は望むものを与えてやろうと思っていた。しかしこれから先もずっと――悪魔の眷属としての長い時間を――いつ壊れるかしれない脆弱な者と知りながら、自分は、どこまで彼女を守っていられるだろう。
 鬱陶しくはならないか。その脆さが。足枷にはならないか。あの契約が。心変わりはしないだろうか。あまりにも長い時間の中で。
 冥王は、共にいる事が辛くなる時がくると言っていた。悪魔にとってはそれが最も恐ろしい。自分が消える事よりも、彼女が消える事よりも、共に生きようと交わした誓いが後悔で汚されるのは我慢ならなかった。じわじわと視界が黒く狭まる。
(ならば、いっそ)
 弓撃たれ、死にかけていた彼女を冥府の底で助けたのは自分だ。その焔を今ここで奪ったとしたら、かえって良い結果を生むのかも知れない。一度少女のものとなった焔を自分が吸収するのなら、彼女の魂を取り入れて生きていけるのなら、こうして不安定な気持ちになる事もないだろう。もっと楽に、もっと自然に、彼女を手に入れられるのかもしれない――。
 魔が差す、という瞬間は誰にでもある。それは彼でさえ例外ではない。そうでなくとも彼は孤独に慣れすぎていた。誰かと寄り添う術を心得ていない。強引に決着をつけようと心が急いた。
「……シャイターン?」
 不意に、少女が身じろぐ。悪魔は咄嗟に手を離した。室内に入り込む窓からの星明りで、少女の細められた瞳に光が灯るのを見る。彼は視線を外せない。狩りの間、獣が一度狙いを決めた獲物から視線を外さないように、最も興味のある存在を見つめた。
「良かった、目が覚めたのね!」
 だがその目は、彼女が子供のように自分の首元に飛びつくのをはっきりと映し出した。眠気と疲れでだるい体を跳ね起こし、半ば泣きそうな顔で歓声をあげるのを聞いた。悪魔はその瞬間、時の流れが遅くなったように思った。
「ずっと眠っていたのよ、もう駄目かと思ったわ!」
 自分が傷つけられるとは一片も考えていない、無防備な抱擁だった。伸ばした腕も、庇いようのない腹も、心臓も、生物の弱点と呼べる弱点の全てが、ただ信頼の名の下に悪魔に向かって開かれていた。
 この瞬間、彼女の焔を奪うのはあまりにも容易く、それ故に悪魔はひどく戸惑った。そして悟ったのだ。
 この小さな生き物の信頼を、どうして裏切れようか。どうして奪えようか。どうして、捨てられようか。
 ――いとおしい、と。
 ぞくりと翼の付け根が震える。甘い痺れが全身を貫き、一瞬、悪魔は体が浮かび上がったような気さえした。
 それはほとんど恐怖に近いような喜びだった。自分の在り方を根本から揺るがす者に巡り合った、その感情。その自覚。その衝撃。時に置き去りにされ、朽ちていくばかりだった己の封印を彼女が解いた時から、その萌芽はあったのかもしれない。だからこそ自分は彼女を眷族にした。守ろうとした。望みを叶えてやろうとした。
 けれども自分の決断を覆してまで、抱えようとしたものではなかったはずだ。それなのに、今は彼女の焔を奪って自分の元に還らせる事などできまいと分かる。
『……ライラ』
 硬い鱗に覆われた皮膚がちりちりと痛んだ。何かから攻撃を受けているのではと反射的に体を見下ろしたが、胴体に抱きついている少女の体が見えるだけだ。感情の揺れがつれてきた錯覚なのだと気付く。寒気にも似た現象で、自分は今、衝撃を受けているのだ。
『ライラ』
 悪魔は少女の名前を繰り返す。背に手を回す事はおろか、身じろぐ事すらできなかった。胸が詰まって、息を吸うのも憚られた。
 ――お前のその恋が、いずれ歴史を歪ませる。
 冥王の言葉が甦る。その不吉な響きとは反対に、胸につかえていたものがするりと流れ落ちていくのを感じた。
 これが恋ならば、自分は何も恐れる事はない。確かに慣れない感覚だが、決して悪い気分ではない。
「貴方は覚えているかしら、サディ先生達がここまで運んできてくれたのよ。あの人達は敵じゃないから大丈夫、安心してね。お弟子さんも三人いるのだけれど、とても親切にしてくれたわ!」
 悪魔の様子に気付かず、ライラは嬉しそうに経緯を話し始めている。内容はなかなか頭に入ってこなかった。背後からの気配でようやく我に返る。
「どうやら書の文字は取り除けたようじゃの。一晩で抜けきるとは思わなかったが、さすがは神と言う事か」
「サディ先生!」
 ライラがぱっと顔を上げて自分の胸から離れる。続いて振り返ると、見覚えのある老人が部屋の入り口に立っていた。悪魔はライラを庇うように立ち上がったが、おぼろげながら魔獣となった時の記憶はある。老人が味方だと思い出し、彼は唸り声を止めた。
「翼はそのままのようじゃが、顔の古代文字も消えておる……安心しなされ。また魔術師がちょっかいを出してこなければ、前回のように理性まで奪われる事はないじゃろう」
 そう言って杖の先で床をひとつ叩く。老人の目は白く濁っているにも関わらず、悪魔の上に起こった変化を見透かしているようだった。無粋な時に来てしまったと、可笑しがるように頬を緩めている。
「……まだ夜明けまでは遠い。もう少し休んでいなされ。王からの早馬でアラハンブラの様子も伝わった。朝になれば、また話し合いの場を設けようぞ」
 分かりました、とライラが頷いた。悪魔はそんな少女を見下ろした後、つられて頷く。彼女が老人を慕っている様子を垣間見て微かに胸の奥がざわついたが、それもしばらくすれば収まった。老人が立ち去った後、そっと睫毛を伏せて息を吐く。
 ――まだ魔術師の思惑を完全に退けた訳ではないのだ。気を抜いている場合ではない。
『ライラ』
「何?」
『心配をかけた』
 自分の想いを確かめるように、少女の頬に手を伸ばす。くすぐったそうに顔を摺り寄せてくる彼女を見下ろし、悪魔は押し抱くようにゆっくりと羽根を折り畳んだ。








END.
(2013.01.16)

個人的に黒エレフはこんなイメージです。ちなみにシャイタンと冥王のこれまでの付き合いは『母乞いの迷宮』『タナちゃんといっしょ』な感じです。


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