ダール・アル・ヒクマ.1











 倒れた悪魔を何とか担ぎ込み、一晩かけて馬車が向かった先は森の奥の小さな宮殿だった。
 預言者一行がアラハンブラ王から借り受けた物である。使われなくなった王族の別邸と言う話で、あちらこちらの柱に植物が這い回り森の一部のようになっていたが、室内は充分に使う事が出来た。
 移動の途中で気を失っていたらしい。ライラが目を覚ましたのは翌日の朝である。小さな窓から太陽が覗き、一通りの家具が揃った室内を明るく照らしていた。
「目が覚めましたか?」
 付き添ってくれていたのだろう。生真面目な口調で話しかけられ、ライラは一瞬びくりとした。しかし次の瞬間、昨夜の記憶と共に目の前にいる娘の事を思い出す。
「貴女は……」
「私はトゥリンです。お腹がすいたでしょう。まずは何か食べて下さい」
「……どうもありがとう。私はライラ」
 礼を言って食事を受け取る。よく考えれば最近は寝込んでばかりで、きちんとした物を食べるのは久々だった。暖かいスープが疲れきった体を暖めてくれる。
「あの、ここはどこ?」
「グラナダの郊外にある宮殿です。滅多に人も来ませんから、隠れて養生するには最適でしょう。ゆっくりして下さいね」
 娘は口元を緩めた。硬い印象だったが、笑うと一気に柔らかくなる。ライラも釣られて笑みを返した。
「色々と分からないことがあるの。あなた達は何?それから……シャイターンはどこ?」
「詳しい話は後にした方がいいでしょう。ですが、その二つの問いなら答えられます」
 彼女はまず自分達の名を教えた。サディという老人を初めとして、長女のサランダ、次女のトゥリン、三女のエーニャという三姉妹のユダヤ巡礼者だと言う事。悪魔は眠ったまま別室で様子を見ており、心配はいらないと言う事。
「私は先に戻っていますね。気分が良くなったようでしたら準備をして、広間へ来て下さい。話はまたそこで」
 手際よく話すトゥリンの様子は好ましかった。彼女が部屋を出て行った後、ライラは静かに食事を終え、手早く着替えて準備を整える。髪紐を失くしてしまったので髪は背に流したままにするしかなかったが、赤茶色に近い色になったそれが悪魔の異変を知らせてくれているようで、再び胸が苦しくなった。
 ――昨日のものは、何だったんだろう。
 黒い法衣の男。変貌したシャイターン。助けてくれた巡礼者達。ライラは目まぐるしく考えを廻らせながら唇を引き結び、部屋を出た。分からない事は聞くしかない。ぐだぐだと考えていても始まらなかった。
 そう大きい宮殿ではないらしい。廊下を道なりに進むと噴水のある中庭に出る。噴水は今は機能していないようだが、池には水が湛えられていた。その側に馬の世話をする娘の姿が見える。
「あれ、もう具合はいいの?」
 エーニャだった。彼女はライラの姿を見ると晴れやかに笑い、ひらひらと装束を揺らして近寄ってくる。
「今トゥリン姉さんに聞いたんだけど、ライラちゃんって言うのね。もー、昨日は大変だったね?」
 そう言って、からからと笑う。開けっぴろげな彼女の陽気さに少し驚いたが、打ち解けやすい雰囲気には助かった。
「助けてくれてありがとう。貴女達がいなかったら、どうなっていたか分からないわ」
 ライラが礼を言うと、満更でもなさそうにエーニャが片手を振る。
「いやぁ、お礼なんていいって。それが私達の役目だもの。悪魔が女の子を連れているって話も前から聞いてたから」
「……そうなの?」
「一部ね、町で噂になってたのよ。それを手がかりに貴女達を探し出せたし」
「最初から私達の事を知っていたの?」
 ライラが首を傾げると、エーニャは複雑そうに頷いた。
「うーん、まあ、そんな所かな。私達姉妹は血が繋がっていないんだけど、みんな孤児だったから、サディ先生に拾われて一緒に放浪する事になったの。それで色々あって、先生の仕事のお手伝いと言うか武者修行と言うか、そんな感じでイベリアに来ていて……その目的の一つが悪魔を見つける事だったから、初めから知っていたと言えば知っていたんだけど」
「……?」
 話の全貌が見えずライラが怪訝な顔をしていると、エーニャは申し訳なさそうに「私は説明下手だから、後で姉さんに聞いて」と廊下の奥を指し示した。薄く土埃が積もった白亜の床に、幾つかの足跡が残っている。ライラが寝室で眠っている間、彼らが宮殿の中を歩き回った跡だった。
 助言に従って廊下を進む。聖典の一節がカリグラファーとなって彫られた扉を開け、二つ目のアーチを潜ると、大理石と陶磁のタイルが敷き詰められた広間に出た。格子窓から入り込む太陽光を遮るようにタペストリーが吊るされている。香炉に炊かれた伽羅の香りがふわりと鼻先を漂った。
 室内の中心にクッションを並べ、老人と最後の三姉妹――サランダが座っている。背後ではトゥリンが水差しを持って飲み物の準備をしていた。
「昨日はありがとうございます、私――」
 ライラが恐る恐る近づいて礼を言おうとすると、老人が指を一本立てる。静かに、と言う事らしい。彼の目配せに従って視線を落とすと、何枚ものカードが敷き布の上に並べられている事に気付いた。
「占いの結果は出たかの、サランダ?」
「……今しばし。星が瞬いたままのようで」
「ならば、我らはもうしばし沈黙していよう。しかし招いた客人を退屈させるのも忍びない……おいでなさい、ライラ殿。先に貴女の神に会わせてしんぜよう。トゥリンも手伝っておくれ」
 老人はサランダを部屋に残して席を立つと、トゥリンを連れて別の回廊へと歩き始めた。ライラが後を付き従うと、やがて地下へ続く狭い階段に行き着く。足の悪い老人に手を貸しながら下りていくと次第に音の反響が変わっていき、ぽっかりと広い空間に出た。
 地下のはずだが不思議と明るい。目を凝らすと、天井に光を取り入れる工夫が施されていた。地上にある屋敷の造りとは違い、羽根の生えた赤子の天使などが壁際のレリーフに掘られている。偶像崇拝を禁じるイスラム教では幾何学模様の装飾が発展したが、それとはまったく様式の違う内装だった。
「ここは?」
「礼拝堂じゃよ。かつてこの地がキリスト教徒の土地であった頃の、な。宗教が違っても美しいと感じる心は変わらん。イスラムの人間とて潰すに忍びなかったに違いない。こうして隠すように残っておった」
 ライラの何気ない問いに応じ、老人はトゥリンを連れて更に足を進める。礼拝堂と言っても祭壇のような剥き出しの台と、高い天井を支える豪華な柱が残っているだけで、床にはほとんど何も置かれていなかった。明り取りの穴から差し込む光が模様のように転々と散らばっている。
「シャイターン!」
 一つ目の柱の影に探し人を見つけ、ライラは悲鳴を上げて駆け寄った。悪魔は壁を背にして座っていたが、磔にされたように六対の黒翼を広げられ、それぞれを杭のようなもので封じられていた。うなだれた首筋から長い髪が床の上へ零れ落ちている。目は閉じられ、ライラの声にも反応しない。両腕は体の脇に投げ出されるようにして広げられていたが、そちらには杭が刺さっていない事が救いだった。彼が接している壁と床には魔方陣が描かれており、ぼんやりと青白い光を放っている。
「こんな、ひどい……!」
「誤解なさらないで。彼は眠っているだけです」
 衝撃を受けるライラを見かね、トゥリンがそっと言い添えた。老人が優しく後を付け加える。
「正確に言えばこれも封印の一種と言えよう。肉体が既に書の魔獣に転化しかけておる。完全に彼を起こすのは危険と思い、ひとまず意識のみをこの世界から遠ざけたのじゃ。可哀想な事だが、理解しておくれ」
「……うん」
 微かな逡巡の後、ライラは老人の謝罪を受け入れた。このような形で封じられているのを見るは可哀想だったが、彼が書の魔獣として目覚めてしまっては元も子もない。予言書の文字達が虫のように這いずって彼を縛り上げ、別の生き物にしようとしていた昨夜の光景をぞっとしながら思い出した。
 傍らに膝をつき、頬に片手を当てる。閉じられた瞼はぴくりともせず、皮膚は封印の青白い光を受けて普段よりも更に冴え冴えとしていた。服の下から顎の半ばまで鱗が生えているのは、魔獣となりかけた影響が残ったままだからなのだろう。
「あんまりだわ。元に戻す事はできないの?」
「まずは体の中に入り込んだ《書の文字》を全て追い出さねばならん。今も秘石を使って進めている最中じゃが、終わるには時間がかかるだろうて。見てみなされ」
 老人が魔方陣を指し示す。張り巡らされた青白い光の線の一部が、焼き焦げたように黒く濁っていた。じりじりと蝋燭が揺れるように光は揺らめいて、黒を掻き回した後、ぱっと青く戻る。
「ああして文字達を焼いておる。大部分を始末するまで、残念ながら彼にはこうしてもらわねばならん」
「そんな」
 それを聞き、ライラの上に安堵とも憤怒とも付かない感情が舞い降りた。元に戻るのなら祝福すべき事だ。しかしその間、彼はずっとこうして昔のように封じられていなければならなのだろうか。魔方陣と杭で体を縫い止められて。あの訳の分からない魔術師が《書の文字》などと言うものを放ったばかりに。
 ライラは唇を噛み締めて悪魔から手を離すと、決然と背後の老人を振り返った。
「教えて下さい。昨日、一体何が起こったんですか?あの人は何者だったんですか?」
「そうさな……わしらも全てを知っている訳ではないが、断片のいくつかは教える事ができるじゃろう。少しばかり長い話になるが、その頃にはサランダの占いもちょうど結果が出ている頃じゃろうて」
 老人は傍らに付き添う娘を見やった。
「しかし物語を語るとなれば、わしはもう引退しておる。三姉妹のうち、サランダは占い師、エーニャは踊り子、そしてこのトゥリンが語り部となった。……トゥリン、ライラ殿に聞かせておやりなされ」
「はい、サディ先生」
 トゥリンは両手を胸の前に組んで一礼する。そして三つ編みを揺らしながら床に座り、他の二人にも同じように促した。長い話になるのだと察し、慌ててライラも楽な姿勢を取る。
「貴女の名前はライラ――『夜』を現す美しき名ですね。私がこれからお話しする物語も、同じく世界の『夜』の部分にあたるでしょう。歴史の闇に埋もれた物語……語られざる魅惑の神話。太陽よりは月を、光よりは闇を好む物語。けれども夜が決して恐怖だけを人々にもたらす訳ではないように、この物語の本質も決して悪という訳ではありません。貴女の契約した神が決して悪ではないように」
 改めて娘が語り出す。その口調は淡々としているが不思議な熱を帯び、夜の話をしたせいか、空気がすっと藍色に染まったような気さえした。
「私達はこれを『失われた女神の書と魔術師の話』と呼びます。しかし、これは完璧な物語ではありません。分かっている事実があまりにも少なすぎるのです。全てが推測でしかありません。物語の始まりは遥か昔、神話の御世にまで遡り、魔術師がどのように遍歴したのかと言う点については、ほぼ白紙。またこの物語には複数の挿話が挟み込まれ、膨大な数の続編が生まれました。そのどれが正しく、どれが間違いなのか。その全てを窺い知るには、私達の人生はあまりにも短いのです」
 娘はそこで噛み締めるように息を吐き出した。
「ですから――私が今日お話しするのは最も分かりやすい縦軸の一部。どのようにして魔獣が眠りについた後、女神の書が散逸し、魔術師の野望に火をつけたのか、と言う事だけに絞る事にしましょう。空白の部分は語り手の推測を挟み込み、現在に続く手掛かりとして、一つの年代記を編み出しましょう」
 娘は目を閉じる。滑らかな美しい瞼だ。まるで眼球に文字が書かれていて、それを読み上げているような。
「では、最初の推測を。そして最初の想像を。世界を滅ぼす魔獣の姿を、私達の瞼の裏に描いて――」


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