ダール・アル・ヒクマ.2












 如何なる因果の成せる業か、焔を司る神が天から堕ち、一介の悪魔になった頃。彼はその贖罪として、我らの世界を選定する任を与えられました。
 これが書の魔獣。審判の悪魔。来るべき時に地上を焼き払い、人々の叫びを一身に受ける役割。彼は神々と交わした契約書によって突き動かされ、幾度かこの世界を塗り替えたのかもしれませんが……人の子である私達が、それを知る術はございません。
 しかし書の魔獣と相対する神が、地上に生まれ出たのも、また確かでした。人を愛し、人と交わり、自ら地上に生まれ出た白き神です。
 彼は魔獣と争い、何度か世界の滅びを遠ざけたのだと伝えられています。彼らの戦いは千年ごとに繰り返され、その度に地平線は白く輝くのです。
 やがて書の魔獣が封印され、再び千年の時を待っていた頃、地上には白き神――雷神の一族が自らの国を作り上げました。
 それは現在の言葉で理想郷の意、アルカディアと呼び渡されます。彼らは王都に雷神を称える神殿を作り、直系の血筋の者を玉座に据える事で、世界の守りを強める事に成功しました。国は栄え、彼らの系譜は地上に満ち、次なる審判の日に備えていたのです。
 しかし一方で、雷神の血筋とは別の流れから、不思議な能力を授かった者達がいました。彼らは――女性の方が圧倒的に多かったと言う事ですから、彼女達と呼んだ方が正確でしょう、神殿に遣える神託の巫女達です。
 元から彼女達は重要な役目が与えられていました。天の星が与える啓示を読み取り、人々に伝えると言う役目です。彼女達の話す言葉は一遍の詩のようでした。諸侯はその神託から多くの意味を見出し、政治や戦争の判断材料とします。彼女達は言わば神の代弁者でありました。
 その中で、とてつもなく能力のある者。星の動きを正確に読み、未来を先読みできるもの。夢に見る者。遂には神の御子だと称えられるほど、力の持った巫女が幾人か生まれました。
 これを星見の巫女と呼びます。彼女達の見る未来は正確でしたが……しかし奇妙な事に、枝分かれする世界の可能性までをも含んでいたのです。
 例えば一人の巫女は、ある戦争の行方を三晩に渡って夢に見ました。最初の晩は東の国が勝ち、次の晩は西の国が、そして最後の晩は二国とも共倒れ夢です。
 これらの夢のどれが正しい託宣なのか悩んだ巫女は、その全てを公表しましたが、それはかえって無用な争いを呼ぶ事になりました。どうすれば我が国が勝つ未来を呼び寄せる事ができるのだと、東と西の二国から問い詰められ……終いには自分達には良い助言を与えなかった、西国にばかり肩入れしていたと難癖を付けられ、ある晩、忍び込んだ東国の使者に殺されてしまったのです。
 強すぎる能力は時に毒にもなります。
 それを嫌った神殿は、星見の巫女達を一箇所に集め、不要な情報を流さないようにしたのでした。神託は文字として書き留められ、どこまでを公表するか協議した後、世界へ広められるようになったのです。
 星見の巫女達が住む島の名をレスボスと言います。
 隠された花園の娘達。神の代弁者達。言葉を託された預言者達。中には普通の娘も混じっていたようですが――そのように権力から離れた男子禁制の島で、最初の『予言書』は作られる事になりました。
 巫女達が見た未来。星が、夢が、天が教えた未来の神託。娘達はそれを何通りも枝分かれする年代記として密やかに書き綴ります。あくまで『予言』ですから、その全てが当たる事はありません。巫女達は分岐していく世界を見極める禁書として、その書物を守り、不用意な託宣を封じたのでした。
 その書物には『女神』が憑いていたと言います。時の女神、可能性の女神、書の守人。星見の巫女達が彼女を生み出したのか、あるいは更に以前より『予言書』の原本があり、それを利用して付け加える形で女神の加護を得たのかは分かりませんが――。
 神話の御世、数多の神々が生きていたギリシャの地で、最も力を持っていたのは運命を司る母神でした。しかし、あらゆる可能性を秘めた『予言書』は、神が定めた『運命』とは全く別の流れを汲むものです。母神の紡ぐ一つの運命と、書の女神が認める複数の運命。不思議な事に、それらは矛盾しながらも決して互いを損なう事はありませんでした。『予言書』はレスボスの神殿で守られ、その力が悪用される事のないよう慎重に管理される事となったのです。
 しかし常に時代は流れます。争いが起こり、人は死に、秘密は暴かれます。雷神を祀る国が直系の王を失うと、世界は乱世へと突入しました。『予言書』もそこで行方知れずとなります。運命の女神も歴史から姿を消し、世界には確固とした『一本筋の運命』が失われました。雷神の系譜も方々に散り、世界は神々が支配していた神話の御世から遂に死すべき人間の時代へと――。
 空白の期間。私達の知りえる事のない年月。失われた『予言書』を、いかにして魔術師が手に入れたのか。
 古き遺跡より発掘されし、黒き書物。それは歴史を覆す……否、その全てを肯定する最悪の予言書。しかしどのような経緯であれ、永遠を手にした魔術師が『予言書』を所有した事が、最も忌まわしい出来事であったに違いありません。
 彼は書物に書かれている『審判の日』に興味を寄せました。そしてそれを待ち望み、あまつさえ自ら呼び寄せようとしたのです。彼は教団を設立し、庭師のように枝分かれする歴史の葉を切り落として、一本の物語に仕立てようと暗躍する事になりました。あたかも自らが、かつて存在した『運命の女神』に成り代わろうとするように。
 何を隠そう我が師、サディ先生も、また教団の生まれです。魔術師の下では『予言書』の原本を二四の巻に裂き、それぞれを記憶し、管理する語り部達を育てていました。時折、人の子の中にも卓越した記憶能力を持つ者が現れます。教団はそのような子供に『予言書』を流し込み、一種の演算機械として利用していたのでした。
 複数に枝分かれする『予言』を管理し、系統立てるのは、並大抵の事ではありません。そして頁には未だ番人たる『書の女神』の影響がありました。彼女の機嫌を損ねれば書物は単なる白紙の束となりかねません。どの選択肢を選べば世界の終末は早まるのか、どの場合に雷神の系譜が邪魔をするのか、教団は語り部達を使って慎重に分析しようとしたのでした。
 しかし教団も一枚岩ではありません。それを良しとせず反抗を企てるもの、逃げ出すもの、様々な物語が新たにそこで紡がれました。そしてサディ先生は離散の道を選び、教団から抜け出すと、私達のような孤児を広い、全てを見届ける旅に出たのです――。



 * * * * * * * * 



「ご苦労、トゥリン。こうしてわしらはイベリアに辿り着き、予言された悪魔の復活を見届けたのじゃ。同時に、魔術師が介入してくるだろう事も予想しておった。だからこそ昨夜、あの場面に立ち会えてのじゃよ。危ういところじゃったが……」
 老人はトゥリンの語りを引継ぎ、封印されている悪魔へ視線を向けた。
「遅くなってすまなんだ。結局、このような形になってしまったの」
 ライラも釣られて視線を動かした。まだ頭の中ではトゥリンの語った年代記が整理されずに渦巻いている。
 全ては仮定の話だと前置きされてはいたが、俄かには飲み込めない話だった。しかし力なく眠っている悪魔の、その異常に発達した六対の翼を見て、信じるしかないのだと苦々しく頷く。
「……ひどいわ。シャイターンは当事者だけど、それでも巻き込まれているようなものなのね。好きで世界を滅ぼす訳でもないのに、魔術師なんかに狙われて」
「魔術師の名はノアと言う。彼は魔獣が甦りさえすればいいと判断し、この地を去ったようだが……そう簡単に事を運ばせるのは、やはり癪と言うもの」
 老人は指先で地面に小さく円を書いた。それはするりと床の上を移動して、封印の魔方陣に融合する。
「できるだけ《書の文字》を抜き取り、魔獣の姿から遠ざける事としよう。星見の巫女の血を継ぐサランダにも未来を占わせておる。打つ手が増えるかもしれん。場合によってはライラ殿にも協力して貰う事になるかもしれんぞ」
「構いません、やらせて下さい。見ているだけなんてご免だわ。それが嫌で彼の手を取ったのに」
 初めは、人間同士の争いが辛くて。そして今は、自分達の意志を無視して進む陰謀が嫌で。そして言葉に出来ない部分でも、ぐらぐらと原が煮え立つような深い憤りがあった。
「ふむ、それならわしらも心強い。魔獣になりかけた今、古の神の心を取り戻すにはライラ殿の存在が必要になろう」
 老人は穏やかに頷いた。世界の終焉を担っていると言うのに、彼の物腰には常に落ち着きが感じられる。あるいは『予言書』で世界が滅びない可能性も同時に読み解いた者だからこそ、不用意に取り乱す事がないのかもしれない。
 その時、かんかんと階段を下りてくる足音がした。馬の世話を終えたエーニャが三人を呼びに来たのだ。彼女は扉から顔を覗かせ、慌てたように声を張り上げる。
「サランダ姉さんの占いの結果が出たって――それから先生、お客様がいらっしゃるそうです。ボアブディル王から早馬で手紙が!」
 トゥリンの片手には一枚の書状が握られていた。何事だろうかと三人は席を立ち、次なる事態に向けて地下室を後にする。ライラは一度振り返り、眠ったままの悪魔をじっと眺めたが、やがて振り切るように前を向き、階段を上がっていった。ここにいても彼の手助けにはならない。まずは知りえる事を知らなければ、と。

 残された闇。一行が立ち去ると、礼拝堂には『書の文字』が爆ぜる音が響く。異国の様式で作られた室内は宵闇の明るさとなり、封印の蒼色が壁に浮かび上がるのみ。
 ぱちぱち、ぱちぱち――。
 やがてそれに混じり、ばさり、と重たい音が鳴った。暗がりを這いずるような音。盗人が神殿に迷い込んだような無遠慮な音。
 否、それは封じられていた悪魔の黒翼が僅かにもたげ、小さく震えた音だった。彼は変わらず顔を伏せたままだったが、その翼の一対、一番上の物だけが別の生き物のように持ち上がる。
 ばさり、ばさり――。
 それは青文字で描かれた魔方陣の上を叩くように打ち据え、その封印に抗うように羽ばたきの動作を繰り返した。それは波紋を生むように二列目の翼をも震わせ、下の物へ、更に下の物へと伝わっていく。遂には六対の全てが身を震わせ、自由を求めるように動き始めた。
 やがて、悪魔の唇が僅かに開く。彼は未だ目を瞑っていたが、意識を闇に漂わせたまま無意識に何か呟いたようだった。
『――……』
 その声は自らの翼の音に掻き消されて聞こえない。彼の口元は再び引き結ばれ、礼拝堂は不穏な羽ばたきで満たされた。
 千年の時を経て、審判は徐々に廻り始めようとしている。







END.
(2011.10.12)

久々の更新でした。展開の遅いシリーズですが、同時にシャイたんがべスティアだとか、教団の設定とか書の原点だとか、一番無茶な妄想解釈をぶち込んでいるシリーズでもあります。別名・新しいアルバムが出て矛盾が出てきたら怖いシリーズ。
黒の予言書については最初のアルバム『Chronicle』の『Black Chronicle』で「古き遺跡より発掘されし黒き書物」と言う記述があったので、遺跡と言えばMoiraの神殿だろう→じゃあ巫女の集まるレスボスだな、と言う流れでした。
題名の『ダール・アル・ヒクマ』は「知恵の家」の意。


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