馬車と劇場.1











 道の途中で雨が降り始めた。町並みはあっという間に灰色に染まり、物憂げな色合いに包まれる。
 青年は視線を上げ、読みかけの本を膝に置いた。道が滑りやすくなり、馬車の乗り心地も悪くなる。がたがたと座席の下で車輪が揺れていた。
 彼は思案の末、胸ポケットから手紙を取り出す。開いた本の間にそれを挟み込み、読書を中断して窓の外を眺めた。
『××劇場に迎えに来て』
 しおり代わりに挟んでも、内容はとうに暗記している。しばらく姿を消していた母親が送ってきた手紙。青年は無意識に本の表紙を掌でなぞりながら、果たして指定通りの時間に劇場に着くだろうか、と考えを巡らせた。
 青年――イヴェールは正確なところ、人間とは呼べない。冬の天秤としての記憶を失い、老いる事も死ぬ事もなく、人間の血を糧に諾々と存在している夜の種族。母親と共に各地を点々とし、社交界の餌をあさってきたが、二十世紀も初頭の今、その生活も狂い始めている。
 イヴェールは冷めていく紅茶を眺めながら、寝室から母が出てくるのをじっと待っていた朝を思い出した。
 三ヶ月前、朝食も取らずに彼女は消えてしまったのだ。何の気紛れでいなくなったのだろうと気を揉んでいたが、それが昨日になって連絡を寄こしてくるとは。
 内容は素っ気なく、ごく短かいものだった。日付と時間、それから場所が指定されてあり、ただ迎えに来てくれと。余程急いでいたのだろう。普段の母ならば、便箋一杯に近況を書き連ねそうなものなのだが――。
 きしきしと窓枠が軋み、吹き付ける風が強くなった。雨粒は硝子にぶつかり、白い花のように飛び散っていく。
 イヴェールは雨が嫌いではない。考え事には最も適した天気だと思っている。
 雨は時間を止めてくれる。空は昼夜の境を見失い、一定のリズムを刻む雨音は催眠のようだ。そのせいか自分の内側に目が向く。こうした場所では特に閉じ込められた感覚が強い。風景が滲み現実感が薄れていくのを、息を潜めて眺めていたくなるのだ。
 もしかしたらこのまま延々と、時間を忘れて走り続けていくのではないだろうか――。
 そんな事をぼんやりと考えていると、不意に馬車が止まった。
「すんませんお客さん。あの、相席でも構いませんかね?」
 御者が尋ねた。どうやら突然の雨で困った人間が、無理に馬車を止めたらしい。
「なんでも、同じ劇場に行きたいらしいんですが」
 構わないと答えると、御者は明らかにほっとした顔を見せた。人間離れしたイヴェールの雰囲気に気圧されていたのだろう。そそくさと外に出て、さっそく新しい客を馬車に招き入れる。
 片手を御者に支えられ、入ってきたのは金髪の女性だった。イヴェールと同じくらいの年頃だろう。若さと自信がはちきれんばかりに放たれている。それは派手な化粧や堂々とした身振りからも伺われた。自分の美しさを知り尽くしている女の仕草だ。
 女は先客の美貌に驚いたようだが、すぐにつっと唇を上げ、お招きありがとう、と微笑する。イヴェールは自分の母親を連想し、本に挟んだ封筒を指先で辿った。
「急な雨で嫌になるわね。元から遅刻するとは思っていたけど、もう幕が始まっちゃうわ」
 女は向かいの席に座り、慣れた様子で足を組む。イヴェールは習慣的に首筋へと目をやった。女は膝の上に花束を置き、濡れた髪を整え始めている。すっぽりと毛皮のコートを着込んでいるが、寒いのか脱ぐ素振りはない。
「――失礼ですが、何かあったのですか?」
 イヴェールは静かに尋ねた。
「え?」
「美しい女性は男性から花束を貰うものと相場が決まっています。それに、貴女は劇場に行くつもりのようだ」
 雨音に合わせてゆっくりと喋る。
「一人で観劇をする女性は少ない。パートナーと行くのが一般的でしょう。しかし……貴女は一人。もしや、花束をくれた男性と連れ立って劇場にいくはずだったが、途中で喧嘩別れでもしたのかと」
「あははっ、随分と不躾な事を聞くのね?」
 女は歯を見せて笑った。
「もしかしてミステリーマニアなのかしら。素晴らしい推測だけど、残念ながらこれは自分で買ったのよ。彼が劇の出演者で、贈り物にね」
「……それは申し訳ない。一人でお困りかと思ったので」
「いいのよ。貴方が話しかけてくれて助かったわ。実際、一人で劇場に入るのは勇気がいるし。そちらもお一人なら、よろしければエスコートをお願いできる?」
「ええ。入り口までなら構いませんよ」
 イヴェールが了承すると、女はどこか不穏な笑みを浮かべる。ようやく馬車も出発したのか、再び足元に地面の振動を感じるようになった。密室に二人きりという事もあり、彼らは自然と会話を続ける。
「雨って嫌ね。突然なんだもの。慌ててコートを買ってきたのよ。お店で雨宿りしている時間もないし、参ったわ」
「傘は買われなかったのですか?」
「馬車を捕まえるつもりだったから、もういいかなと思って」
 女はイヴェールの膝元に目を向け、あら、と言う顔をした。
「やっぱりミステリーマニアなのかしら。それ、何の本?」
「ポーですよ。『赤い仮面の死』。ミステリーと言うより怪奇ものですね。あまり評価されていませんが、今日のような雨の日には似合いの小説かもしれません」
「ふうん……インテリなのね。でも私、本を読んでる人間って正直あまり好きじゃないの」
「本ではなく、本を読んでいる人間が?」
「ええ」
「理由を伺っても?」
「みっともないじゃない。姿勢も悪く見えるし、目を細くして、自分の不幸で手一杯って顔になるもの。おまけに夢中になると話しかけても無視するし、最終的にはうるさくしないでくれって怒鳴られるのよ。側にいる方としては堪ったもんじゃないわ」
「……成る程、一理ある。なんにせよ、没頭する人間と言うものは性質が悪いですからね」
 イヴェールは再び無意識に封筒をなぞる。なかなか我の強い女性のようだ。言葉使いこそ蓮っぱだが、尚更母の――ミシェルの事を思い出す。色気と狡猾さを武器にしている女。もっとも彼女自身は、この手の女性を品がないと嫌うだろうが。
 女は浮き足立っているようだった。子供のようにうきうきしている。何かひどく嬉しい事があって、その気持ちを抑えられず饒舌になっている、そんな様子だ。
「ちょうど良くエスコートしてくれる男性が見つかって良かったわ。でも入り口までって事は、貴方は誰かと会う予定なのかしら?」
「ええ、単なる迎えなんですが」
「迎えだけ?」
「チケットが取れなかったもので」
「それは残念。でも、無理ないわ。呪われた戯曲を復活させるって話題になっているもの」
「……呪われた、とは」
「あら、知らないの?」
「実は昨日、連れから突然迎えにくるよう連絡があったばかりで――恥ずかしながら、全く下調べをしていないんです」
 イヴェールは品よく苦笑してみせる。恋人の尻に敷かれている男と受け取ったのだろう。女が愉快そうな顔になった。
「置いていかれたなんてお気の毒ね。でも貴方が通りがかったおかげで馬車に乗れたんだから、私はその人に感謝しなくちゃ。ああでも、エスコートを頼んで嫉妬されないかしらね?」
 冗談めかした台詞で女は横髪を掻きあげる。
「ところで先程、呪われた戯曲と言っていましたね。随分と物騒な呼ばれ方ですが……」
「あら、興味が?」
「物語性のあるものは、何であれ好きなもので」
「ふうん、いいわ。劇場に着くまで時間がかかりそうだし、教えてあげる」
 タイトルは『檻の中の遊戯』って言うの――女はそう囁いた。




* * * * * * * *



 謎めいた女の犯罪史。実父の変死、養父の殺害未遂、青少年連続拉致殺害。
 過去の記憶を失くしたイヴェールにとって、母の名が使われる戯曲の内容は耳新しいものだった。
 成る程、ミシェルはこれに惹かれて姿を消したのだろう。今頃劇場で優雅に舞台を眺め、私はもっと美人よと、ひっそり微笑んでいるのかもしれない。
 だが果たして、この戯曲は真実なのだろうか。『檻の中の遊戯』に出てくるミシェルは自分の知る――宝石のミシェルと同一人物なのか?
「もう百年以上は伝説になっているわね。この戯曲を上演すると、必ず周囲で不幸な事件が起こるって言われているの。だから演劇関係者もシナリオを封印して、長い間すっかり忘れていたらしいわ。けれど今回命知らずな劇団が禁を破り、思い切って復活させようってわけ」
 見た目によらず、女の話は整理されていて分かりやすかった。かいつまんで『檻の中の遊戯』の粗筋の説明すると、現在噂されている曰くについて語り出す。イヴェールは話に引き込まれ、思うところを質問した。
「具体的にはどんな事件が?」
「ありがちな話よ。落雷で劇場が燃えたり、演出家が馬車に跳ねられて亡くなったり――でもやっぱり一番有名なエピソードは、劇団員が舞台で全員首を吊っていた、って話かしら」
 女は組んだ膝の上に右手を乗せ、頬杖を付く。薔薇の花束は大事そうに隣に置かれていた。
「千秋楽の翌朝だったそうよ。清掃員が最初に見つけたらしいわ。なんでも汚れているのが気になって幕を途中まで上げてみたら、舞台の上で、何人もの足がぶらぶら揺れていたんですって」
「……なかなか衝撃的ですね」
「じわじわ見えてくる、って言うのが嫌よね。幕の下から靴先に足首、次はふくらはぎ――ぞっとするわ」
 そうは言いつつも女は何故か楽しそうだ。得てして怪談はゴシップと同様、女性が好む話題なのである。
「舞台には争った形跡が残っていて、どうもお互いにお互いの首を吊りあったらしい、と言われているの。これって一体どんな状況だったのかしらね。誰かが一人を殺している間、どうして他の人間は逃げ出さなかったのかしら。まさかロープを引っ張って、全員で手伝ってあげていたとか?」
「彼らの間で何かトラブルでもあったんでしょうか」
「さあ……。劇団にお決まりの役取り合戦くらいはあったと思うけど、一人二人ならともかく、全員が凶行に及ぶとは思えないわ。だからこそ呪いって事になったんじゃない?」
 イヴェールは想像を巡らせる。随分と妙な事件だが、これは母の仕業だったのだろうか。
「でもね、呪いだけじゃない。他にも謎があるわ。この戯曲の原作者はね、昔も昔、中世の人間なのよ」
 馬車の沈黙を埋めるように、女は先程よりも声を低めて囁いた。
「面白いと思わない?没落した貴族の娘が何百年も後の、十九世紀から二十世紀を舞台にした物語を書いたなんて。それこそ流行のSFみたいじゃない」
「……成る程。確かに面白いですね」
「原作者のノエル・マールブランシェは、一体どういうつもりでこんなものを書いたのかしら?」
 女は強調するように、ゆっくりと首を傾げてみせた。
「シナリオ自体は珍しくもない筋ね。結末もあやふやだし、ただ猟奇的なだけにも思える――。でも、きっと当時は斬新だったに違いないわ。それにしても中世の人間が現代の風俗をあそこまで的確に想像できるものかしら?」
「…………」
 ノエル。
 イヴェールは顔をしかめた。先程から小さく耳鳴りがしている。こめかみに手をやると、偽りの鼓動が激しく脈打っているのが感じられた。何かが意識に引っかかっているのだが、それが何なのか分からない。
「あら、どうしたの。どこか具合が?」
「……何でもありません。思いがけない話だったので驚いているんですよ」
「ならいいけど、ねえ、こういう話は苦手だったかしら。やめておく?」
「いえ、大丈夫です。続きをどうぞ」
 興味が薄れた訳ではない。先を促すと、女は気を取り直したように髪の先を弄びながら頷いた。
「まあ……大昔の話だし、原作者の事はよく分かっていないの。時代を先取りしすぎた天才肌の女だったのか、猟奇的な妄想に取り付かれた女だったのか、人によって意見が割れているわね。面白い説は彼女が予言者だったんじゃないか、ってやつ」
「……予言」
「これも流行のオカルトね。ちょっと前まで降霊術も見世物になっていたじゃない。この説によればノエル・マールブランシェには予知能力があり、見えた未来を戯曲化したんじゃないかって事だった。でも、1887年になっても第一の事件は起こらなかったし、1896年にも1903年も空振り。だから予言説はなし、っ事になったわけ」
 女はふと窓の外を見る。馬車は川沿いの道を走っていた。
「だから今も問題になっているのは、戯曲の呪いは本当にまだ生きているのか、って事なの。指定された日付は過ぎた。なら、上映しても何も起こらなくなっているかもしれない。呪いの効力が切れたのかもしれない」
「それで、今回復活する事に?」
「ええ――演劇界ではかなり話題になったわ。特にミシェル役のオーディションにはたくさんの女優が殺到したの。演出家も有名な人でね、シナリオもアレンジして、ロマンスの要素を増やしたんですって。この舞台が成功したらきっと一躍人気スターでしょうね……」
 劇場が見えてきたせいだろう。女は気を削がれ、すっと醒めた表情になった。
「曰くつきの舞台、輝かしい舞台――素晴らしいじゃないの」
 その呟きを最後に二人は黙り込み、近付く劇場を眺めた。雨は小降りになったのか、先程まで石畳を跳ね回っていた白い花は見えなくなっている。壮麗なバロック様式の外観は威圧的と言うより、幻想的と呼んだ方が正しいと思われた。
 イヴェールは何故かゴテゴテに飾られた四角いケーキを連想する。ナイフで切り分ければ、その断層からたくさんの音楽と物語が零れ落ちてくるのだ。挟み込まれた食材に恥じないよう、外側も美しくデコレーションしていなければならないとパテシエが張り切って飾り付けたような。
 正面玄関に辿り着く。御者が扉を開けると、ひんやりとした空気が肌を掠めた。イヴェールが先に下り、その手を宙に掲げると、赤い手袋を嵌めた女の手が乗せられる。二人は連れ立って外に出た。
「雨が止んで良かったわ。もう第一幕は終わっちゃったかもしれないけど」
「どうでしょう」
 女はイヴェールに腕を絡める。
「ねえ、さっきの、予言説の話だけどね」
 視線を真っ直ぐ入り口に固定したまま、熱っぽく女は言った。
「もしかして全ての事件は起きていたんじゃないかしら。変死事件も、未遂事件も、拉致殺害事件も――予言が細部まで当たってる事なんて元から稀だわ。日付の方は外れてしまったのかもしれない。でも事件は――発覚していないだけで、実はこっそり起こっていたんじゃないかしら。私達が知らないだけで、今でもどこかの屋敷に十三人の少年の死体が隠されているんじゃない?」
「……実は予言は当たっていた、と」
「ええ。彼の説なの、面白いでしょ。ご褒美に花を渡しにいかなくちゃ。愛しい彼に」
 今や女は内心の喜びを隠そうとしなかった。鼻歌を口ずさみ、恍惚と微笑んで、片手に抱き締めている薔薇の匂いを嗅いでいる。イヴェールは無言で彼女をエスコートし、数段の階段を上った。ホールの前で立ち止まる。
「では、僕はここで。興味深い話をありがとう。おかげで楽しい旅でした」
「ええ、私も楽しかったわ。……でもね、実は私、自分より綺麗な人は嫌いなのよ。それも男の人なんて」
 女は唇を吊り上げると、軽く片手を上げて別れを表わした。イヴェールもそれを返し、舞台が終わるまでホールで待つ事にする。しかし女は劇場のボーイに毛皮のコートを預けながら、尚も一人で喋り続けているようだった。
「本当は――ミシェルは私の役だったの。でも彼がね、今回は妖しい毒婦じゃなく、純粋な、危うい少女のイメージでいきたいんですって」
 コートの下から、むき出しになった滑らかな肩が覗く。扇情的なデザインの真っ赤なドレスが現れた。
「でもミシェルのイメージは白じゃなくて、やっぱり、赤じゃないといけないわ――」
 女はそう呟いて、薔薇の花束を胸に引き寄せた。ヒールの音も軽やかに、それこそ照明を浴びる女優さながらの身のこなしで、鼻歌混じりに、客席に繋がる階段を上がっていく。輝くような金の髪がさらりと流れた。
 花びらが散る。
 イヴェールは薔薇の下から、無機質な黒い拳銃が出てくるのを確かに見たように思った。





 乾いた銃声の後、パニックになった人々が雪崩のように客席から出払い、あたりは奇妙な静寂に包まれている。
 殺人。
 イヴェールは母親を探しながら、慎重にそこへ近寄っていった。舞台の上では一人の男が倒れている。そこに先程の女が屈みこんで泣いていた。飛び散った血が横手の幕にこびりついており、イヴェールは馬車で聞いた劇団員が首を吊っていた話を思い出す。
 女は殺した恋人に抱きつきながら、しきりに同じ台詞を繰り返していた。赤く染まった血痕が徐々に黒ずみ始め、その変わり身を嘆いているようだ。
 死んだ男の横に、また別の女が立っている。白いワンピースを着たあどけない女。呆然と死体を見下ろしているその首筋に、大きな紅玉の首飾りを下げていた。
「……ミシェル?」
 尋ねると、白い女は緩慢な動作で首を巡らせる。怯えきった様子なので人違いかと思ったが、宝石が人に乗り移った事を示す赤い瞳を確認し、イヴェールはほっと胸を撫で下ろした。
「迎えに来たよ。おいで。一緒に帰ろう」
「……おかしいわ、イヴェール」
 ミシェルは愕然と呟いた。
「呪いが……まだ続いているの。貴方を手に入れて終わったと思っていたのに、また、こんな、こんなところに呼ばれて」
 肌寒さを感じたように、彼女は二の腕をさする。そこに普段の絶対的な自信、極彩の色香は感じられない。
「おかしい……おかしいわ。この戯曲のせい?これがあるから、まだ宝石の宿命を振り払えないの?」
 ぶつぶつと不満げな声。彼女は困惑し、怯え、そして憤っていた。イヴェールは眉を寄せてその様子を眺めたが、ミシェルがやって来ないと判断すると自ら舞台に上がる。安心させてやらなければ。
 共に暮らし始めた頃、彼女はイヴェールの絶対的な支配者だった。彼女がいなければ赤ん坊のように這ったまま、満足な食事も取れず、自分から動こうとしなかったろう。時を重ねて新しく自我が芽生えても、彼女はイヴェールを連れて歩く事に夢中で、その手綱を緩めはしなかった。
 けれど、いつからだろう。こうして取り乱す彼女を見るようになったのは。小さな亀裂が風雨に晒されて広がっていくように、彼女は徐々に不安定になっていく――。

 そこで、ぱちぱちと場違いな拍手が響いた。
「なかなか様になっているね。さながら今回はゴシック・ロマンと言ったところか。新しい物語の住み心地はいかがかな?」
 振り向くと、客席に一人の紳士が座っていた。こんな凶行の後でも優雅に足を組み、未だ劇を観賞するような風情だ。
 再びイヴェールはこめかみに痛みを覚える。どこかで見たような男だ。しかし、思い出せない。
 紳士は神経を逆撫でするような拍手を止め、ゆっくりと座席から立ち上がった。
「残念ながらノエル嬢に出し抜かれたようだね、ミシェル。世間が君の事を忘れない限り、君はいつまで経っても呪われた存在のようだ」
 紳士――賢者は声高に言った。
「……冷やかしに来たのなら帰ってちょうだい。貴方とはもう縁がないはずよ。余計な口は出さないで」
 ミシェルは声を詰め、真っ青になっていた。そこに去来するのは怒りなのか、あるいは他の感情なのか、イヴェールは見極める事ができない。
「イヴェールも久しぶりだね。友人の無事を確認できて嬉しいよ。紫の瞳とは実に興味深い事だ。その代わり、どうも記憶を白紙にされたようだが――」
「聞いちゃ駄目よイヴェール!」
 ミシェルが叫んだ。咄嗟にイヴェールは彼女を背に庇い、目の前の男を睨みつける。
「……どこの誰だか知らないが、彼女が迷惑している。帰ってもらえないか」
「ふむ。状況が把握できないうちに滅多な事を言うものではないと思うがね。しかし、今の君にとって私は招かれざる客のようだ。それもミシェルに躾けられたのかな?」
「母を侮辱するな」
 イヴェールが声を低めると、賢者は口元を歪めて失笑した。
「やれやれ。誰であれ母は母――か。確かにそれは君の求めるものではあるだろうが、今回ばかりは些か趣味が悪い」
「余計なお世話よ!人の趣味に口を出すなんて、賢者様は随分とお暇なようね。この子は渡さないわ、さっさと帰って!」
 イヴェールの背に庇われながらミシェルが怒鳴る。それを賢者は含み笑いで受け流し、隣の座席に置いていた帽子を頭に被った。
「分かったよ。今日のところは大人しく退散しよう。しかし――イヴェール。君が記憶を取り戻してくれる事を願おう。いずれまた、あの懐かしい物語の中で集まろうじゃないか」
 言い捨て、賢者は退場していく。その足取りには余裕が感じられ、また近いうちに姿を現すのではないかと予感させた。イヴェールは警戒を続けながら、じっと彼の言葉を吟味する。
 ――記憶。記憶だと?
 背中には新たな器に入ったミシェルがしがみついている。目を見開き、何かに打ちのめされている彼女。早く安心させてやりたかったが、いよいよイヴェールの頭痛はひどくなっていく。
 呪い、檻の中の遊戯、ノエル、十三人の少年達――。
 劇場は厚い壁に阻まれている。しかし再び、彼は鈍い雨音が聞いた気がした。そして足元に広がる粘ついた血の向こうから、どこからか響く奇妙な笛の音も。








END.
(2011.04.02)

正直なところ馬車の中の密室劇が書きたかったというか、オカルトミステリー仕立てをしたかったと言うか、そんな感じです。
そんなスターダストとのコラボ。とは言え、イヴェール達はアビスが来る前に帰りますけどね。





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