白花は開幕を告げる












 青年は右手に死を、左手に生を。 少女は右手に神を、左手に悪魔を。
 存在は向かい合わせ、鏡の二人。

 さあ、膿まれておいでなさい――。








 娘が木立の中にその人影を見つけたのは、離宮から抜け出して道に迷い、不安を感じ始めた最中での事だった。荘厳な夜の帳は雪の残る川沿いの小道を覆い隠し、遠いダンスフロアの音楽から逃れるように、二つの影は闇に停止している──。
(あの人たちも、同じパーティーに出ていたのかしら?)
 その夜、セーヌ川の畔で開かれた舞踏会は、春の訪れを称えて華々しく展開されていた。冬の終わりを喜び、これから始める季節を祝って人々は一晩中踊りあかすだろう。昼の狩猟から帰った男たちの武勇を誉めそやし、女たちは自慢のドレスを着込んでしなだれかかって、手に手を取って音楽と渦巻く。かつて百年戦争で聖女を火あぶりにしたルーアンの町は、当時の悲劇を忘れ去って華麗に春を賛美している。
 その中、初めて社交場に出た娘は入れ替わり立ち代り訪れる人の波に酔い、火照った頬を冷やそうと林に迷い出てしまっていた。不安げに肩のショールを掛けなおし、春先の空気に熱を奪われながら、とぼとぼと砂利の小道を歩き続ける。
 せっかくの舞踏会に、私は何をしているのかしら。
 迷いの小道はどこまでも続いていくようだ。やがて森の向こうに人影を見つけ、これで帰れると浮き足立った彼女は、しかし数歩進んだ時点でぴたりと立ち止まってしまった。
 それは夜会から抜け出して抱き合っている、一組の恋人たちに見える。ざわめく葉陰に隠れているので判別しづらいが、佇む二つのシルエットは接吻するように重なっていた。
 だが、よくよく見れば男女ではない。上品に仕立て上げられた二つの夜会服には細かい刺繍が施されていたが、そこにフリルやバッスルの膨らみはなく、両方ともコルセットを必要としない直線的な体だった。木にもたれて佇む青年の影を、大柄な背が覆い隠し、カフスで留められたレースの袖口がそこに回されている。
 まあ、と彼女は人知れず頬を赤らめた。当時の社交界では然程珍しくもない光景だったが、年若い彼女が実際に目にしたのは初めての事だったのである。
 慌てふためきながら、どうしようかしらと逡巡する。帰り道を聞きたいが、逢瀬の最中に声を掛ける訳にもいかない。ならば気付かれないうちに引き返そうと、娘は注意深く三段フリルがまとわり付く足を動かした。
 だが、枯葉を踏む些細な音を聞き取ったらしい。ぴくりと人影が動き、抱き合う背の向こうに隠れていた青年の瞳が、肩越しに覗いた。
 ふと眼が合う。
(──え?)
 その途端、まるで糸が切れたように、がくりと手前の男が膝を折って倒れた。唐突な変化に驚いて眼を丸くすると、崩れ落ちた大柄な男は既に意識を失っている。青ざめた顔が地面に仰向けになり、ぴくぴくと体は痙攣していた。白目を剥いた眼球は虚ろに天を睨み、全ての苦痛や快楽が永遠に失われた事を示している。
 ──死んでいた。
 その向こうには、青年が佇んでいる。先程まで男の背に回していた腕を両脇へ下ろし、人形めいた無表情で彼女を眺めていた。
「Mademoiselle」
 赤い唇が淡々と声を紡ぐ。パーティーでは見なかった顔だと考える間もなく、彼は倒れた男を避けて優雅に歩き始めると、何が起こったのか分からずにいる娘の前へ進み出た。
 ざわりと、梢が鳴る。
 まるで夜全体が今晩の主役を迎える歓喜に震えるようだった。葉陰から抜け出た彼を祝福するように雲間が切れ、月光と戯れるように結ばれた長髪が風に踊る。
 世界から切り抜かれたような、銀。
「あ──」
 現れたのは品の良い、美しい顔立ちの青年だった。全ての宵闇は彼を引き立てる背景となり、金縛りにあったように硬直する彼女の頬に、白い指先がするりと触れる。人の肌である気がしない、滑らかで冷たい指だ。銀にけぶる睫毛が影を落とす紫の瞳は、怯えた彼女を映して無感動に澄んでいる。
 そして娘は見る。
 禍々しいほどの美しさを称えた青年の顔が、そっと近寄るのを。深く透き通る紫の瞳が、こちらの視線を魅了して絡め取るのを。豪勢な襟元を留める紅玉のブローチの上、冷然とした薄い唇が緋く濡れているのを。
 首筋に唇が押し当てられた。接吻、ではない。柔らかい皮膚に次いで、硬く尖った物が肌を掠め、ゆるゆると移動する。いつの間にか腰を抱かれていた。意思という意思が全て溶け出したように、彼女は恐怖以上の恍惚に震える。掠れた声が漏れ出た。
「あ、あ──」
 美しかった、例えようもなく。一挙一動に魅入られて動けない。人が死んでいるのを確かに目撃したというのに、それすら遥か遠い昔の出来事のように思えた。抵抗しようとは露ほども思い浮かばないまま、娘は無防備な首筋を晒す。
 血脈を辿る舌は露骨ではないのに、まるで甘い愛撫のようだ。ぞくぞくと鳥肌が立つ。呼吸が出来ない。甘美で強烈な眩暈が思考を奪う。
 Au revoir、と囁いた声を聞いたのが最後。
 硬い牙が皮膚に突き刺さる感触を感じながら、娘は夢見心地のまま、生を終える。





 ざわめく風が止んだ。
 腕の中の物を静かに手放すと、娘の遺体は呆気なく地面に沈んだ。月は再び濃淡のある雲の下に隠れ、時折、薄い光を地上に降らす程度に収まっている。青年は血にまみれた自らの指先を舐めると、ぼんやり二体の死体を眺めやった。襟元のブローチを指先でなぞりつつ、意思の希薄な瞳は無言で来るべき時を待っているように見える。
 すると応えるように、死んだはずの娘の体がふっと息を吐き出した。五本の指が唐突に地面を掴み、ドレスの裾を引きずって静かに起き上がると、ゆるく首筋を押さえながら体をくねらせる。マリオネットが糸の使い手を得たように、華奢な体はかくかくと動き出して呼吸を整えた。
「……嗚呼イヴェール、待ちくたびれたわ」
 それは先程まで怯えていた娘とは全く違う、濃厚に匂い立つ魔性の声。表情も仕草も艶めいて、蠱惑的な緋い瞳がぱちりと瞬く。
「……母上」
 イヴェールは差し出された手を取ると、その甲へ静かに口付けた。ミシェル──《殺戮の女王》は宝石のブローチを本体としているが、条件さえ揃えば人の姿を取ることも出来る。娘の亡骸に乗り移った彼女は抱き起こされて満足げに微笑すると、自分の入れ物を見下ろし、ふふんと巻き毛を揺らして優雅に一回転した。
「久々に娘の体も良いものね。貴方と釣り合いも取れるし──そっちの体は川に投げてしまいましょうか。必要ないもの」
 男の死体を顎で指す。イヴェールは無言で頷くと死体を担ぎ上げ、近くを流れるセーヌ川へ放り込んだ。この辺りは流れも速く、すぐに見つかることもないだろう。処分を終えた彼は川岸から離れようとしたが、ふと何かに気を取られ、ぼんやりと足元に視線を落とした。
 それは春先に咲く、薄紫の花。名は確か──菫。
 ぴたりと動きを止めた彼をミシェルは怪訝に見上げたが、その視線の先に在るものを見つけ、可笑しそうに蠱惑の唇を吊り上げる。
「懐かしいのかしら、この花が?」
 イヴェールは返事をしない。困惑したように拙く目を細める。確かに漠然と記憶に引っかかる感じはするが、靄が掛かったように、無感動な心は何が懐かしいのか明確に理解しないのだ。
「馬鹿ね。本来なら冬に花は咲かないのよ。菫も紫陽花も、最初から貴方と一緒に居られる訳ないじゃない。あれは造花、所詮は幻想の話だわ。壊れた人形に未練を残すのはお止めなさいな」
 ミシェルは屈みこむと、その隣に生えていた小さな蕾を摘み取った。緑色の斑の入った花弁は夜中には咲かないはずだが、彼女の手の中で見る見るうちに綻び始める。月光を弾き、可憐な白い花が顔を覗かせた。
「ほら、貴方に似合うのはこういう花よ。雪の雫のような、緋が映える白い花。まるで貴方そのもののような花──」
 歌うように彼女は腕を絡めると、青年の顔を覗き込んで夜会服のポケットに花を差し込んだ。まるで絵画に描かれた似合いの恋人同士のように、二人は優美に寄り添っている。しかし急にイヴェールは喉元を押さえて咳き込み始めた。
「……っ、か、は」
 13人の少年たちを贄に作られた彼の体は、まだ不完全で世界に馴染んでいない。傾く事さえ忘れ、生きているとも死んでいるとも言えない骸の天秤──それが現在の彼。過去の記憶もほとんど持たず、言葉を口にすることも滅多にない。朝でも夜でもない《死色》の紫で虚ろに世界を見渡しては、果たして、かつての自分は何を望んでいたのだろうと考えるのが精々だった。その淡い寂寥感も、強烈な飢餓を覚えれば簡単に吹き飛んでしまうのだが。
「あら、まだお腹が空いているのかしら。生まれたばかりとは言え、仕様がない子ね」
 可愛くて仕方ないとばかりに彼女は囁くと、細い自分の手首を裏返した。差し出された意図を察し、イヴェールは躊躇いがちに睫毛を伏せたが、手首へ唇を当てると従順に歯を立てる。溢れ出る血液は甘美な美酒のようで、気がつくと夢中で舐め上げていた。
「良い子ね。可愛い坊や、私の王子様」
 髪を撫でられる。やがて咳き込みながらイヴェールが顔を上げると、唇から零れた一滴を少女の指先が掬い上げた。輝くような色香を放ち、ゆるりと彼女は首を傾げる。
「ねえイヴェール、貴方が最初に私を呪われた舞台へ引き上げたのよ。責任を取って頂戴ね。それに――こうして人の血を貰い受けるのは、貴方の大好きな《物語》を読む事に似ていないかしら?他人の生を知り、死を味わい、そこに愛と裏切りを読み取るの」
《舞台女優》はその役柄に相応しい妖艶な声で、輪廻の果てに恋焦がれた共演者へ腕を伸ばした。その爪先が宝石のブローチをなぞり、徐々に首筋を辿って青年の頬に当てられる。そこには既に太陽も月も消え失せて、名残となるのは二色が混濁した瞳の虹彩だけだが、映る景色は精彩を欠いて荒涼としていた。
「そして筋書きのない新しい戯曲は、誰にも邪魔されずに私たちで作るのだわ。素敵でしょう?そうおっしゃいな」
「はい、母上──」
 返答する瞳は、まるで白雉か傀儡の人形。幼い子供のように彼はミシェルの腕に抱かれ、その手に口付けて忠誠を誓う。
 宝石を母と呼び、物語を歌うことも忘れ、檻に囚われた骸の男は虚ろな意識で何を想うだろう。


 奏でられなかった詩の最終節。冬の寒さで死に絶えた花は何?
 そして戯曲の幕開けに聞こえた言葉は





『死合わせにおなりなさい』











END.
(2007.10.01)

趣味に走りまくる屋根裏物語with吸血鬼ネタ。


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