19世紀パリ春










 やけに向かい風が強いと思ったら、いつのまにか早足になっていた。
 かつかつと響く自分の靴音に、ああ苛立っているんだなと他人事のような感想が浮かんだ。踵を地面に叩きつけるような歩き方になっている。短く鼻を鳴らし、イヴェールは背にした大学の建物が一刻も早く視界から消え去ればいいと願った。
 散々な話し合いだった。足並みの揃わない面子、煮え切らない討論。あの不快な空気が、ぶちまけた油のように髪や肌にべとべと付着している気がする。大体、前回の話し合いで議題に上った問題がなかった事にされ、うやむやにされた事がまずおかしい。そしてそれを指摘したイヴェールを、さも協調性のない人間のように扱ったのもおかしい。
 さっさと水に流してしまえと合理的な自分が耳元で囁くが、不愉快な感触が脳にこびりついて離れず、まともに意見を取り上げてもらえなかった憤りで目の前が白くなる心地さえする。
 わざわざ講義のない日に出向いてやったと言うのに、こんな荒んだ気持ちで帰るのは納得がいかなかった。一歩間違えば子供のように癇癪を起こしてしまったかもしれない。また来週も同じ集まりがあるなんて、本当にやっていられない。
 時刻は昼前になろうとするところだった。午後は教授に会いに行こうと思っていたが、さすがにそんな気分ではない。当り散らせる便利な同居人も、今は仕事で家にいない。いつも通り工房の仲間と昼食を取っているだろう。自分一人どうでもいいやと投げやりな態度で道を曲がると、ばったり朝市に行き当たった。
 毎朝パリでは数多くの市が立つ。イヴェールも週に二度、新鮮な野菜や肉を求めて利用する。朝市は正午になるとお開きになるが、その時間帯と重なったようだった。
 苛立った勢いで売れ残っていた魚を買う。ニジマスだ。ローランサンは工房に行って不在だが、多いに越した事はない。とりあえず二匹。火を通せば問題ないだろうが少々時間が経って痛んでいるのか、値段はびっくりするほど安くなっていた。
 アパートの部屋に戻り、イヴェールは乱暴に荷物を寝室に放り投げる。魚の包みだけを持って台所に行き、食糧棚の前でじっと献立を考えながら、おもむろに野菜と牛乳を取り出した。
 ニジマスはぬめりが強いので、敵を拷問にかけるような気持ちで淡々と表面をこそげ取る。苛立った今の状況にはちょうどいい作業だ。腹に切り込みを入れ、ざっくりと親指でワタを摘み出す仄暗い快感も、おそらく他では味わえないだろう。刃先が背骨に当たるこりこりとした手応えも、イヴェールに不思議な満足感を与えてくれた。空っぽになった魚の腹を水洗いする作業さえ、溜まった残虐性を晴らす正当な手段の気がしてくる。
 水気を拭き取った後、白ワインと塩胡椒を振りかけた。ここまでくれば、後は順番通りにこなしていけばいい。魚に味を染み込ませている間に鍋を火にかけ、玉ねぎを炒めながら牛乳やら小麦粉やらでお決まりのホワイトソースを作る。焦げ付かないように目を光らせながら、その傍らでにんじんと芽キャベツを切った。新しいフライパンを出して魚を焼き、先程のホワイトソースと野菜を投入して蓋をする。
 一度手順を間違えそうになったが、まあ、別にそれでも構わない。イヴェールは着々と手を動かしながら、憤りでばらばらになっていた細胞のひとつひとつが、あるべき場所へきちんと腰を下ろしていくのを感じていた。
 料理は素晴らしい。きちんと自分の誠意に――想いに応えてくれる。正しい切り方さえ会得していれば生き物は食材へ、包丁を滑らせれば従順に、火にかければしっとりと、優しく美味しくなっていく。
 人間はこう簡単に食べられてくれない。思い通りにはならない。世間にはどう頑張っても食えない人間が多すぎる。足並みなんて揃うものか。
 それを思えば、料理とは自分なりの秩序を取り戻す作業だった。自分でも何かを作り上げる事ができるのだと、自信を持って確認する作業。魚に火が通ったのを確認し、塩と胡椒で再び味を整える頃には、ちょうど良く頭も整理されてくる。
 ほう、っと一息ついた。
「……次の話し合い、さぼろうかな」
 毒の抜けた本音が零れる。
 そうだな、そうしよう、と溜息のように繰り返しても、きっと来週になってしまえば自分は律儀に大学へ顔を出すに違いないのに、ひとまず嫌な事を脇に追いやった事で少し楽になった気がした。
 出来上がった魚のクリーム煮を皿によそい、付け合せのサラダを出す。さすがにフルコースとまではいかないが、気晴らしに作ったにしては豪華な方だ。習慣で二人ぶん用意してしまったが、鍋に蓋をしておけば一晩や二晩は充分に持つ。
 さて、いただきますとフォークを手にしたところで。
「あれ。何だ。イヴェールもいるのか?」
 アパートの扉を乱暴に開けて、騒々しくローランサンが入ってきた。外からの風がどっと吹き込んで窓が軋み、人影を写して硝子がきらきら光る。工房の仲間と昼食をとっているだろうと決め付けていた同居人が唐突に現れて、イヴェールは軽く目をみはり、思わず椅子から腰を浮かせた。
「ローランサンこそどうしたんだ、こんな時間に戻るなんて」
「昼休み、あと忘れ物!」
 彼は怒鳴るように言って私室に飛び込むと、ごそごそと物音を立て始めた。自分の内側に沸き立つ憤りと料理の手順にだけ目を向けていたイヴェールに、その音はひどく鮮やかなものに感じられる。それを半ば呆然と聞きながら、立ち上がりかけた自分の膝を見下ろし、ふっと鼻から息を抜いた。
「……世の中、思い通りになるのかならないのか、よく分からないな」
「あ?」
「いや、何でもない。君も昼食、ここで食べていくだろ?」
 笑うと、眩い風の尾を掴んだ気がした。同居人は忘れ物を鞄にしまうと席に座り、紙袋からパンを取り出して半分に割ってくれる。
 やはり彼も一人きりの食事と考えていたせいで、向かいの店から買ってきたと言うのだ。本当にタイミングがいい。イヴェールは新しい食器を持ってきて、これ幸いにと鍋から残った料理をよそう。
 何だか、無性に愉快になった。
「なあローランサン、食べながら聞いてくれよ。本当に今日はひどかったんだ。何しろバルバラ学寮の連中の言い分ときたら――」
「ちょっと待て。それ、俺が工房に行くまでに終わる話なんだろうな?」
 作った料理が一度で綺麗になくなるのは嬉しい。そして鍋の中身を分け与えながら、愚痴を聞いてくれる相手を捕まえるのも、また素晴らしい。





END.
(2011.08.15)

不定期パリ同居シリーズ、虹鱒のクリーム煮編。食べ物の出てくる話がとても好きです。


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