香りを巡る冒険










 引き出しから抜き取った手紙の束は、薔薇を思わせる赤いリボンで結わえてあった。闇夜の中、鎧戸から差し込む星明かりで目的の署名かどうか確認する。
「……ローランサン、糸」
 イヴェールがそっと耳打ちした。
「手紙に糸が付いてる。何の仕掛けか知らないけど、外した方が」
 視線を下げると、文束から一本の糸が自分と卓机を繋いでいた。獣の唾液のように不気味な線が、だらりと床まで垂れ下がっている。
 罠かと思ってひやりとした。事が事なら毒でも塗ってあるのかもしれない。手袋を嵌めた指先で慎重に調べてみたが、何が仕掛けられているのか分からなかった。無言のままイヴェールへ視線で問いかけても、ただ首を振る気配だけが伝わってくる。深追いはせずに放っておけ、と言う事らしい。
 ローランサンは文束を脇に挟み、引き出しを元に戻した。どれだけ注意深く痕跡を消そうとも手紙に滲み込ませた香水の匂いが自分達の逃げ道を簡単に露呈させてしまうだろう。
 だが犬にでも追いかけられない限りは問題ない。召使い用の通路から厨房を通る予定だから、念の為に生肉でも失敬して番犬への土産にする手もあるが、そこまで積極的に動物と遊びたい気分ではなかった。かねての計画通り厨房の残飯穴から崖へと飛び降りて屋敷の外に出た方が無難だろう。イヴェールは腐臭が付くと言って嫌がるだろうが、どちらにしろ香水か残飯かの餌食になるしかない。ローランサンはそう判断し、無言で頷いた。
 文束を抱えて書斎を後にする。足元すらおぼつかない闇の中、イヴェールの掲げた燭台の炎が揺らめいた。急ぎ足で廊下を進むと、じりじりと安い蜜蝋の光が次々に夜気を弾いていく。
 奇妙な夜だった。仕事中だと言うのに緊張感が持続しない。
 風がなく、音がないせいかもしれなかった。手紙に炊き込めた香水が鼻を惑わせて、隣にいるのがイヴェールではなく全く別の人間ではないかと下らない錯覚を呼び起こしていく。ローランサンは何度か隣に目をやって、蝋燭の明かりを消さないようにと慎重に歩を進める相棒の姿を確かめた。
 しかし厨房まであと少しと言う時になって、二人の足がぴたりと止まった。
「……誰かいらっしゃるの?」
 女の声だ。それほど警戒しなくてもいいと脳が判断したにも関わらず、体は反射的に手紙を咥えて両手を剣へと伸ばしている。不味い紙とインクの味にローランサンが顔をしかめていると、一足先にイヴェールが前を行き、素早く女の口元を片手で覆ったのが見えた。
「お静かに、ご婦人」
 賊が押し入ったとまで理解したのか、見知らぬ声に女は肩を震わせる。こんな時間に徘徊するのだから女中かと思ったが、絹の夜着から身分のある女性だと知れた。そう若くもない。怪しい者じゃないと説得するイヴェールの囁きに怯み、女はやがて両手を握り合わせて大人しくなった。
「……どなた?」
「悪く思わないで下さい。こちらの奥様……ですね。貴女を罪の道から救い出そうとする者です」
 とっておきの低い声。口説き落とそうとしてやがる、とローランサンは思った。こんな状況にも関わらず女は目に見えて動揺したようで、頬を赤らめながらも目玉をあちこちに動かしている。間近に迫ったイヴェールの容姿に気付いたのか、喉を引き絞るような呻き声を上げた。もう少し彼女が若かったら黄色い悲鳴と称される部類だろう。
「罪の道から……?」
「事情は存じております。このような事、清らかな貴女には似つかわしくありません。ですから、手紙は全てこちらで」
「で、でも、これはあの人が……」
「こんなもの、貴女の名誉の為にも邪魔なだけでしょう。それに――」
 どうも彼は現在、情熱的な青年貴族の設定でいるらしい。イヴェールは耳元に顔を寄せ、何事か囁いた。途端に女は感極まったように目を潤ませ、何度もこくこくと頷いている。
 何を言ったのか知らないが、ひとまず無事に仕事を終えられそうだ。ローランサンは咥えていた手紙を再び持ち替えて先に進む。やがて追いついた相棒の様子を流し見、そのまま背後へ視線を走らせると、ぽつんと廊下に立ち尽くす女の姿が視界に入った。
「――これで愛人からのラブレター奪還作戦、無事終了、か」
「しっ、静かに。聞かれたら元も子もないだろ」
 イヴェールが小さくたしなめる。厨房に入ると闇が深まり、肉や香草、チーズや酒、樽の水垢、ありとあらゆる食材の匂いが迫ってきた。天井にぶら下がっている片手鍋や香草に頭をぶつけないよう気を付けながら奥に進む二人は、仕事の下らなさにそれぞれ溜息を吐く。
「まったく、別れ話はこじれるものだって相場は決まっているけど浮気の清算くらい自分で済ませて欲しいよ。ああ、疲れた」
「確かにこれが機密文書なら格好も付いたんだろうけど、ラブレターじゃな」
「振ったらこれで脅されるとでも思ったんだろう。野暮な事だ」
 厨房の壁際に外と通じる残飯穴を見つけ、ローランサンは木蓋を開いた。屋敷は斜面に建てられており、床板と地面の間に空間ができている。積み重なった生塵の酷い匂いに辟易しながら、ひとまず命綱になるロープを垂らす作業を始めた。邪魔になった手紙をローランサンが床に放り出すと、イヴェールがそれを拾い上げて眉を潜める。
「参ったな……。あの糸、罠じゃなくてリボンのレースがほつれた物だったんだ。こんな綺麗なリボン、手紙をまとめる為に使わなくてもいいのにね」
 処分するのは気が咎めるなと横髪を掻き上げている。女の純情さを突きつけられているようで決まりが悪いようだった。捨てられた男の手紙を後生大事に保管している女の姿勢には、不貞を働いたと言え一種の美しさがある。
 しかし、元から男を見る目がなかったのだから仕方ない。いくら立場上邪魔になったからとは言え、盗賊に頼んで恋文を回収させようとするような下衆野郎と愛人関係を結んだのが運の尽きだったのだ。その上、その盗賊に絆されて見逃してやるようでは他人事ながら先が思いやられる。
「そのリボン、せっかくだから貰っとけば。それも絹だろ。髪を結ぶのにちょうどいいんじゃねぇ?」
「……本当に君はデリカシーがないな」
「どうせ捨てられるんだろ」
 垂らしたロープと斜面に生えた潅木を足がかりに、二人は屋敷から抜け出した。柔らかい生塵の上へ足を落ち着けると、鼻を摘みながら石畳の道を目指す。どうも今日は嗅覚を刺激されてばかりだ。鼻がもげても不思議ではない。
「まったく、最近の僕達は盗賊と言うより便利屋だ。ビラでも作って宣伝したいよ。迷い猫探しから浮気調査までお気軽にご相談下さい、って」
「そりゃいい。お前の三文芝居も加えとけ」
「アドリブで良ければね」
 そもそもたった二人で賊と名乗るのも妙な話ではあったんだけど、と八つ当たり気味にイヴェールがぼやいた。彼の髪に赤いリボンはさぞかし映えるだろうが、それよりも今は風呂に入りたい気持ちで一杯になっているのが表情から見て取れる。
 石畳に出たところでローランサンは屋敷を振り返った。ほとんどの窓は暗かったが、明かりの付いている窓が一つだけ見受けられる。
 あの女は今頃どうしているのだろう。恋を辿るよすがも失い、空っぽになった引き出しをいずれ別の何かで埋めるのだろうか。逃げ出す時に移ったのか、手紙は既に香水の事など忘れて残飯の匂いに変わっているのに。
 ローランサンは抜かずに終わった剣の鞘を揺らしながら、こんなものが金に変わるのだからやはりこの世界はどこかおかしいと、皮肉げに片眉を上げた。








END.
(2011.06.16)

スランプだったのでリハビリに。うちの盗賊s、よく考えればあまり盗賊っぽい仕事してないですね。


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