すでに夜は近づきて












 不意に部屋の中が暗くなった。
 窓を鳥が遮ったのかと思ったが、屋根を叩く雨足が強まったのだと気付き、ノエルは縫い物の手を止める。
 家の向かいにある糸杉の木が、悶え叫ぶ死霊のように激しく揺さぶられていた。不気味な色の雲が、窓の外をぐんぐんと流されていく。これでは植えたばかりの畑の苗も駄目になってしまうかもしれない。狭い家もガタガタと軋んでいた。
 気が滅入るような光景である。けれどノエルは、雨が嫌いではない。
 水が坑道に流れ込んで危険だと、兄の仕事が休みになるからだ。今日の雨は昼前から降り出したので、炭鉱の仕事を途中で切り上げる事が出来たらしい。彼女はその密やかな喜びを噛み殺し、そっと視線を隣へ移した。
「暗くなってしまいましたね、お兄様。明かりをつけましょうか?」
「いや、このままでいい……ああ、でもノエルが縫い物をするには不便かな」
「そうでもないです。そろそろ止めようと思っていましたから」
 ノエルが手元の布を置いたのを横目で確認すると、彼は「ならいいよ」と薄く微笑む。先程からずっと無言だったせいか、その声は少し掠れていた。
 イヴェールはさっきから粗末な椅子に座り、黙々と林檎を剥いている。彼はナイフをとても器用に扱うことが出来た。雨で手元が暗くなっても、刃先を滑らせていく様子には躊躇いがない。
 赤い皮はするすると毛糸が解けていくように垂れていき、蜜をたっぷり吸った黄色い球体が彼の掌で姿を現した。その静かな手先を見ていると、パリ近郊で暮らしていた子供の頃と何一つ変わっていないんじゃないかとノエルはいつも錯覚してしまう。それがどんなに愚かしく虚しい願いでも。
 昔から彼女の兄は工作が上手く、簡単な物なら魔法のようにさっと作り上げることが出来た。金銀細工を施す職人のような手。ノエルを宥めるために様々な物を生み出す、自慢の手。
「よし、上出来」
 彼は丸々と剥いた林檎を宙に掲げた。どうせなら何か細工をして下さいな、とノエルは戯れに文句を付けてみるのだが、兄はいつも聞いてくれない。皮をいかに長く剥けるかと、子供のような生真面目さでナイフを滑らせる。そして用済みになったとばかりに剥きたての林檎を妹に差し出すのだ。
「ほら。食べるか?」
 ノエルは視線を落とす。けれども何度洗っても落ちない泥が入り込んだ兄の爪先を見て、首を振った。
「私はいいわ。今日も少し熱っぽいし、食欲がないの。お兄様が食べて」
「……何だい。せっかく剥いてやったのに」
 イヴェールは苦笑したが、無理強いをする事はない。素直に自分の口元へ寄せると、水気の多い林檎に緩く歯を立てた。しかし飲み込むのは酷く億劫そうで、なかなか減ってはいかない。
 仕事から帰ってきた彼はひどく消耗している。出来るだけ疲れを見せないように気を配ってはいるようだが、動作のひとつひとつが緩慢で気だるげになる事に、ノエルは気付かない訳にはいかなかった。無駄に力を使わない兄の仕草は、去年の春に炭鉱夫として働き始めてから身についたもの。
「太陽が見えない場所に一日中いるのは、思ったよりも辛いな」
 そう言って弱音を吐いたのを、一度だけ見た事がある。本来の兄は思索や読書を好む物静かな気質なだけに、いくら家が没落して借金が出来たとは言え、毎日泥だらけになって力仕事をしている様子は少し滑稽ですらあった。彼はあまり肉体労働には向かない。
 日を浴びずに青白くなった肌のそこかしこには、黒い打撲の跡が残っている。少し前に小さな落盤事故があり、崩れてきた土砂にぶつけたらしかった。幸い死者が出るような惨事には至らなかったが、また同じ坑道を掘り直さなければならないと聞いて、ノエルは肌が粟立つような恐怖を感じ続けている。
 もし兄まで死んでしまったら――…。
 それが何よりも怖かった。既に自分たちの境遇を恨みすぎて疲れてしまっていると言うのに、その想像は彼女をいつも打ちのめす。
 家柄だけは立派なマールブランシェ家だったが、行政官だった父が負債を残して亡くなると、坂を転がり落ちるように彼ら兄妹は何もかも失ってしまった。母も数年前に病で亡くなっており、頼みの綱だった親類縁者も手のひらを返すように遺産を奪い取っていった。兄は僅かな財産をやりくりして暫くパリに留まろうと手を回してくれたが、結局どうにもならずに屋敷を売り払い、この貧しい地方の炭鉱に移り住んだ。
 転落した生活にはそうそう慣れない。ノエルは人形などの小物を作って内職していたが、イヴェールの方は日雇いの仕事を探して転々としていた。今は炭鉱で土砂を掻き出す工夫の他、代筆屋の手伝いなどをしている。
 授業料を払えずに大学を中退してしまったけれど、教養のある兄の事だから、もっと楽な仕事も見つかるだろうに――私の為に沢山お金を稼ごうとしているのは知っているが、その気持ちがいつもノエルには重かった。
 ――私が今の婚約者と結婚すれば、少しはこの暮らしが楽になるだろうか。
 それだけが自分に出来る唯一の恩返しだ。名家の婚約者は彼女には少し年上すぎたけれど、資産家で慈悲深い人だったから、兄の生活を援助してくれるだろう。今のノエルは只でさえ病弱で、こうしていくつかの内職をするくらいしか家計を助けられないし、家事をこなそうにも満足に手が回らずにいる。
「ヴァランティーヌさんと、最近お会いしましたか?」
 彼女がポツリと彼の恋人の名前を呟いたのは、そうして兄を労わる気持ちが傷口を抉るように浮かんできたからだった。あるいは薄暗い室内に映る林檎の光沢が、品の良い彼の恋人の様子を思い起こさせたからかもしれない。髪の長い美しい人で、お似合いの二人。
 だから「ヴァランティーヌとは別れたよ」と何気なく返答された答えに、一瞬、反応できなかったのだ。
 ノエルは硬直して兄を見返した。伏せたままの顔は、何故か柔らかく微笑んでいる気配があった。
「他に好きな男が出来たと。嘘だと丸分かりなのに、まるで自分が振られるみたいな顔で言っていたな」
「……なんで、ですか……?だって、せっかく……」
 しどろもどろになって問おうとしても、上手く頭が働かない。だって、あんなに素敵な恋人がいるから、私は――。
「もう彼女とは立場も違う。もっと良い縁談が来れば家族の手前、断れないだろう」
 取り乱すノエルとは正反対に、兄は噛んで含めるように言う。
 衝撃はゆっくりとやってきた。瞼の中でヴァランティーヌの美しい微笑が泣き顔に変わり、がらがらと音を立てる。目の前が暗くなり、声の震えが止まらなくなった。
「そんな……酷い、酷いです!お兄様も何で今まで黙って……っ」
「ごめんな。お前の結婚がまとまりそうな時だから、辛気臭い話は言い出しにくくて」
「……酷いです……!」
 やり場のない気持ちに揺さぶられて、思わず手元の布をきつく握り締めた。人形のドレスになりかけていたものは、完成を間近にして乱れた皺を刻んでいく。泣き始めた彼女の髪を、イヴェールは仕ゆっくりと撫でた。
「困ったな……なんでお前が泣くんだ?」
 分かっている癖に、兄は小さい子供を宥めるようにそんなことを言う。ノエルは駄々を捏ねるように首を振りながら、だって、と繰り返す。引き絞った嗚咽が震える喉を焼いた。
「ヴァランティーヌとの事は仕方なかったんだ……だがいくら貧しくても、お前の持参金くらい用意してやれるよ。だから泣くんじゃない」
 こんな年老いた表情を浮かべる兄を、ノエルは知らない。遺言のように囁く彼の言葉が、哀しくて怖かった。
 ――本当は、貧しいままでも構わないんです。お兄様と二人で暮らしていけるだけで幸せなんです。
 何度も言いかけて飲み込んできた台詞を、今も必死に押し込む。そんな事を言っても兄を困らせるだけだと知っているから、幸福を願う兄の努力を無視してしまう言葉だから、どれだけ本音だとしても言ってはならなかった。
 髪の上を滑る兄の掌は、寂しさだけを与えて去っていくのだ。









END.

没落貴族なイヴェールお兄様とノエル、試験版。時代考証なんてほとんどしていない。タイトルはベートーヴェンの曲から。



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