脆弱な彼らの原罪と











 常に笑みの気配を称えている青年が、珍しく眉一つも動かさず冷笑した新月の夜。
「馬鹿だな、君は」
 癖であるはずの、会話するとき僅かに首を傾げる仕草もない。だから呟かれた言葉はイヴェールにとって会話ですらなかったのだろう。それは相手に対する非難や皮肉と言うより、憐憫に近いものにも見えた。
「そう怯えるなんて、らしくないね。後悔するなら、最初から引き受けなければ良かっただろうに」
 彼の独白はローランサンの耳を素通りし、剣の刃先を滑る鮮血と共にぽたりと下に落ちる。
 階下の屋敷は騒然として、侵入した賊を探し出そうと騒ぎ立てていた。その張本人たちが丁度彼らの真上、傾斜の緩い屋根の上に居るとも知らずに。
 ローランサンは剣を支えに片膝を付き、忙しなく襲いくる吐き気に耐えていた。奥歯を噛み締めても小刻みに体が震えたが、ぐっと堪える。
 月が無い闇夜で見っともない姿を晒す心配がないだけマシかもしれないが、それも闇に眼が慣れてしまった今となっては慰めにもならない。人を殺して震えるだなんて何年ぶりだろうかと自嘲し、硬く強張った腕で自分の肩を抱いて、ぎり、と爪を立てる。酷く背中が痛い。
 やがて階下での騒ぎは大きくなり、自警団が呼ばれたのか遠くの街道から馬車がやってくるのが見え始めた。イヴェールは山なりになった屋根の頂上に足を掛けて周囲を眺めていたが、近づいてくるランタンの明かりと人々の足音を捕らえて分が悪いと見たのだろう。微かに声を落とした。
「ここに隠れているのも限界かな。見つかるのも時間の問題だ。そろそろ逃げるぞ」
 ほら、と腕を力任せに引っ張るがローランサンは動こうとしない。イヴェールは肩を貸してやろうと傍らに屈みこみ、無理やり立たせようと脇に腕を回して、生ぬるい濡れた感触がシャツ越しに染みる事に気付いた。
「あーあ、返り血でびっしょりだ。服代も馬鹿にならないのに」
「……うるさい」
 わざと反感を買わせる明るい口調から引き出されたローランサンの返答は、低く唸るように濁っていた。煩わしそうに腕を払うと、敵意にも似た鋭い視線でイヴェールを睨み付ける。
「いつの間に、お前まで付いてきた?」
 本当なら今回の仕事は自分一人だけのもので、イヴェールに詳しい内容を聞かせたわけでもない。一度きりの仲間と割り切って適度な無関心さを保ってきた二人だったが、なぜ宿に置いてきたはずの相方が逃げる際になって現れ、追っ手から助け出してくれたのか──有難いと言うより不愉快だった。他人に醜態を見せる破目になるのは単なる矜持の問題ではなく、自分の最も頑なな部分を脆く、惨めにさせる。
「相方の健康管理も仕事のうちだろう?それほど剣術に自信は無いが、逃げ道を確保するくらいは出来るさ」
「……余計なお世話だ」
「今にも死にそうな顔をしておいて、よく言う」
 イヴェールは振り払われた手を引っ込め、再び屋根の下を眺めた。死人の出た屋敷の騒ぎは徐々に大きくなってはいたが、幸いな事に賊は既に街へ逃げ出したと踏んだのか、捜索の手は見当違いの方向へ向かっている。
 風に乗って、どこかの窓から泣き崩れる女性の声が聞こえてきた。遺体に縋って我が子の名を叫び母親──愛されて生まれた子供。
 イヴェールは俄かに眉を寄せると、源を辿ろうとするように夜風に耳を済ませる。
「ここの令嬢だったのか、今夜の標的は」
「………」
「殺したのか?」
 ローランサンは無言だった。逐一イヴェールに話す義務は無い。今回偶然手に入れた日雇いの仕事が、大貴族の跡取り騒動を巡るきな臭い暗殺業だっただけ。そして殺した相手が未だ幼い少女であった事も、それだけの事であるはず、だった。しかし精神よりも体の方が、嫌だ嫌だと今更になって悲鳴を上げている。
 ──不毛な罪悪感だ。
 蓋付きのベッド、眠ったまま胸を貫かれた少女、飛び散った白い羽毛と緋い飛沫、剣を握ったまま佇んだ自分の拳。次々と駆け巡った今夜の場面に、助けてと叫んだ幼馴染の少女の姿がぼんやりと重なった。
 震える無意識の糸は、どこを手繰っても揺らめく風車に辿り着く。故郷から逃げ出した際に焼き付いた背中の火傷が、熱を孕んだような錯覚を覚えた。その幻痛を知っているかのように、イヴェールの痛ましげな視線が向けられる。
「だから馬鹿だと言ったんだよ。偽悪ぶるのもいい加減にしたらどうだ?」
「……黙れ。うるさいと言ったはずだ」
 苛立たしげに怒鳴るローランサンの声を受けても、相手は気分を害した素振りはない。かえって開き直って腕を組み、普段と変わらない口調で言った。
「気に障ったなら謝る。勝手に後を追ってきたのは悪かったし、余計な詮索をするつもりはないが、こそこそして居られると流石に気になってね。だが、僕のお節介も役に立ったろう?」
「……それが邪魔だって言ってんだよ。俺を助けて恩でも売ったつもりか?」
 確かに、イヴェールが逃げ道を確保して屋根の上に引っ張り上げてくれなければ、今頃捕まっていたかもしれない。幼い少女を殺めたという事実は予想外に彼の意識下に打撃を与え、まず普段ならば考えられないミスで、屋敷の者に姿を見られるという失態を犯していた。
 だが、感謝の念も起こらない。そんな余裕も無かった。
 イヴェールは険悪なローランサンの言葉に眉尻を上げたが、言い争うのを嫌ったのか数秒押し黙る。僅かに傷心したような顔をしたが、それもすぐに風で揺れる前髪に隠された。
「……まあ、恩を着せておくのも悪くは無いが。だがそれを決めるのは後にしよう。さっさと宿に帰って休みたい」
 そう言って、こちらの腕を掴むと再び立たせようとする。しかし何故、共に帰る必要があるのだろう。未だ体は強張って、惨めな事この上ない。暫く誰とも顔を合わせたくなかったローランサンは、邪険にしても怯まない相方が鬱陶しかった。追っ手の注意が他所に向いたなら一人でも簡単に逃げ出せる。
「子供じゃないんだから……」
 腕を振り払ったローランサンは、今度こそ説教をしようと物言いたげなイヴェールに向けて、無造作に剣を向けた。牽制の意味で突き出された凶器に彼は眼を丸くして、不愉快そうに押し黙る。
「三回目だイヴェール。うるさいと何度言わせる気だ?」
「……仮にも仲間に向かって、それはないだろう。短気だな」
 手負いの獣のように唸るローランサンに、イヴェールは軽く溜め息を返しただけだった。余裕のある態度に噛み付きたくなって、今一度、刃の先を反らせて狙いを定める。
 カチャリと鳴る鍔の音が、やけに大きく響いた。八つ当たりだと自覚はしていたが、今は心底苛立たしくて仕方がない。わざと低く粗野な口調で吐き捨てた。
「俺は一度、大切なものを見捨てて逃げてきた。お前みたいな行きずりの人間なんざ、それこそ目障りになったら斬り捨てるかもしれないぜ?」
「それは無いな」
 暗く荒んだローランサンの期待に反し、至極あっさりと彼は答えた。妙に確信に満ちている。
「敵討ちとは感心するやり方ではないが、君はその罪を償おうとしている。更にそれを増やすほど悪人では無いはずだ。残念ながら、本質的に君は優しすぎる」
「……何だと?」
 見透かすように言い放つイヴェールに、腹のそこで黒い物が渦巻くのを感じた。灼熱の焔のように蠢く渦はローランサンの意識を逆撫で、勢いを増していく。
「知ったように言うな、テメェに何が分かる。そのお綺麗な面だと、苦労も知らずにぬくぬく育ってきた輩だろう。食う物にも困らず、学があって、着替えの心配も出来るお坊ちゃんが、俺に偉そうに説教か?笑わせるな、だから目障りなんだよ」
 嘲笑すると、イヴェールは驚いたように相手を凝視する。暫く押し黙って思案しているようだったが、ふと彼は諦めたように息を吐いた。
「……そうだな。これも友情だ。たまには、こういう死に方も良いのかも知れない」
 聞こえるか聞こえないかの声で呟き、指先を剣の刃先へ当てると、ついと動かして自らの喉元に当てさせる。
 まるで淑女をエスコートするような優美な仕草に、何が起こったのか気付かないほどだった。屋敷の裏手から吹きつける風が耳元で叫ぶ。
「そんなに僕が目障りなら斬るといい。ここだ」
 さすがに不意を撃たれ、ローランサンは瞠目した。イヴェールにふざけた様子は無く、普段どこか眠たげな両眼は柔らかに開かれて理性的なままだ。
 しかし、確かに先程までと纏う空気が変わっている。沼に落ちる人間を助け出そうと差し出されていた掌が、急に翻り、今度はこちらを淵に引きずり込もうとするような暗い迫力があった。
「……何、を」
 考えている、と問おうと発した声は途中で切れる。イヴェールが剣先を指で挟み、その距離を縮めたからだった。戸惑ったローランサンに対し、彼はやはり平静で、冗談めいた口調で甘く囁く。
「深い考えがある訳じゃない。生まれて、死んで──ただ無為に消えるよりも、こうして殺されて君の記憶に残るのも悪くないさ。いくら僕でも、仲間に邪険にされると傷付くしね」
 それは何の気まぐれだったのだろう。穏やかに語る双眸は、恍惚とした虚無を湛えているように見えた。本気で死を望む者特有の、恐ろしいまでに静かな安らぎの色。
 既に少女の血の付いた剣先に、白く隆起した喉仏が言葉に合わせて動くのをローランサンは息を詰めて見つめる。
 先程こちらの事情にイヴェールが踏み込んだように、今度は自分が、彼の隠し持っていた得体の知れない場所を不用意に覗いている気がした。日の下では美しいはずの瞳が、禍々しさを孕んで底光りしている。
 ──呑まれる。
 ぞくりと背筋が震え、我に返った途端、冷たさと熱さの交じり合った感情が一気に駆け上がった。
「ふざけるな!」
 弾かれたようにローランサンは剣から手を離し、胸倉を掴むとイヴェールの横っ面を殴りつける。
 見てはいけないはずのものを見てしまったような空恐ろしさと共に、相手にも自分にも猛烈に腹が立っていた。衝撃でがくんとイヴェールの首が揺れて視線の呪縛が解かれると、彼の憤怒は更に高まる。
「テメェなんか、俺が斬ってやるほど不幸を知ってるわけでもねぇだろう!人のことが言えた柄じゃないが、お前のそこが癪に障る!」
 自分の事を棚に上げ、何だか裏切られたような気がしていた。裏社会を知ってはいるようだが、イヴェールだけは優雅に暢気に、その暗さを引き受けずに小首を傾げて微笑し続けている気がしていたのに、よりによって本気で馬鹿な挑発に乗るとは。
 それは彼の勝手な期待であり甘えであったが、実際に、イヴェールの行動は言葉以上に残酷な物なのだ。一度は気心の知れた人間の死を、既に火傷で爛れた背に担げというのは。今度こそ復讐という正当性も持てないまま、足が縺れて行き倒れるしかない道だ。だから自分が最初に非があったと自覚していても、ローランサンはイヴェールに対して本気で怒鳴らなければならない。
「確かにさっきの事は俺の八つ当たりだ、謝って言うなら謝る!だがな、邪魔者扱いが嫌だって言うなら重っ苦しく俺に負担に掛けるな!いいか、一銭にもならないのに、俺はお前の命まで無駄に引き受ける気は無いからな!冗談でも言うな!」
「…………」
 ぽかんとした顔でイヴェールは眼を丸くしていたが、やがて心底不思議そうに、殴られた頬に手を当てた。髪が乱れていたが気付く様子は無く、すっかり毒を抜かれてしまったらしい。
「……おかしいな。本当は僕が君を殴って説教するはずだったのに、いつの間に立場が逆転したんだ?」
 問題が変わってしまったじゃないか、と夢から覚めたような顔をしている。先程までの薄ら寒い眼ではない。
「…………」
 ローランサンは彼の胸倉を離すと、深く息を吐き出して仰向けに寝転がった。閉じた瞼に手の甲を当てると、知らぬ間に熱くなっている。
 馬鹿らしい、意味が分からない。何故こんな話題で自分達はうだうだしているのだろう。
 脳裏でイヴェールの白い喉が思い浮かぶ。あと僅かで刺し殺してしまえる距離だったそれ。愚かな言い争いだったと、今更になって重く腹に堪えた。
「……やはり、君は悪人には向かないな」
 ばつの悪い声が頭上から躊躇いがちに降る。甲を退けて視線を上げると、何とも形容のしがたい表情を浮かべて傍らに立っている相方が見えた。打たれた頬のせいで赤くなった目尻は、彼には似合わずに不恰好で、いい気味だと鼻を鳴らす。
 けれども最初に事態をややこしくしたのは、過去の事でぐずぐずと逃げ損なった自分の方だ。改めて謝るべきかローランサンは少し考え、結局実行しない事を選んだ。今夜の事は互いに弱さをさらけ出して、バランスの取れないまま悪乗りしすぎたような物だ。代わりに、少し口の端を持ち上げる。
「馬鹿言うな、悪人だよ。特に今夜は生きたい奴を殺して、死にたがった奴を生かしたんだからな。理不尽だろ?」
「……成る程」
 その言葉に喜べばいいのか悲しめばいいのか分からないまま、イヴェールは急に可笑しく感じたのか、ふっと短く息を吐いた。
「本当だ。極悪人だな」
 今度はきちんと笑ったようだ。まるで聞き分けのない子供でも相手にするように、仕方なさそうな顔で肩をすくめる。さらりと髪が揺れて首が傾げられ──それが血生臭い仕事場から日常へと戻る合図のように思えた。ふと、少なくとも相手の癖を知る程度には親しくなっているのだと自覚して、ローランサンは内心で驚く。
「さあ、早く帰ろう。着替えもしたいし、体も洗いたいし、何より腹が減った。あの宿の食事は美味かったから夜食を頼みたいね」
 イヴェールは寝転がった相方の脇腹を軽くで蹴ると、そう告げて屋根の上で踵を返した。続いて立ち上がったローランサンは、階下の騒ぎに気を取られて自分達の頭上に星空が広がっていた事に漸く気付き、眩しそうに眼を細めた。
 故郷の夜空も、こんな風に澄んでいただろうか。記憶の中は強すぎる緋色で塗り潰されてしまって思い出せなかったが、今夜、自分が手を掛けた少女の魂が召されるのに相応しく美しかった。どういう家の事情が合ったのか知らないし、これから先も知る機会はないだろうが──イヴェールと無駄に言い争ったせいで、深く思い悩むほど敬虔な気分にもならなかった。所詮、自分の良心なんて犬に噛まれれば忘れる程度なんだろう。
「どうした、ローランサン。まさか疲れて動けないとか言い出すんじゃないだろうな」
 もう駄々を捏ねるなよ、と振り返るイヴェールの銀髪も星明りで飾られている。馬鹿にするなと怒鳴り返しながら、片腕に引きずる剣が血を吸って重くても、未だ自分は歩いていける事が奇妙に尊いような気が、した。






END.
(2007.09.02)

盗賊コンビに喧嘩させたくて書いたんですが、まさかBL王道の「君になら殺されてもいい」発言をする展開になるとは思わなかった。一瞬イヴェが死にたがったのは本気で、延々と生まれたり死んだりで疲れていた為の世迷言。


TopMainRoman




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -