その瞳が虹を忘れて










 音を注ぎ、物語が零れ、束の間の安然。
 果たして君は、どんな夢を見るのか。



「──さあ、姫君。君たちは今回、どんな話を聞かせてくれる?」
 君は口元に微かな微笑を浮かべ、そっと手を差し出す。囁き声は、母に寝物語をねだる子供の無垢。まなざしは、憂いを知る青年の懇願。
 差し伸べられた主の手を取り、二体の人形は軽く膝を曲げ、恭しく頭を下げる。
「Oui, monsieur」
 世界を見下ろせる塔の広いバルコニーに、君たちは佇んでいる。幾千も果てることない黄昏の天は、栄華を極めた廃墟に注ぐ追憶に似て今宵も美しい。斜陽を受けて伸びる三体の影は肉親のように親しげに寄り添い、重ねた掌を染め上げる。その仕草の諸々が、ともすれば生身の人間だと錯覚させるような慈愛に満ちており、私には些か皮肉にも滑稽にも思えた。ここは全て仮初めに過ぎないというのに、随分と健気な。
 君は一度瞳を伏せ、耳を澄ませるように顎を引く。
 姫君たちが見守る中、そうして唇から紡ぎだすのは新しい歌だ。囁くような低音で始まり、徐々に姿を成す緩やかな旋律は、私の記憶の中に有る数多の詠歌と比べても何ら引けを取らない、新鮮な感動も持って切々と空気を響かせていく。
 やがて蛍の灯火に似た淡い光が、ぽうっと君たちの指の隙間から溢れ出た。強く燃え始める白色の焔は、地に落ちることなく優雅に浮上し、人形が映した《物語》の幻想を再生し始める。歌に導かれるように旋回する光を受けて、丁度画家が対象を丹念に観察するように、君の眼は二つの幻想をゆっくりと辿る。
 歌声に乗り、幻想は色を帯びる。
 拡大と縮小、霧散と集結を繰り返しながら浮遊する焔は鮮やかに、君の腕や髪を撫で光を撒き散らす。その度に影響を受け、喜びに頬を緩めて悲しみに眉をしかめながらも、君の歌声は弱まるどころか一層力を増すばかりだ。投影される二つのストーリーは、さながら死者が最後に夢見るという走馬灯のように運命の断片を描き、透き通った影がゆらゆらと水面のように揺らめく様は、言いようのない神々しさを孕んでいる。
 隣に控える人形たちが、旋律に合わせて交互に歌を唱える。すると《物語》は蝶が睦みあうように絡み合い、火花のように三人の髪を揺らした。
 君の目は真剣そのもの。一縷の望みを賭けて暗天に星を見出そうとする旅人のように、肌に触れる焔の熱を見極めていたが、それも長くは続かなかった。淡く微笑した瞳は陰り、そっと瞼を伏せる。
「……此処に僕の求める《物語》はない。ならば、お休み。次の場所を目指して」
 うっすら呟いて最終章を歌いきると、焔は幾筋の流星となって砕け散った。その大方は旋律に乗って天に向かい昇華したが、残ったものは左右の姫君たちの手に集まって流転したかと思うと、すっと二冊の書物へ形を転じる。眩い光が満ちていたバルコニーは再び普段通りの黄昏に戻り、吹き付ける風が全てを掻き消すように強く唸った。
 それが、《物語》を司る儀式の全貌であった。






「──覗き見とは良い趣味だね、サヴァン?」
 私に声を掛けた君は、台詞とは反対に幾分悄然としていた。姫君たちが二冊の本を書庫に収めている間は一人バルコニーに体を預けていたが、こちらの姿を認めると、問うように首を傾ける。
 掠れた声は皮肉さを残していたが、喉が痛むのか張りがない。どうやら途中から気付いていたらしいと知り、私は不思議と安堵した。
「御機嫌よう、イヴェール。君たちの追悼に興味があってね。初めて見たが、予想以上に美しいものですな」
 何食わぬ顔で帽子を脱いで一礼すると、敵意を剥き出しにする術さえ知らない君は、困惑と焦燥に左右の瞳を揺らめかせる。こちらの真意を探るように暫く眼を細めていたが、諦めたのか軽く息を吐いた。
「……貴方はいつも突然だ。言ってくれれば立会いくらい許したのに、わざわざ回りくどい手を取るから怪しまれるんだよ」
「おや、謙虚に振舞ったまででしたがね。これからは善処しましょう」
「謙虚?覗き見が?」
 呆れたように言うが、既に許した気配があるのは優しすぎる性根の為だろう。そうでなくとも無人の塔で過ごしている君にとって、私は貴重な話し相手のはずだった。それを逆手に取った不躾な訪問も何回目になるだろうかと脳裏で弾き出し、結構な数になると気付くと、我ながら可笑しなものだと苦笑する。
「それは失礼。不愉快でしたかな?」
「……まあ見られたくらい問題はないから別にいいが……。それで、何か分かったのか?」
「言ったでしょう、美しかったと。歌で《物語》を昇華さえ、書物に写し取る──地平線は広しと言えど、そのような能力は他で見たこともありませんな。大変、興味深い」
 君は無言で外を眺める。他の地平線の話を聞く際どこか釈然としない顔をしているのは、夢の風景のように遠すぎるからか。地平に繋ぎとめられている身で知りえる物語は限られており、それ以外は私という媒体から摘み聞いたものしか得られない君に、それらはどれ程想像できているのだろう。また、自らが私の研究対象として観察されいていると知れば良い気はしないものだ。素直に嫌そうな表情を浮かべる君に満足し、私は本題を切り出す。
「それにしても、まだ御眼鏡に適う《物語》は見つからないのかね。集めた幻想を昇華させるにも力が要る──いくら姫君たちの助力があるとは言え、この調子で歌い続けていれば君の喉も持たないだろうに」
「……僕が選んでいるんじゃない。僕が《物語》に選ばれているんだ。仕方ないだろう?」
「だが、賢明とは言えませんな」
 むっとしたのか、君はバルコニーの手摺りに付いた頬杖を更に深め、片目を隠すように首を傾けた。
「諦めろと?」
「潮時でしょう」
 短い問答。沈黙は2秒。視線が私から背後に移る。そこから口を開くまで、更に3秒。
「……まだ彼女たちが頑張ってくれている。期待を裏切りたくはないんだよ。そうでなくとも、今の僕には彼女たちしかいないのに」
「私には十分粘ったように思いますがね。このままでは再び屋根裏に辿り着くかもしれない。ここを捨てても、気に病む必要はないはずでは?」
 獣が噛み付く直前で牙を向くような皴を、すっと君は鼻梁に刻んだ。碧眼が色を増すのは湖面が凍りつくのを早送りで見ているようで、興味を引くことはすれ、私は怯まない。冬の名に相応しいとさえ感じたほどだ。
「──今更その口で何を言うんだ、サヴァン。貴方が嘘を吐いたことを、僕は忘れていない。引っ掻き回して面白がるのは止してくれないか?」
 不機嫌に《夜》に傾く君の感情に期待する。
 いっそ、死ぬのなら死ぬで道はあるだろう。停滞したまま宙ぶらりんの天秤など不憫なだけだ。しかし一瞬見せた憎悪さえ、君はすぐに引っ込め、視線を逸らすと早口に呟いた。
「屋根裏は、嫌だ。あそこは暗い。だが今ここで諦めるほど、僕はまだこの場所に絶望していないだけだ」
「──無いものねだりが好きだね、君も」
 私は微笑む。君は一瞬だけ傷付いた顔で振り返るが、何かを言おうとして躊躇ったようだった。物言いたげなまま、つと頬杖を解くと、姫君たちがいる室内に戻ろうと踵を返す。私は後を追わず、その背に向け別れを告げるだけに留めた。
「Au revoir」
「……Au revoir,M.Savant」
 今夜は虐めすぎたようだと大人しく退散する私を、君は一度だけ視界に収めたようだったが、辺りを包む濃霧に掻き消されて確かめることは出来ない。しかし訪問はいつでも出来のだから何も焦ることもないのだ。生死の狭間に吹く風に煽られながら、私は違う場所へと向かい始める。
「何とも健気な事だね、イヴェール・ローラン。不幸を不幸だと知ることが出来ないのが君の失敗だ。全てを愛しいと思うなど、その不安定な体では負担でしかないだろうに、未だ苦痛でしかない生を求めるとは──珍しい騎士もいたものだ。一族の系譜でも異端だろう」
 私は呟いて手にした歴史書に視線を落としたが、ページを繰ることはしなかった。今は黒の女神と話す気にはなれない。愛しいものを奪い続ける幻想の地平。それを見守る存在は元から多くない。
 泡沫の輪廻、死神の足音、歴史書の黒、白鴉の加護、女王の微笑──…。
 だが傍観でも諦観でなく、君だけが唯一純粋に世界に焦がれていた。それこそ赤子が母を求めるように、無心に。
 死にながら生まれ、生まれながらに死ぬ君の魂は、やがて磨耗していくだろう。虚しすぎる輪廻にしがみ付いて尚、生れ落ちたいと願う愚かさを、しかし私は羨む。
 恐らく君の見ている世界は、歴史書の記述よりも色鮮やかで生々しいはずだ。観測者が《物語》の中に焦がれるならば──映る世界は美しく感傷的にならざるを得ない。
 君は、私がオルタンスに嘘を吐いたのだと信じている。否定はしないが、それはあくまで言葉の裏側に過ぎないことに気付いているだろうか。
 私が賭けたのは五分の確率。言葉にのみ惑わされれば君は屋根裏へ。だが素直に助言に従うなら、望みどおり生まれていたはずだった。
 どちらを期待していたのか、今となっては私自身も曖昧だ。雷神の騎士の一員として、君が何を選ぶのか興味があったのだとは思うが──それにしてもリスクを犯しすぎた。クロエと接触したせいで教団の昔馴染みに見つかるはめになったが、まあ問題ない。観測は今も続いている。
「多少入れ込みすぎてしまったが、楽しみと言えば楽しみだよ。君がどんな結末を辿るのか……あるいは、永遠に続けていくのか。祝福された冬が来ることを、私も祈ろう」
 君は気付かない。女王に囚われ続け黄昏に縫い付けられているのは、別の要因も関係している事を。屋根裏の幻想は誰がもたらした願望なのか、などと。それを教えない私も同罪かもしれないが──…。
「果たして、嘘吐きは私だけかな」
 明日も、身を削って君は歌うだろう。私が誰の為に、悩める妊婦に助言したのか知りもしないで。







END.
(2007.07.17)

シリアス時の黄昏コンビの距離は微妙


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