Chartres Bleu










 一度掘り返された墓標の下には、死んだ兄の遺骨が埋まっている。
 その名を受け継いで生まれてくるはずだった赤ん坊は、一度も目を開ける事のないまま命を失った。

 氷雨を受けて墓地に佇む娘は、腕に抱いていた冷たい塊を棺へと納める。黒い喪に服したベールの下で、泣きつかれた瞳が静かに瞬いた。
 北部辺境の町では、戦火を逃れて移り住んできた人々の小さな集落がある。帝国軍の侵略を受けて略奪されていく土地に、未練を残して最後までしがみついていたのは間違いだったと彼女は今も悔やんでいた。
 没落貴族であった生家は既に爵位ばかりだけになっており、生活は厳しく、家計は火の車だった。唯一の肉親であった優しい兄も殺されて土の下に眠り、領主であった彼女の婚約者も戦火に紛れて消息を絶ってしまっている。子宮に残された子供だけでも故郷で育てたいと、その一念で生き延びてきたのに──流産してしまった我が子の亡骸は、驚くほどに軽く儚かった。小さな棺に納めても、その身体は一回りも二回りも小柄で寂しげである。
「さようなら、イヴェール」
 ちゃんと生んであげられなくてごめんなさい──娘は呟くと、胸元で十字を切った。
「もう別れの言葉はいいのかね、ノエル?」
 娘の横に立つ紳士が尋ねた。雨を避けるために羽織った外套の下には、場違いなほど身なりのいい黒服を着込んでいる。墓地へ向かう乗り合い馬車で出会った男は、短い旅の道中で彼女の話を聞くと、神父の代行として祈りを捧げる役目を買って出てくれた人物だった。
 故郷の教会は焼かれ、神の像も異教徒によって破壊された現在となっては、男の素性がどうであろうと構わない。祈りの言葉すらない葬儀は切なすぎる。暫くこの地に留まると語った男は、世離れした雰囲気で確かに怪しかったが、物腰や口調から危険な人物ではないと思うことが出来た。
 ノエルは伏せていた目を上げると墓穴を見つめ、傍らに置いていたバスケットから小さな二体の人形を取り上げる。死んだ子供の為に供えられる葬送人形は彼女が喪失感と共に縫い上げた手作りのものだった。
「お兄様と人形たちも一緒だもの、きっと寂しくはないわよね?」
 あやすように我が子の亡骸に話しかけ、彼女は人形をその左右に寝かしつけた。棺の蓋を閉めて濡れた土を掛けると、紳士が十字を切って聖書の一説を諳んじ始める。遠くの空で稲妻が走る音が聞こえ、やがて大地にぽつぽつと雨の雫が染みる頃になると、空はすっかり陰鬱な色彩で塗り潰されていた。
 ノエルは自らの腹に手を添える。息づいていたはずの鼓動は消えてしまって、愛した者の名を継ぐ存在は呆気なく散ってしまった。
 彼女たちの宗教では輪廻を重んじる。きっと我が子は兄の魂を引き継いでくるのだと、そう信じて守り続けた命の灯火は、世界を一目見ることすら許されなかった。耐え切れずに唇を噛む彼女の肩に、そっと紳士の手が置かれる。
「さあ、母親が泣いていては子供も浮かばれない。せめて笑顔で送り出してやりなさい。次の生では祝福されるように」
「……ですが、恐らく呪われているのです、私たちの家系は。爵位を抱きながら我が家がここまで落ちぶれたのも、跡継ぎ候補が次々と事故や病で亡くなった為だと祖母から聞いた事があります。実際に両親も、兄も、この子も……長く生き延びる事が出来ませんでした。きっと私も近いうちに、運命に絡め取られて土に還るでしょう」
 ノエルはそう言って無理に微笑を浮かべたが、濡れた瞳は壮絶なまでに輝いていた。何かを決意したように唇を結び、男を見上げる。
「私は明日、この地を去ります。悲しい思い出と因習ばかりが残る場所に、これ以上居続ける事は辛すぎますから。けれど、愛しい人たちが眠った故郷を忘れる事は決してないでしょう。もし貴方がこの地に留まると言うのなら──私の代わりに、時折この子を見舞って下さいませんか?」
 切実な懇願に燃えた瞳は、果敢に生きる事を決めた強さで満ちていた。男は口髭で縁取られた口元で笑みを浮かべると、約束しよう、とおもむろに頷く。その微笑には行きずりの旅人が示す同情ではなく、あらかじめ待ち構えていたような貫禄があった。目深に被っていたシルクハットの下から覗く視線には、落ち着き払った色が宿る。
「ではイヴェール・ローランに──別れと再会を誓って」
 暗雲の下で花束が墓石に投げ込まれた。それは白い鳥のように宙を舞い、真新しく刻まれた死者の名前を飾る。









* * * * * * *









「さて……これでまた、騎士が呪いの輪廻に囚われた」
 娘が去った墓地で独り佇むと、サヴァンは愉快げに口元を上げた。
 雨脚が増し始めた空には嵐の訪れを予感させる雷鳴が轟いたが、彼は少しも臆することはない。不思議な事に、その外套には少しも濡れた箇所はなかった。それどころか雨粒は器用に彼を避けている。
「これで歴史がどう動くのか──それすら貴女には見えているのでしょうな、クロニカ?」
 彼が話しかけたのは、聖書かと思われていた一冊の分厚い書物。黒い皮装丁の表紙に題字を見つけることは出来ないが、やはりそこへ雨粒が落ちることはなく、インクの文字は滲まずに保たれていた。
 開かれたページには、ぼんやりと掌ほどの大きさの人物が幻のように映し出されている。漆黒の髪に緋い瞳の女性。身体は透けており、黒い文字の羅列がその向こうに見えていた。薄っすらと開いた目で男を見上げると、彼女は緩やかに問いかける。
「クリストフ……いえ、今では賢者サヴァンと呼んだ方がいいですね。一体、貴方は何が見たいのです?」
 静かな、それでいて凛とした声が響いた。
 彼女こそ『黒の予言書』と呼ばれる、書の意思の総体。世界の過去から未来、そして終末を予言した書は魔術師が記したとされ、暗黒時代には異端書として法皇が処分しようと暗躍したとさえ伝えられている。それは陽の目を逃れて長年カルト教団に丁重に安置されたまま、崇拝の対象として祭られていた。
 本来なら全二十四巻から成る古書だが、男が教団から持ち出したのはその中の一冊であり、クロニカと呼ばれる書の女神も意思の欠片に過ぎない。ゆらゆらと宙に浮かびながら彼女は美しい黒髪をなびかせると、責める訳でもなく、ただ胡乱げに世界を見つめていた。その瞳には神のみが持つ冷酷さと慈悲、そして諦観がある。
「既に未来は記述されています。歴史は改竄を許さない──世界は何度も終末と再生を繰り返す。その中で貴方が小石を投げたところで、これから先の未来が変わることないのです」
「しかし、雷神の系譜たちは未だ生きている。終末を呼ぶ獣を押さえられるのは彼らだけ──実際、彼らの活躍で幾度も地平線の終焉は延長された事があると、そう聞いていますが」
「……それも今では随分と昔の事です。雷神の騎士たちは使命を忘れ、この世界では力を失っている。この赤子も、呪いの輪廻の果てに何を得ると言うのですか?」
 僅かに眉を苛立たしげに寄せ、彼女は墓石を見下ろした。
 例え終末の獣と対抗することの出来る一族も、今では様々な血筋に分かれてしまっている。雨を受ける墓標はいかにも侘しげで頼りない。成す術もないまま、やがてこの地平線も終わりを迎えるだろう。
 しかし暗く翳った緋い瞳を見遣って、サヴァンは確信的に笑んだ。
「だからこそクロニカ、もう一度我々が呼べばいい。世界を守る騎士の名と、その使命を。貴方だって再び《黒の神子》に会いたいはずだ」
「…………」
 クロニカは沈黙した。かつて世界の破滅を救おうと、予言書に干渉して未来を書き換えようとした少女がいた事を思い出す。最後まで希望を失わず運命に抗った少女の存在は、傍観者でしかないクロニカの精神にも多少の影響を与えた。
 歴史に埋もれていく人間たちの命を、僅かながら惜しむようになるなんて。押し黙った女神の表情をどう取ったのか、賢者は再び満足げに口を開いた。
「私はこの目で見たいのですよ。例えそれが終焉でも、このまま学者たちと結末の出ない論争で無為に机上を埋めるより何倍も価値がある。私は自らの知的好奇心に従い、時には傍観し、または干渉しながら、時空を超えて地平を見守りましょう。その為に教団から貴女を連れ出し、宝石の呪いまで利用しているのですから」
「……欲の深い事ですね」
「それが賢者というもの」
 悪びれずに男は笑うと、書物を掲げ持ったまま墓地を見下ろした。風雨の強まる海辺の丘陵では、轍の刻まれた道の果てに縮こまった集落の灯りが見えている。
 戦乱の世に埋もれた力ない死者が、黄昏の地平で何を成すのか──彼にはそこに興味があった。黒の教団は予言書の記述に従い、世界を破滅に導く手助けをする組織。その追っ手が自分を捕まえるまでには、一つの結果を見ることが出来るだろう。
「──さあ、冬の騎士。呪いに囚われる事で、地平線に存在し続ける事を許された天秤。君は歴史に何を見せてくれる?」
 賢者は期待を込め、その墓碑に最後の花を投げた。









END.
(2007.04.19)

Q.何故サヴァンは追われる身なの?
A.黒の教団から大事な予言書を盗み出したから!

という願望解釈です。『焔』ではバックコーラスでじまんぐさんが歌っているし、賢者様が居てもいいじゃない素敵じゃない、と。いう。イヴェール達ローランもクロニクルの雷神の系譜だとか。


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