05


「……」

 時計台には、濃密な魔力が立ち込めている。久しぶりに訪れる時計台は、以前と何も変わっていない気がした。
 しかし、漂う魔力はずっと冷たく、暗く感じた。ヒースコートとの戦闘時に感じたものよりも、毒気が強い。
 リアトリスは反面防毒面マスクを装着する。そして、背負っていたライフルを外す。
 それを構えると、緊張した面持ちで時計台の中へ足を踏み入れた。

 時計台の中は、外で感じた以上に冷え切っていた。まるでこの場所だけ、真冬のようだ。
 じんわりと掻いていた汗が、瞬時に冷えていくのが分かる。腕に鳥肌が立った。
 一歩、足を進めるごとに、絡みついてくる濃密な魔力が、指先やつま先から、どんどんと体温を奪っていくような感じがした。

 まるで、少しずつ、少しずつ“死”に近付いているように思えてきた。

 改めてそのことに気付くと、何とも言えない居心地の悪さを感じた。罅の入った石の階段を上がっていく。
 呼吸が詰まりそうだ。埃っぽく、寒々しい一階から二階へ辿り着けば、そこには別世界のような空間が広がっている。

 斜陽が差し込むその一室には、白いシーツの掛かった、樫の木のベッドが一つ、あるだけだ。
 白いシーツが、太陽の光を反射して、その部屋全体がオレンジ色に染まっている。とても、穏やかな空気で満ちている。
 一階部分の薄暗い雰囲気とは、まるで真逆の部屋の様子に、リアトリスは呆気に取られてしまう。

 以前。今年の睦月ジャンヴィエの某日に、一度この二階部分に足を踏み入れたことがあった。
 それは、オレアンに向かうディックを案じての行動だった。その時は、部屋の様子に関心を向ける余裕は無かったが、こんな空気だっただろうか。
 あまり、覚えていない。

 ともかく、その場違いな部屋の中に、リアトリスは足を踏み入れた。そこで気付いた。
 表面的に穏やかなだけで、そこに漂う魔力は一階や通路となんら変わらない。それどころか、その毒気や肌寒さは増している。
 半面防毒面をしていても、呼吸が苦しい。ヒースコートの魔力よりマシと思ったが、
 こうして浴びていると大差は無い気がした。

――ディックは、いつもこんな魔力の中にいるのか。

 その部屋の中。大きな窓の前に、シェリーは立っていた。
 夕暮れの穏やかな微風は、彼女の艶めいた黒髪を靡かせる。沈んでいこうとする陽の光を浴びて、
 それはまるで、星屑のように煌めいた。彫像のように、シェリーは動かない。

 リアトリスは、シェリーを見つめながら、指一本動かせずにいた。彼女の美しい後姿に、見惚れてしまったわけではない。
 まるで、石膏で出来た彫像になってしまったようだ。辛うじて動かせる両目で、リアトリスは室内を見渡した。
 ディックはいない。

「生きていたんだな」

 静まり返ったその部屋に、シェリーの声が響く。温もりの無い、冷気を含んだ声だった。
 それが敵意を乗せた音であることに気付くと、リアトリスは体が動かない理由にも気付いた。
 彼女の殺意や、敵意を纏った魔力に包まれた所為だ。

 既に先手を取られていた。じんわりと、背中に嫌な汗を掻く。

「あの手傷で、あたしの魔力を浴びて、くたばったと思っていたんだがな」

 先程まで、オレンジ色に染まっていた室内が、暗くなったことにリアトリスは気付く。
 その暗がりの中。ゆっくりと、シェリーがこちらを見た。さらり、と踊るように黒い髪が靡いたのが見えた。
 暗い部屋の中で、シェリーの青い瞳が光っている。何もかもを飲み込んでしまうような、深海のような暗い色だった。
 こちらの心も感情も、全てを見透かすような目付きに、リアトリスは背筋を凍らせる。

「ディックは、何処だ」

 ようやく、声を振り絞ってリアトリスは尋ねた。闇が揺らぐ。シェリーが笑ったのだ。

「よもや、それを聞く為だけに此処に来たのか」

 鈴を転がしたような、華憐な笑い声が響いた。その笑い声に続いて、

「あいつにとって、おまえは何だ」

 がらりと声音の変わった問いかけが返ってくる。リアトリスは答えに詰まってしまった。
 その問いかけの内容が逆であれば、迷わず答えることが出来た。友人、仲間、そう思っているのは自分だけなのではないか。

 果たして、彼にとって自分は何なのだろうか。

 愉快そうな笑い声が響く。暗闇で見えにくくても、シェリーが今。
 こちらを見下すような、嘲笑うような微笑を浮かべていることは、容易に想像出来た。
 そこでようやく、リアトリスは体を自由に動かすことが出来た。ライフルを構え直し、銃口を暗闇の中のシェリーに向ける。
 何があってもすぐ反撃出来るように、指先をトリガーに引っ掛けて、そこに神経を集中させる。
 この時計台は、シェリーの領域だった。彼女が支配する空間の中へ、一人で来ることに、リアトリスは大きな覚悟を背負っている。

 彼女は魔物なのだから。



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