07


「だ、誰か……誰か、いないか?」

 何処か怯えるような、震えた声だった。生臭い、血の臭いがする。そして、腐敗臭。

「どうしたんですか?」

 ランタンを持っていたその人物は、突然掛かったその声に、僅かに肩を浮かせた。
 階段を降り切ったディックの目に、ランタンの灯りに浮かび上がった、男の痩せ衰えた顔が見える。
 薄汚れていて、小汚い。栄養が不足していると思われる顔は、血色が悪く、疲れているようだ。
 髪は泥が媚びり付き、ぼさぼさとしていて、見るからに不潔な男だった。彼が片腕だけで、背負っているのは小さな少女だ。
 暗闇に白い顔がぼうっと浮かんでいる。血の気が失せて、真っ白になった少女は、男の肩に頭を乗せたまま、
 ぴくりとも動かない。少女の左足は崩れて無くなっており、酷い腐敗臭は彼女からしていた。

 今まで見てきた人間と比べても、随分と雰囲気が違っていた。まず、敵意を感じない。
 それに、二階からやってきたディックに、男はおどおどしながらも、希望を抱いているように見える。

「ここは古い時計台で、何もありませんよ」

 ディックは、努めて穏やかな声でそう言った。濁った目玉をギョロギョロと動かし、

「ま、魔物に襲われて……む、娘が怪我をしたんだ……」

 どもりながら、男は言った。こちらにぐっと近付いてくる。
 右足を引きずるように歩くことから、彼もまた傷を負ったのだと分かった。

「だ、誰かいるかもしれないと、お、思ったんだ。だから……」
「すみませんが、出て行ってもらえますか」

 最後まで聞かないうちに、ディックは跳ね除けるようにそう言った。

 シェリーが自分の領域を、他の魔物に侵されるのを嫌うように、ディックもまた、他人が彼女の居場所に、足を踏み込むことを嫌った。
 何故ならこの時計台は、誰も来ないシェリーの居城であり、彼女と自分だけの世界なのだ。
 それに、彼女が降りてきてしまえば……

「此処から数十分歩けば、ギルクォードの中心です。
そこで、誰かに助けを求めるなり、医者に行くなりしてください」

 そう言いながら、ディックは少女が死んでいることを、父親らしいその小汚い男が、
全く気付いていないことに気付いた。彼は、助かろうと必死で気付いていないらしい。
 男から視線を入口付近に向ければ、そこにもげた子供の足が見える。
 転々と、時計台の入口から続いている血痕の量や臭いからして、出血も相当酷かったのだろうということが、
 容易に想像できた。布で傷口を縛っていたようだが、そんなことは意味がない。

「た、頼む! む、娘を助けてもらえないだろうか!?」

 既に事切れている娘にも気付かず、そう懇願する男の姿は滑稽に思えた。

――娘はもう、死んでるじゃないか。

 男が必死になるのと並行して、ディックは徐々に心が冷たくなっていくのが分かった。
 命辛々逃げ出したようだが、傷の手当てをきちんとしていない時点で、彼ももう手遅れだ。
 魔物の攻撃は、人間にとって脅威でしかない。たった一筋、引っかかれただけでも、
 それは致命傷に成り得るものだった。人間の持つ抵抗力や免疫といったものは、魔物の前では無いに等しい。
 受けた傷口から、魔物の毒素が入り込み、急速に体内に回る。迅速に、正しい処置を施さなければ、
 一刻もしないうちに毒素が体中に染み渡り、傷口から徐々に壊死し、それは壊疽へと変わっていく。
 それだけで終わらず、壊疽はすぐに体全体に広がり、ボロボロと身体を破壊していくのだ。
 そうなれば、もう助からない。体中の皮膚や臓器、骨が全て崩れていき、その恐怖と苦痛の中、死んでいく。



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