08


 漂ってくる毒の臭い。その濃度から、男の方も助かる見込みがないことを、ディックは容易く判断出来た。
 元々、彼らとは顔見知りでもなんでもない。仮に娘が生きていたとして、
 男の方も助かる見込みがあったとして、ディックには助ける義理はない。

 何故なら、彼らは誰も自分を助けてくれなかったのだから。

 それよりも、この時計台で死なれる方が迷惑だった。

「なんで、危険だって分かっているのに、住んでいた所から外に出たんですか。
武器も何も、持っていないくせに」

 男の懇願を無視して、ディックは疑問をぶつけた。

「む、村が魔物に襲われたからだ。み、皆死んじまった。……お、おれは娘と一緒に、
 クロズリーから逃げたんだよ。ち、近くの村や町に、み、身を寄せようと思ったんだ」

 魔物が横行闊歩するこの時代。そうしたことは、別段珍しいものでもない。

「それは大変でしたね……」
「お、お願いだ。た、助けてくれ」
「……出て行ってくれませんか」
「た、頼む。む、娘だけでも……」
「すみません。何も出来ません。その子、もう死んでますから」

 最も生きていても、助ける術など知らないし、助ける義理もない。

 淡々と告げると、男の目が大きく見開かれた。
 ランタンを持つ手や、血塗れの足がわなわなと震えた。動かない娘を見る。
 男はこちらに顔を向けた。汚れた顔を歪ませて叫んだ。

「死んでなどいない! 娘は生きている! まだ、生きているんだ!」
「そう信じたい気持ちは分かりますが、ここでは何も出来ません。
早く出て行ってくれますか」
「死んでないんだ! まだ生きているんだ! どうして、……」

 一歩踏み出した途端。男の右足が、大きく崩れた。文字通り、砂のように崩れていった。
 黒く変色した皮膚が、異臭を放ちながらボロボロと散らばっていく。重心を支えていた足を失い、
 男は悲鳴を上げながら倒れ込む。背負っていた娘が、前のめりに冷たい床に叩きつけられた。
 それでも、娘は泣きもしない。人形のように、転がったきりだ。

「……っ」

 少女の体が、徐々に崩れていくのを見て、ようやく男は娘が死んだことに、気付いたようだった。
 足がない。崩れた場所から徐々に、腐敗と崩壊が体中に広がっていく。嫌な腐敗臭が、
 ディックの鼻を突いた。露骨に顔を顰めながら、ディックは鼻を覆う。男が手にしていたランタンが割れて、
 中に入っていた蝋燭の火が、冷たい石の床に落ちた。降り積もった埃へと火移りする。
 しかし、埃は湿っているので、程なくして消えてしまった。時計台は再び闇に染め上げられる。

 男のすすり泣く声が響いた。ディックの耳に、カツンカツンと足音が聞こえた。
 シェリーの足音だ。なかなか戻ってこないことに、痺れを切らしたのか。

「随分、手間取っているな」

 暗闇の中に、凛とした声が響いた。男がびくりと肩を震わせる。

「……ごめんね」
「やっぱり、おまえはヌルイな」

 暗闇の中でも、ディックはしっかりとシェリーの姿を捉えていた。
 彼女は石階段を中腹まで降りていて、そこから階下を見下ろしていた。彼女が見つめているのは、
 体が腐敗する恐怖と、娘を失った悲しみから泣いている、哀れな男だった。
 埃や砂や涙で汚れた顔を、更に顰めて泣いている。そんな彼を、シェリーは冷ややかな目で見つめていた。



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