09
「ヒヒッ……」
自分の目に映る魔力結晶を見て、アラクネが乾いた声で笑う。力なく両腕を上げた。
「この地に逃げ延びたことで……テメェみたいな、混じり者に殺されるなんてね。屈辱だよ」
アラクネの赤い瞳は、徐々に白く戻っていった。
「何から逃げていたんだ」
静かに尋ねると、アラクネは小さな声で続ける。
「ずっと北の町から。アタシと旦那は、そこから逃げてきたんだ」
白い瞳がディックを捉えた。
「その周辺……そして、ノーフォーク湖には、殆ど魔物は残っちゃいない。皆、そこから逃げている。
そこにいたら、食われちまうからね」
「何に?」
「……化物にだよ」
アラクネはおかしなことを言う。そして、目を細めて笑った。憐れむような、侮蔑するような、
なんとも言えない嫌な目付きだ。そんな目で、ディックを見つめた。
「テメェ、人間の振りして生きているつもりだろうけどね。隠しきれてないよ。
テメェのその目は、あたしらと同じ、魔物の目だ」
「……もっとマシな言葉を、残しとけよ」
小さな音を立てて、最後の血管が魔力結晶から離れた。その途端、アラクネは黒い塵となって消滅した。
ディックは翡翠色の冷めた目で、その跡を見つめる。そして、血の媚びり付いた手や剣を見た。
この山の中、どこかに川があるだろうか。流石にこのままでは、帰れない。村人を怖がらせてしまう。
怯える人間は、何をするか分からない。臆病な人間は、悍ましいものを何よりも嫌う。
――これでもまだ、死なねえのか。
――みんな、やめてよ!
――魔物め、よくも欺きやがったな。
――そいつは、俺たちを助けてくれたんだぞ!
――殺せ、殺せ!
――それ以上、もう傷つけないでよ!
――くたばりやがれ!
「ディック!」
と、駆け寄ってくるティナを、手を上げて制止する。そして、未だ大砲のままの両腕を見た。
「そんなこと、出来たんだな」
「うん。ティナ、できる、ですの。かれ、いなくなったとき、これで、みをまもれ、いってた、ですの」
ティナの作成者は、いずれ自分が消えたとき。自分の代わりに彼女を守れるように、
護身用にと付け足したのだろうか。ティナは、ぶらぶらと揺れている肘から先を、再び持ち上げる。
すると、大砲の部分は二の腕に収納される形で消えていった。
「かえる、ですの?」
「その前に川に行きたい。洗わないと」
◆
すっかり枯葉で覆われた、冷たい土の上を歩き続けると、やっと川を見つけた。
枯れ色の葉が水の上を流れていく。魚も見当たらない、その澄んだ川の中にディックは手を入れた。
指先から痺れるような、冷たさが伝わってくる。やや乱暴に、川の水で血の汚れを落とす。
血染めの首巻きを外して、それを川の水に浸した。どろりと、赤黒い血が流れていく。
「けが、いたい?」
ティナが、ディックの頬を指差しながら尋ねてきた。他の傷と比べて、治りが少し遅い。
そこは、アラクネの溶解液を至近距離で浴びた箇所だ。それでも、皮膚はおおかた再生している。
火傷の時のような、むず痒い感じが残っているが、痛みは引いていた。
「もう痛くないよ」
そう答えると、「こっちをみて、ですの」とティナが呼びかけてくる。
素直に彼女へと顔を向ければ、ティナはニコニコと、無邪気に童女のような笑顔を浮かべている。
「こわい、かお、ですの」
「そんなに?」
「そんなに」
ティナは微笑む自分の顔を両手で指差した。
「えがお、だいじ、ですの。なかよく、なれる、リア、いっていた、ですの」
「仲良く、……ね」
小さな声で復唱したディックが思い出したのは、仲の良かった、友人”だった”少年らだ。
負けん気が強く、やんちゃ気質な、村の子供達のリーダー格の少年。
良く言えば大人しく、悪く言えば他人の顔色を伺う癖のある少年。
彼らとともに、村を駆け回るお転婆な少女。
もう、誰もいない。みんな、壊れてしまった。
「ティナ、えがお、ですの。みんな、なかよく、したい、から。わらうの、だいじ、ですのよ」
花のように微笑むティナに、ディックは意識的に、口角を上げてみせる。
しかし、見え透いた薄笑いにかならなかった。肩を竦める。
「笑えって言われて、すぐには笑えないよ」
「みたい、ですの」
魔剣の血も洗い終えたディックは、それを鞘に戻して立ち上がった。
「帰ろうか」
吐き出した言葉は、白い吐息となる。日ももう暮れそうだ。
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