07


「さあて、と。旦那の魔力結晶、返してもらうよ!」
 今度は、ティナは自分の意思で走り出した。しかし、歩幅の小さな彼女は逃げきれず、
 足を掴まれて転んでしまう。地に転がったティナの手から、紺色の魔力結晶が転がり落ちた。
 アラクネの腕の一方が更に伸びて、魔力結晶を掴む。それを口元まで戻したアラクネは、
 紺色の魔力結晶を飲み込んだ。更に魔力が強くなったことを、ディックは感じ取る。
 そして、見ている前で、アラクネの潰れた左目が、ゆっくりと再生していった。真っ赤な左目がそこに現れる。
 腕を伸ばして、赤い魔剣を引き抜いた彼女の額も、その傷跡を塞いでいく。

「大抵、魔物は魔力結晶をその身に宿す。それは、混じり者のテメェも一緒だろう。
テメェの魔力結晶は、……その左目だな」

 ディックは素早くその場から、後ろに下がった。白い糸が吐き出される。
 口から糸を出したまま、アラクネはティナを一瞥した。にたりと笑う。

「テメェも魔力結晶持ってんのかい。作り物には、過ぎた宝だよ」

 関節を外すような、軋む音を立てながら、アラクネは二本の腕を伸ばした。ティナを捉えようとする。
 そして、もう二本の腕をディックに伸ばしながら、辺りに糸を吐き散らした。魔剣で糸を切り捨てながら、
 ディックは一本の木を目指す。その幹を駆け上がると、勢い余って、根元に白い糸が当たって、
 その幹に絡みついていく。幹を駆け上がったディックは、そこから地上へ飛び移りながら、
 その流れの中で、迫り来る二本の腕を斬り落とした。血の尾を引いて、透き通るような白い腕が、
 乾いた草の上に落ちていく。その腕を踏みつけたディックは、今度はティナを狙う腕に狙いを定める。
 魔剣を赤い光が包んだ。遠距離の攻撃を仕掛けようとした瞬間、伸びてきた白い糸が剣に絡みつく。

 それを皮切りに、次々と伸びてくる白い糸が、ディックの自由を奪っていった。
 鬱陶しそうに顔を顰めるディックの目の前で、ティナがアラクネの糸に絡み取られた。
 八本の足を動かして、アラクネがディックに近付いていく。それと同時に、ティナを捉えた糸を器用に口の中に巻き戻して、
 彼女を引き摺って、手繰り寄せている。元々あった腕の肘から先は、ディックに斬り落とされており、
 赤い血を滴らせていた。脇腹から生えている腕を伸ばして、アラクネはディックに言った。

「目を潰してくれたお礼だ。受け取りな!」

 鋭く伸びた爪が、蜘蛛の足のような動きで、どんどんと左目に近付いてきた。チカチカと、視界が点滅する。
 鈍い光を放つ刃物が見えた。それから、ディックの脳裏に過ぎったのは、ある記憶だった。

 地に叩き伏せられた自分と、虚ろな母の顔。潰された足。青ざめた顔。制止する子供の声。
 大人達の怒鳴り声。眼前に迫る刃。痛み、苦しみ、痛み、悲しみ、痛み、絶望、痛み。
 怒り。怒り。怒り。そして、血の海と、転がる死体。血を吸って、赤く染まる雪。
 母の顔。こちらをじっと見つめる、母の顔。

「約束を破ったから」

 断片的な記憶が蘇ってくる。右目に突き刺さった痛みが、ぶり返す。
 もう、ずっと昔の記憶の筈なのに、まるで昨日のように鮮明に蘇ってくる。
 ディックの頭に、絶えず声が響き渡っていた。絶えず苛んできた。

 あなたが。俺が。私との。母さんとの。約束を破ったから。
 約束を破ってしまったから、あんなことが起きたんだ。
 



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