03
それから、どれ位の間そうしていたのか。気が付けば、責め立てるようなアレクシアの気配が無くなっていた。
代わりに別の人の気配に気付いたディックは、ゆっくりと顔を上げた。
「おい、どうした?」
むくつけき男が、心配そうにこちらを見下ろしている。
赤ら顔なことと、酒の臭いを纏っていることから、飲み歩いていたのだろう。
その傍らには、似たような体格の、飲み仲間と思わしき男が立っていた。
「兄ちゃん、どうした。飲み過ぎたのか?」
「顔色が悪いぞ。大丈夫かい」
無骨な手が、遠慮無しに肩に触れるのを見て、ディックは翡翠色の目を剥いた。
「触るな!」
強い力でその手を振り払って立ち上がり、距離を取るように数歩下がる。
それからディックはすぐに冷静になった。「あ、いや……」と罰が悪そうに、顔を歪めながら立ち上がった。
「すみません。……大丈夫です」
「そ、そうかい」
面食らったような顔の男達に会釈をして、ディックはそそくさと路地の闇へと姿を晦ました。
酒が入っている相手に対し、あんな態度を取ってしまえば、面倒事になるのは目に見えた。
変に乱闘騒ぎを起こすこともなく、すんなりと別れることが出来て良かったと、胸を撫で下ろす。
足早に階段を駆け下り、暗がりの中を進んでいたディックは、ゆっくりと足を止めた。
先程感じていた魔力が、随分強くなっている。そして、その暗闇の先に見えたのは、長身の男だった。
魔力は彼から放たれている。男が緩やかにこちらを向いた。
「どなたです?」
◆
その女は、大きな欠伸をして暗い路地を歩いていた。何人もの客の相手をして、今日は本当に疲れていた。
近頃、吸血鬼がよく現れるらしいが、まだ彼女は一度も見たことがなかった。
魔物ハンターの支部があること。よく彼らが巡回していることから、強い安心感を抱いていたその女は、
今日も人気のないこの道を歩いていた。自宅への近道なのだ。
一刻も早く家に帰り、布団へ身を埋めたい。そう思った途端、ふと寒気がして、女は腕を摩った。
もう弥生の終わりだというのに、まるで睦月のような寒さだった。
何かが急に迫ってくるような気配がして、女が振り返ろうと足を止める。
足を止めた途端、腕を強く掴まれ、そのまま後ろに引っ張られた。トンッと何かにぶつかり、
顔を挙げれば、暗がりでも青白く見える顔が、そこにあった。
――吸血鬼……っ!
咄嗟にそう思った。
さっきまでの安心感は何処かへ消え去り、只、恐怖だけが全身を駆け巡った。
しかし、その男の薄紫の瞳に見つめられるうち、その恐怖心が薄れていくのが分かった。
陶酔してしまったように、頭がぼんやりとしてくる。それどころか、このまま彼に、
身を任せてしまっても良いような、そんな心地良ささえ覚えてしまう。
男が流れるような仕草で、彼女の長い髪を掻き上げて、白い肌を顕にさせる。静かに顔を近付けて、
男はその首筋の香りを嗅ぐ。ゆっくりと、腕を掴んでいた手が体に触れ、そっと腰へと移動する。
その焦らすような手付きに、女はぞくぞくとした。男の息遣いが、すぐ耳元に聞こえてくる。
「いただきます」
首筋に、一瞬鋭い傷みが走った。
ああ、噛み付かれたのだと分かったが、それでも身体は拒否することをしない。
言い様の無い高揚感が、体中を支配した。男が血を吸う度に、女が堪えるような吐息を吐く。
深い呼吸の感覚が短くなり、次第に喘ぎに似た呼吸へと変わってきた時。
ふと、男は女の首から牙を抜いた。その途端、女は糸が切れたように脱力し、男にしがみついた。
男が目を向けた前方に、誰かいる。人間かと思ったが、どうにも違うようだ。
注意深く観察すれば、ぼんやりとした赤い光を纏っていた。大きくなったり、小さくなったり、
その光は大きさを安定させていない。男は怪訝そうに眉を潜める。
「どなたです」
そう声を掛ければ、赤い光は小さく揺らいだ。足音を立てて、こちらに近付いてくる。
そうして暗がりから現れたのは、赤い頭髪の青年だった。翡翠色の左目が綺麗だ。
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