2日目 B | ナノ








君は僕の光の子
 
2日目 B




(1)


数十分ほどの散歩を終えて、父とルイがたどり着いたのは、白皙の大きなドームの前だった。

味気のない真っ白なそれは、高さはそうないが、その分をべちゃりと押しつぶしたように大きい。
月コロニーにはかつてオリンピックでも使われた競技場があったが、それと似ている気がする。
それが今朝、借宿を出たときに見えたあの“小さなドーム”だと気づくのに、そう時間はかからなかった。


今、ルイと父はドームの中の事務室にいる。
とはいえ室内は、事務と聞いて想像するよりもずっと広い。
物があまりないからか、余計にそう思う。


ルイは手渡されたオレンジジュースでからからに乾いた喉を潤し、そっと目の前の人物を見つめた。

豊かな赤い髪に、彫りの深い顔立ち。
女性にしては背が高く、手足も長く、だからというわけではないだろうけど、どこか毅然とした空気をまとっている。

年の頃は……わからない。
蘭の花のように華やかな外見ではあるが、こういう顔立ちの女性は総じて年月を重ねても、いつまでも若いままである。

テレビの前で微笑む大女優がそうであるように、二十代といわれても、四十代といわれても、納得出来てしまうのだ。


女性はルイの視線に気づいたのか、灰色の、猫のような瞳を細めて見つめ返した。

「おいしい?」
「はい、とても」

へにゃりと笑って答える。
彼女がルイと父をここへ招き入れたのだ。

「良かった。それね、うちで栽培しているオレンジをもぎとってしぼったものなのよ。――カオルさんもお口に合うかしら?」
「はい」

静かにそう答えた父はルイの隣で、アイス珈琲を口にしていた。

二人はつい先ほど、軽く握手を交わすという儀礼的な挨拶を済ませたばかりだ。
けれども取り巻く空気は友人と言うにはよそよそしかったし、互いに顔と名前くらいは知っている程度の知人であるならば、父がわざわざ自分を伴ってここを尋ねてくる理由がない。

普通の人間ならば、ただの挨拶程度で訪れることもあるかもしれないが……。
父がそう律儀な人間でないことは、娘であるルイ自身が一番よく知っている。


ルイはそこまで考えて、その全てを打ち消すようにジュースを口いっぱいに含んだ。
あれこれと考えすぎるのは、今よりもっと小さなころからの悪い癖だ。
黙って成り行きに任せるだけで、物事は進むことだってある。

現に――

「そういえば自己紹介がまだだったわね」

ルイが一気にジュースを半分まで飲み干したところで、女性はそう口を開いた。

「――ジェシカよ」
「ルイです。はじめまして」

差し出された手のひらを握り返す。
硬質そうに見えて思いの外柔らかいそれに微笑むと、ジェシカはあらあらとばかりに肩をすくめた。

「やっぱり忘れちゃってるわよねぇ。顔くらいは見覚えあったりしないかなぁ、なんて思ってたんだけど」
「え?」

ルイは首を傾げた。
ジェシカが、イタズラっぽく微笑む。

「あたしとあなたは“はじめまして”じゃないの。……まあ最後に会ったのは五年も前だし、覚えていないのも無理ないかしら」
「!」
「あたしはね、貴女のお母さん、ルナの友人よ。昔、地球で働いていたの」
「じゃあ、惑星開拓技師なんですか?」
「いいえ。あたしはね、医者よ医者。
何だかんだ言って、地球は人体に有害な物質がうようよしているからねぇ。あそこには常に医者が何人か待機しているの。その内の一人が、あたしだったって訳。
最も、あそこの人たちって妙にタフだからさぁ……仕事なんてほとんど無くって、あたしなんか技師の仕事の雑用ばっかりやらされてたんだけど」

医者!

ルイはまじまじとジェシカの姿を見つめ直した。
洗礼された大人の女という形容がぴったりな彼女と、医者という職業。

どうにも合致しない。
勝手なイメージではあるが。

「ルナもねぇ、よくあたしを手足のごとく使ってくれたわ。あたしの珈琲作りの腕は彼女のおかげで格段にアップしたわね」
「そうなんですか?」

人を顎で使う母を想像して、ルイはぷっと吹き出した。

――似合わない。

ルイが知る母はどこまでも行動的で、誰よりも何よりもまず先に自分が動く。
まあ、若かりし頃の遭難事件ではリーダーを務めたというし、その素質がない訳ではないだろうが。


漂う空気の穏やかさに、ルイは知らず口元が緩んでいた。
母の影響力は、例えここに本人がいなくたって変わらない。

ルイの世界は、母を中心に回っているのだ。


「ルナが妊娠した時もね、あたしが検査したわ。あなたが生まれた時も、医者として立ち会った」


けれど、その一言に。


「――え」


すとん、と。


水滴がしたたるコップが、手から滑り落ちる。

「あ……」

氷と、オレンジ色の液体がテーブルの上に広がる。
じんわりと、染み込むように。

「すいません!」
「ああ、いいのよ。服は汚れてない?」
「はい」

ルイはテーブルのはじっこにあった布巾をつかみ、液体の上に被せた。

みるみると水分を吸収するそれを見つめて。
ルイはそっと、目を伏せた――






(2)


「この植物園はね、あたしのダーリンが管轄しているものなの」

ダーリン、の後にハートマークを飛ばし、ジェシカは笑った。

事務室を出て、固く閉ざされた扉を開けると、そこには一面の緑が広がっていた。
ルイはそれにしばし見とれ、しかし思いがけない一言に、目を見開いた。

「ジェシカさん、結婚してるんですか!?」
「ええ。式にはあなたも来てもらったんだけど、言ってなかったかしら?」

ぶんぶんと首を横に振る。
ジェシカは笑いながら、目を細めた。

「ダーリン、あなたに会えるのを楽しみにしてたのよ? ルナが来れたらもっと喜んだでしょうけど」
「…………」

それを聞いた父は、珍しく苦々しい表情を作った。
ルイが不思議そうに首を傾げると、罰が悪そうにプイと視線を逸らされる。

何だか避けられたみたいで、少し悲しい。
ルイは眉を下げて、うつむいた。

「あらあら……」

ジェシカはそんな父と娘を見てはにんまりと笑い、頬に左手を当てた。
彼女はことの事情を、既に母から聞いているのだろうか。

「ジェシカさん?」
「何でもないわ。さ、案内を続けましょ。……ダーリンにも、会ってあげてね?」

颯爽とその場でターンし、ジェシカは迷うことなく緑の道を行く。
ルイは、あわててその後を追った。






 







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