共に哭く 2/3
兵たちの怒声、剣のぶつかり合う金属音。じりじりと距離を詰められ、ユタは次第に崖の淵まで追いやられていた。いくら戦えるとは言えど、こうも数が多くては体力も消耗する。加えて、先ほどテジュンの指示で放たれた矢を至る所に受けていた。
異様に体が重い。踏ん張ろうと地面を踏みしめれば、そんな小さな反動で平衡感覚を失い、世界が揺れる。…毒矢だ。気付いた時には、既に全身から汗が吹き出し、手足も痺れ始めていた。それでも、ユタは戦い続けなければならない。数人の兵がハクたちの捜索にあたり森の中へ入っていくが、他の者たちは存外しぶといユタを片付けんと迫ってくる。
気を抜けばいつ倒れてしまうともわからない中、ユタは夢中で剣を振るっていたが、何やら後方が騒がしい。増援だろうか、と唇を噛み締める。しかし、敵を蹴破って現れたのは、他でもない、ユタが逃したはずのハクだった。
「どうして、戻ってきたんだ…!」 「ここでお前がやられたんじゃ、この先姫さんがまた抜け殻になっちまうだろ。」
兵たちの間を縫ってユタの前までやってきたハクだったが、彼の背中にも矢傷を見つけてユタは絶句する。自分だけならまだしも、まさかハクまで毒矢に? その疑問は、大きく肩を上下させ呼吸を整える仕草が答えを語っていた。
「…っバカ、考えなし!」 「へぇ、人を罵倒するなんて器用な真似できたんだな。」 「茶化すな!せっかく逃げられたというの、に…、」
ユタの言葉が不自然に途切れる。一体どうしたのかとハクが振り返れば、ユタは隙をみて向かってくる敵を剣で制しながら、頭を押さえて唸っていた。が、次第に膝から崩れ落ちていく。
「声が、ヨナの声が、響いて…、」
頭を殴りつけられたような痛みの中で、ユタはヨナの声が聞こえるのだという。
────── 真実を知っているのなら、風の部族を追い詰める前に、罪のないハクたちを殺す前に、お前のすべき事があるはずだ!!
これは、幻聴などではない。ユタの口から出た名前にハクがヨナを隠した場所を見上げれば、そこには確かにテジュンの前に立ちはだかる彼女の姿があった。
────── 私は何も知らない姫だが、道理もわからぬ者の言葉に耳を貸す程、
「落ちぶれてはいない!!」
まるで己を焼き尽くす炎のような彼女の髪を目にして、ユタの頭痛はピタリと止んだ。山間を吹き抜ける風がユタの髪を攫う。母譲りの黒髪は、ヨナと瓜二つの赤、紅い色へと変貌していた。何が起きているのか、誰にもわからない。ただ問う前に、ユタはハクに迫る凶刃に、脇目も振らず駆け出した。怯んだ兵を突き飛ばし、ハクの頭上に振り翳された剣の前に体を滑り込ませる。
「ぅ、ぐ……っ、」
それは容赦なく、華奢な背中を裂いた。
毒が回り油断してふらついたハクは、突然視界に現れた紅い尾に呼吸を忘れた。
「ユタ!!」
しかし、ヨナの悲鳴で我に帰る。龍の尾にも見えたそれは、まばたきをすれば瞬く間にユタの体から溢れる血へと姿を変えた。苦痛に顔を歪め、ユタの体が倒れていく。その先には、口を開けて彼女が身投げするのを待つ深淵があった。ハクは歯を食いしばり、力なく投げ出されたユタの手をすんでのところで掴み引き上げようとしたが、毒に侵されて思うように動けず、二人で宙に舞う。
落ちるわけにはいかない。崖の上にはまだヨナが残っているのだ。大刀は既に奈落の底へと吸い込まれていったが、ハクは残る力で崖の淵にとりつく。ぴく、と微かに握り返してくる感覚に、ハクは首を下に向けた。ユタは全身から血を滴らせ、だらりと項垂れている。テジュンはハクがこの状況を維持するのに必死で手も足も出せないと知ると、すぐに奈落に突き落とせと命じた。
「ユタ、ユタ…しっかりしろ、ユタ!」
鮮烈な痛みに一度気を失ったユタが、幾度も呼ばれる自分の名前にうっすらと目を開ける。宙に舞う自分の足。重い首を上げれば、離すまいと血管が浮き出るほど強く手を握ってくれているハクがいた。
胸元を抉る傷は熱を持っているのに、手足は凍えるほど冷たく感覚を曖昧にさせる。痛みは絶えず襲ってきているが、他人事のようにユタは嗚呼、死ぬのか、と思った。
「ハク!今、助けるから。」 「馬鹿野郎…逃げろ。あんたには無理だ、早く遠くへ…。」 「やだ!絶対、ハク、死んだら許さない…!!」
ヨナはまだ無事なようだ。貧弱だとわかっていても彼女はハクを助けたい一心で身を乗り出し、動くはずもないハクの腕を引っ張っていた。無理に決まっている。その腕には、ユタの重みだってあるのだから。ヨナの頬を流れた涙が落ち、ユタの頬をぽつぽつと濡らした。
…私さえ、いなければ。
ハクひとりならば、空いた手で崖を登ることだってできる。ヨナを敵の手に渡さないために、彼女を救えるのは、ハクしかいない。意を決して、ユタは掠れた声で呼び掛けた。
「………ハク。手を、はなして。」
けれど、彼は手を離すどころか、一層力を込める。
「ハク、はなして。はやく。」 「聞こえねェ!!」
ぎり…と骨も軋んで音がするほど必死に、ハクは今にも尽きようとしている存在を、繋ぎとめようとしていた。
「わたしは、もう、大丈夫だよ。」
来たる日のために、ヨナのために残された命だった。直接ヨナを救ったわけではないけれど、ハクを助けることが結果的にヨナの未来を切り開けるものなら、これが最期になろうと構わなかった。何より彼女が、ユタ、と名を呼んでくれたから。
「てめェはいつもそうやって…平気なわけねぇのに、大丈夫って、くだらねぇ意地、張ってるんじゃねぇ!!」
でも、ハクは。
「痛いなら、痛いって言え!! 生きたいなら、生きたいって言えよ!!」
ハクはいつも、全てを見透かしてしまう。
どうして父上はわたしのことを愛してはくださらないの。
離宮に閉じ込められていたユタのもとを訪れていた母は、いつしか来なくなった。母が賊に殺されたと知った時に味わった喪失感も、全て国王の言葉に封じられ、己の望みを口にすることは、叶わなかった。
「絶対離すかよ!やっと、掴めたってのに…」
そんな中、ハクは、ハクだけは。王に咎められようとも、皆に奇怪な目で見られようと、ユタのそばに立ってくれた。
ひとりはさみしい。だれか、わたしに気づいて。 能面の奥に隠された叫びに唯一、手を伸ばしてくれた。
でも、だからこそ。
「ハクまで、死なせたくないんだ。…ごめんね。」
どんな辛い人生でも、あなたが触れてくれたのなら、幸せだったのかもしれない。 柔らかな笑みを残して遠ざかる意識に身を委ねれば、ユタの手はいとも簡単にすり抜けていった。
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