焦がれる想いは追い付けない
時折無償に恋しくて。旅の途中、海軍の船を見ると、近づいてはいけないのに一度は確認してしまう。貴方の船ではない、そう解ると虚無感に襲われる事は自覚しているのに。
遠くからスコープで探す彼のシルエット。
―――ガープさん。
誰もに優しく、厳しい人だった。
耳から離れない豪快な笑い声と叱責は今でも胸を熱く焦がす。
「…ガープさん…」
届くはずのない…か細い呼び声。
溢れ出す愛しさに、ヒスイは静かに涙を零す。
もう海軍には帰らないと決めたけれど、
いつか…貴方の元には帰りたい。
濡れた視線の先にあるのは、正義の文字を背負う大きな背中。
貴方に会いたい。
貴方の側で、私は正義を信じて戦いたかった。
一人ぼっちだった私の世界に"色"を与えてくれた僅な人。
***
そして禁断の日がついにきた。
―――目が、合ってしまった。
見つけてしまったその人。声を掛けたくて、けれど会えないのがもどかしくて街中だからとつい、近づき過ぎてしまった。
僅かな空白を置いて、ヒスイは全力で人波の中へ走り出す。
「待たんかァ…ヒスイ!!」
「ま、待てません!」
耳をつんざく怒声。共に迫る足音。
ヒスイは、自分を追いかけてくる巨体に青い顔でひた走った。
戦闘に関して一切合切を教え込まれた張本人。
超人的な身体能力。豪快かつ雑把な所は昔とちっとも変わっていない。
彼は街道の花壇やら、石垣やらを破壊しながらガープは彼女の後を追ってきた。
「こ、公共のもの壊し過ぎですよ…っ、中将!」
「やかましい!お前が止まれば済む話じゃァ!!」
「ぎゃあ!」
短剣が投げられ、ヒスイの纏ったローブが壁にがっちり縫い止められる。
こんな人の多い所で……普通の人間にあたったらどうするつもりだ。
安易に反復してなど避けられず、彼女は一瞬足を止め刺さったナイフを引き抜いた。
「取ったわァ!」
陰る身体。そのまま大きな手に掴まれる彼女の手首。力に任せ握られて、たまらずナイフは手から落ちる。
女だからとて容赦ない。細腕を捻りあげられて、彼女は溜まらず悲鳴をあげた。
「いだだだ……中将痛い!」
ジタバタと暴れ騒ぎたてるヒスイに有無を言わせず、ガープは素早く彼女の体を肩に担ぎ上げる。感じられる体温。久しい感触。彼の匂い。
こんな状況でもヒスイはガープを近く感じられて嬉しい反面、ほとほと困り果ててしまった。
「…ガープさん、お願いです。軍艦には行きたくない…。軍に戻さないで下さい……」
「………。」
弱々しく訴える懇願にも、大股で歩くガープは無言のまま。彼女は返らない言葉に不安と恐怖を募らせ、彼の背中ではためくマントをただ強く握り締めた。
***
ようやく下ろされた先は、軍艦の碇泊している港とは反対側の波止場だった。
「――あ、…」
頼みを聞き入れてくれたのだ…そう分かるとじわりと胸に灯る熱。人通りの少ない貨物置き場で、ガープはヒスイを適当な場所に座らせる。
目の高さを合わせられて、両手で挟まれる顔。
会いたかった人の顔が視界をいっぱいに埋め尽くして…ヒスイは胸がとくとくと高鳴った。
「――…元気じゃったのか?
全く、ワシがいない間に飛び出しおって、」
怒気を含んではいるが、優しい声。彼のその問いかけに何度も頭を縦に振り、ヒスイは少し視線をずらす。
かさついて、傷の増えたガープの掌。年月を重ねたその大きな手に自らの手を重ねて、彼女は頬をすり寄せた。
目を閉じると、心が、会えなかった時間が満たされていくのがよく分かる。
「…………ふっ…く」
ずっと会いたくて、会えなかった。
ガープは本部に身を置く時間がずっと長い。中将という地位、そして前線から退いているその立場が彼女との距離を遠くさせた。
ヒスイは声を殺してむせび泣く。
小さく震えるその背中をガープは優しく撫でてやり、そのまま腕に包み込んだ。
「…馬鹿モンが。全く……今頃泣くな。」
これ以上ない程、彼女はガープにしがみつく。
彼はそれに応えるよう強い力で抱き返した。
「…すまんの、ヒスイ。」
お前を自由にしてやれず、すまん…。
どこまでも優しい音色に涙は留まる所を見せない。
ヒスイは涙を払い、勢い良く顔を上げた。
「ガープさん―――ありがとう。
会いに来てくれて…ありがとう。」
見せたいのは泣き顔じゃない。
ヒスイは何とか笑顔を向けると、彼の腕の中から立ち上がり海の方へ体をくるりと反転させた。
「私、海軍には戻りません―――でも…貴方に対する気持ちは今も昔も変わりません。」
「…ヒスイ?」
「私、ガープさんが好きです。」
呆気に取られるガープを余所にヒスイは声を上げて笑い、勢い良く貨物置き場から飛び降りた。
「中将。私…行きます。
必ず…また会いに来ます。貴方に。」
だから……
貴方からも会いにきて下さい。
吐露された想いは、儚く熱く。
再び走り出したヒスイを、ガープは消えるまでじっと見つめ続けた。
彼女の姿は、晴天の海風のよう爽やかに街に溶けていく。小さく消えるその背中に、ガープは軽く顎をかいてようやく思い出したよう笑みを浮かべた。
「……全く。寿命が縮むわい。」
不意打ちの告白。
その言葉に、いつになく鼓動が高鳴った。
内にあるこの感情は到底名前をつけて呼べる代物などではない。
「…元気での。」
ゆっくりと腰をあげ、ガープは彼女の笑った顔を思い起こす。
あの笑顔を、守ってやりたい。
何に代えても。
それは愛以上に慈愛に満ちて、ガープはヒスイの平穏を強く祈った。
―――――――
2011 01 23
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