真実の愛というものが一体何なのか自分には一生わからないままなのだとディルムッドは思う。未来永劫解けない呪いによって知る機会は永遠に失われたし、どう足掻いても二度と手に入れられぬものだと知っている。女運が悪いと一言で済ませてしまえばそれまでだが、今まで数多くの女性と関わってきて度重なる不幸に遭遇してきてはあまりにも酷い己の運命に苦笑するしかなかった。報われない。救われない。摩耗して傷ついて疲弊しきったこの心の渇きが満たされることはない。生まれてから今まで数百年ほどの長い年月を過ごしてきてもこんな苦しい想いに囚われた経験は一度もなかったから、本当に得たい愛ほど得られないという矛盾に遭遇した場合、一体どうすればいいのかわからなかった。
第一、もう二度と一時の淡い幻想でしかない愛欲には溺れず主君への忠誠を違えぬと、過去に己が犯した過ちから心に誓っていたはずだった。思いもがけず英霊として常世に再び蘇り忠誠を誓う主君を得た奇跡を手にしているのだから今度こそ同じ間違いを繰り返すつもりは毛頭ない。生前の後悔を晴らすべく己の騎士道を貫かんとする強い思いは確かに存在していた。――そのはずだったのだ。
初恋を覚えたばかりの若造でもあるまいし英霊となった身で色恋沙汰に精を出して何になると思うけれど、彼女に恋焦がれる感情には抑えが利かない。愛おしい、触れたい、抱き締めたいという気持ちがとめどなく胸の内から溢れてくる。
だがしかし――「貴方が好き」「誰より愛してる」と熱い想いを無言で秘めたままそう語る瞳が自分に向けられることは一生ない。自分が魔術師に行使される英霊の立場である限り、己のマスターと定めた彼女の兄と決して違えぬ忠誠の契りを交わしている限り、彼女は自分を一介のサーヴァントとしてしか認識しない。海の底より濃く青い二つの眼が映し出しているのはこの世でたった一人だけ。恋焦がれる唯一無二の存在しか見つめていない彼女の心は未来永劫自分のものにはならないのだろう。どれほど強く願い、運命を捻じ曲げようとしても。



◇◆◇◆◇◆◇◆



名前の狭い世界を構成しているものはたった三つしかない。自分と兄とそれ以外の何かだ。
故に他人がいかなる苦痛を負おうが自分達に無関係であれば彼らがどうなろうが構わないと思う残酷な面があると自覚はあるし、何よりも最優先にすべきなのは兄の幸福なのだと信じて疑わない。兄が望む願いが名前の願いだ。己に出来ることなら彼の望みは全て叶えてあげたいし、その為には協力を惜しまず自分の何もかも全てを投げ捨て彼に捧げる覚悟もあった。それこそ兄が望むなら捨て駒となって無残に惨たらしい死に方をしても本望だと思えるほど、異常なまでの愛情を名前は兄に対して抱いていた。
名前・名字の本来の名は名前・エルメロイ・アーチボルトといい、それを第三者が耳にすれば同じ家名からすぐに察しがつくだろうが、実兄は魔術協会本部の時計塔で降霊科の一級講師を務めるケイネス・エルメロイ・アーチボルトである。ロード・エルメロイの名で知られる彼は九代続く魔術の名門アーチボルト家の嫡男で、様々な功績を作り上げた天才と自他共に認める優秀な魔術師の兄は名前の誇りだ。同じ母の腹から同時に生まれた兄は血肉を分けた兄妹というより、もう一人の自分のようだと名前は思っている。魔術師の家系に生まれた子供の宿命があるが故にケイネスより数分後に生まれた名前はアーチボルト家での存在価値はゼロにも等しく、もしかするとこの世に生を受けた直後に抹殺されたとしても不思議ではない特殊な環境下で幼少時代を過ごした。通常、代々受け継がれる魔術刻印の力を色濃く残す為に刻印移植は歴代当主にのみ行われ、それ以外の人間は用済みとなる。魔術の指導を受けることなく魔術自体の存在すら教えられないまま普通の人間として育てられる場合もあれば、生まれつき強い魔力を有していれば他家と婚姻を結ぶ為の駒とされる場合もあるが、後継者は二人も必要ないとして殺されるケースもあることを考えればそのどちらか二つの道を選べれば僥倖であろう。男女の双子の片割れとして生まれた名前もまた多くの魔術家が経験した例に漏れず、ケイネスが将来の当主と決まったその時からアーチボルト家の子供ではなくなった。辛うじて命こそ奪われなかったものの、アーチボルトの人間であると名乗ることを許されなくなったのである。古くから代々続く魔術の名門と強い繋がりを持ちたいと思う者は数多く、互いに思惑を抱く家同士の利害がうまく一致したこともあり、存在理由をなくした名前は物心がつくかつかないかさえ曖昧な年頃に後継者問題に頭を悩ませていた名字家に養子に出された。その真実を知ったのは名前が十五の時で、それまで名前は自分が名字家の人間だと信じて疑わず生きてきたからまさか自分に血の繋がった兄がいるとは思わなかったし、ましてやそれがケイネスだとは想像もつかなかった。
ケイネスと初めて顔を合わせた日の記憶は今でも鮮明に残っている。話に聞いているだけだった己の半身は抜きん出た才能を持っている優秀な魔術師として大成していて、憧憬していた彼を実の兄と呼べる時を心待ちにしていた名前にとってはケイネスの淡白な態度など何の障害にもならなかった。長年の時を他人同然で生きてきたから普通の兄妹のような親しい関係を築けなくても仕方がない。私には妹などいないと拒絶されなかっただけでも嬉しかった。
優秀な兄に少しでも近付きたくて認められたくて褒めてほしくてそれまでおざなりだった魔術の勉強に真剣になって取り組み、その積み重ねた努力が実って、彼には届かないまでもそれなりに一介の魔術師として認められるだけの力を得られた。元々血筋が優れていたのも関係しているのであろう。しかし何より名前が他の魔術師達よりも片割れの兄よりもずば抜けた潜在能力を有していたのは術式ではなく根源たる魔力に関してであり、特に対魔力のスキルは『呪い』と呼ばれる全ての理を無に帰するほど稀に見る強力さだと判明し、周囲から一目置かれる存在となったのだ。
今名前が遠い異国の地である日本の冬木にいるのは聖杯戦争に参加するケイネスについてきたからであり、少しでも兄の力になりたいという、ただそれだけの一念が理由だ。でなければ祖国から遠く離れた極東の島国になど一生縁がないまま終わっただろう。ケイネスが英霊召喚に成功して聖杯戦争に参加すると決まったと知った名前はすぐに彼のバックアップを願い出た。いくら妹とはいえ一介の魔術師でしかない名前が聖杯戦争に関わるには数々の障害がありスムーズにはいかなかったが、根気強くケイネスを説得した結果何とか認められて、彼の婚約者であるソラウと共にサポート役に回っている。
名前自身は聖杯戦争の仕組みを完璧に網羅していないし聖杯に託したい望みも特になかった。全ての願いを叶えてくれる願望機である聖杯に興味がないと言えば嘘になるが、手に入れたいとは思っていない。自分より聖杯を得るに相応しい人間が他にいるのだから、わざわざ分不相応に聖杯戦争に名乗り出る必要はないだろう。それくらいの分別はついている。名前が抱く望みはただ一つ――ケイネスを聖杯戦争の勝利者にしたいという願いだけでこの戦いに参加している。とはいえ、マスターの資格保持者ではない自分に出来ることなど微々たる裏工作くらいしかないのだが。


「――何の用?」


部屋の中央にあるソファーに横たわったまま目蓋も開けずに呟くと、同時に名前の周囲の空気がぐにゃりと揺らめき歪に変化した。何も存在していないはずの空間に歪みが生じて大気中に散らばっていた魔力(マナ)が一点に集中し、濃密度に圧縮されたそれが人型を作っていく。同時に濃くなった他の気配を感じて名前は目を開けた。
今まで自分以外は誰一人見当たらなかったはずの室内には第三者が存在していた。ソファーの傍らに立っているのは黒髪の男だ。やや癖のある黒髪を後ろに撫でつけた髪型、日焼けした褐色の肌、琥珀色の瞳。見事に均整がとれた筋肉質ながらもしなやかな肢体はスラリとした黒豹を連想させ、まるでギリシャの彫刻像のような美しい芸術品のようですらある。しかし思わず見蕩れてしまうのは肉体だけではない。端正な面持ちは男性的でストイックな色気を醸し出しており、魅了(チャーム)の魔力がある目元の黒子が彼の魅力をより一層際立たせている。もし名前が人並み外れて対魔力に特化していなければ大半の女と同じように彼を一度目にした途端に恋に落ちて彼に激しい慕情を抱いていたに違いないと思わせるほど危険な魅力に満ち溢れている男だ。
もっとも彼自身は思いのままに操れぬ力を一種の呪いとして捉え、周囲の人間を虜にする魔貌を忌まわしいとさえ厭っているのかもしれないが…と幸薄い彼の過去にほんの少しだけ憐憫の情を抱きながら数回瞬いた名前は突然目の前に現れた美丈夫――『輝く貌』の異名を持つケルトの英霊ディルムッド・オディナに視線を向け、その青い瞳の中に彼を映し出した。


「何故ここへ来たの?兄様の命令があるわけでもないのに戦い以外でわざわざ貴方が実体化するなんて…暇なら見張りでもしてればいいのに。兄様の身に万が一何かあったらどうするの。他のマスターにこの場所が知られて襲撃される可能性だって充分考えられるってことくらい貴方もわかってるでしょう、ランサー」


ランサーという呼称を持つ彼が普通の人間でないことは今更説明するまでもなく、それは彼が纏う神秘的な雰囲気が証明しているし、第一、たとえ人間がどんなに知恵を絞って画期的な発明品を作り出したとしても何もない空間から姿を現すなんて芸当は不可能だ。時空空間を自由自在に変化させられるほど技術が高度に発展した未来であればそういう機械もあるかもしれないが、少なくとも今現在の人類の知恵ではどう頑張ったとしても無理だろう。
故に彼は人間ではないと断言出来る。しかも幽霊や使い魔のような下等で安っぽい存在とはまるで違う、高次元の別の存在。今もなお伝説が語り継がれる英雄の魂――聖杯戦争の為に再び俗世に蘇った英霊の一人なのである。
聖杯の所有権を巡って行われる聖杯戦争には、聖杯が選んだ七人のマスターと七人のサーヴァントが参加する。ディルムッドはケイネスが召喚したランサークラスのサーヴァントであり、ケイネスと主従契約を結んでいる彼は今現在他のマスターからの襲撃に備えて彼の身辺警護をしていたはずだ。なのにどうして彼は持ち場を離れてここにいる。いくらアジトとしているこの建物全体に盲ましの結界を張っているとはいえそれは絶対の守りではなく気休め程度で、他のマスターに看破され無効化されるアクシデントも起こり得るだろう。少しの油断も慢心も許されない今の状況下でケイネスを一人にするなどもってのほかだと名前は眉を顰めて不快感を包み隠さず露にする。
微かに苛立った名前が冷たい青の双眸を細めるとディルムッドはわずかに身じろいだが、それ以外は臆する様子もなく静かな眼差しで名前を見下ろした。戦闘機一つ分ほどの絶大な戦力と魔力を有する彼にしてみれば赤子の手首を捻るよりも容易く殺せる名前などせいぜい愛想の悪い小娘程度の認識でしかなく、もし彼が本気で怒れば名前の腕など軽く掴まれただけで骨まで完全に粉々に砕かれるのだろう。主であるケイネスの妹で味方陣営にいるサポート役の一人だからディルムッドは一応名前に対して敬意を払って礼儀正しく接しているだけであって、本来なら彼に跪かれるような立場ではないのだ。ケイネスを主君と仰ぐディルムッドは義理堅い性分で騎士道を重んずる。自分のような小生意気で不遜な女にまで礼節を尽くす必要はないのに、名前の身を案じて顔を曇らせる彼は紛れもなく高潔な魂を持つ騎士だった。


「結界を維持する為とはいえ、少し無理をしすぎではありませんか」
「少し魔力を使いすぎただけ。休めば回復するし、貴方が気に留めることじゃない」
「ですが名前様、貴女は…」
「わかってる。自分の力不足は承知してるからそれ以上何も言わないで」


マスターであるケイネスが霊呪を行使する権限を持ち、ソラウがディルムッドへの魔力供給を担い、そして名前がその他の些事を受け持つ。身辺警護が主な役割で、日本での活動拠点としているこの場に常に結界を張っている上に使い魔を数匹ほど見張りとして放っているせいか魔力の消耗が激しく、一日が終われば今のようにぐったりと力尽きてしまうことなどザラにある。いくら『神童』と崇められたケイネスと比べて遜色ない才能を持っている名前であっても際限なく魔力が溢れてくるわけではなく、休みなく魔術を行使していればいつか限界が訪れ魔力は枯渇する。
燃料切れギリギリまで追い詰められた状態の名前は就寝の挨拶もそこそこに切り上げて自室に篭もり、奪われた魔力と体力を少しでも取り戻そうとしてこうして身を横たえて休んでいるのだが、完全に回復するまでに再び魔術を使うのだからいくら休んだってキリがない。焼け石に水だ。あくまで普通の域を出ない魔術師としての限界に衝突する今のような時、決まって名前は途方もない虚無感に襲われて泣きたくなる。普段張っている虚勢が見る影もなくボロボロと剥がれてしまうのも、それだけ余裕がない証なのだろう。
彼には不調を悟られたくなかった、と名前は密かに唇を噛む。ディルムッドはサーヴァントとして使役されるだけの役割を担って召喚された英霊らしからず人間味に満ち溢れていて、理由はわからないが彼にとってマスターの妹でしかないはずの名前を事あるごとに気にかけるのだから、その度に名前の心に微妙な不快感が生まれている。彼は自分などよりケイネスの身を案じ、主を最優先に据えるべきだ。たかが他人同然の名前のことなど放っておけばよい。なのにディルムッドは気が付けば名前の近くに侍り、まるでケイネスではなく名前がマスターであるかのように接してくる。
さすがにディルムッドも己や名前の立ち位置を弁えているからケイネスやソラウの手前では控えているが、いくら彼らの知る所ではないとはいえ少し距離が近すぎやしないかと危惧していた。自分は彼に心配されるような身の上ではない。ケイネスを差し置いて気を遣われるなど言語道断だ。各々の役割が確立している我が陣営に亀裂を生まない為にも壁を乗り越えてまで必要以上に近付いてはならず、彼には余計な真似をせずに自重してほしかった。


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -