「…聞こえなかった?兄様の元へ戻りなさいと言ったのよ。貴方のマスターは私じゃない。兄様でしょう」
「わかっています。我が主の護衛に抜かりはありません」
「ならどうして…ああ、兄様に厄介払いされたのね。ならソラウの護衛をしなさいな。彼女なら喜んで貴方を傍に置きたがるはずよ」
「――名前様」


わざと彼の神経を逆撫でして怒りを煽るような台詞を吐くと、柳眉を寄せて眉間に皺を刻んだディルムッドの声音が低く強張る。名前は軽口を叩いたつもりでも彼にしてみれば笑えない冗談で、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリは出来ることなら避けたい対象でしかないのだろう。よりによって主の婚約者である彼女に恋慕されるなど――生前の業を未だに引き摺っているディルムッドにとって何よりの苦痛と感じているに違いない。ケイネスの前でも明白な好意を示す彼女のまっすぐすぎる恋心には彼もほとほと困り果てているように思えた。仮にも彼女は主の婚約者であるし魔力の供給元になっているから無碍に扱えない分、余計に。
調子に乗って少しからかいすぎたかもしれないと反省した名前は笑みを消し、疲れた表情で重いため息をついた。


「とにかく今すぐに私の前から消えてちょうだい、ランサー」


全身を酷い倦怠感が包んでいた。指先一つ動かすのも億劫で、今にも目を閉じて深く眠ってしまいたい衝動に駆られている。今こんな状態で誰かの相手なんて出来るはずもなく、早く出ていって一人にしてほしいと心の底から思う。ケイネスにもソラウにも、そしてこのサーヴァントにも、大幅に魔力を失っているせいで弱っている自分の情けない姿を晒したくなかった。
だがディルムッドは動かない。両足の裏から生えた根が床に根付いてしまったかのように微動だにせず、琥珀の瞳でただひたすら名前を見つめたまま佇んでいる。
無言で抵抗の意思を示すディルムッドに降参して白旗を上げたのは名前が先だった。


「…そうね、貴方のマスターは兄様だから私の命令を聞く必要だってないんだわ。私がマスターだったら霊呪を使って命令するのに、残念。貴方みたいに頑固なサーヴァントを強制的に従わせるのは骨が折れそう」
「……………。一つ、お尋ねしたい。貴女は何故自分の身をそこまで犠牲にするのです。貴女が使っている術は明らかに貴女の体が耐え得る許容範囲を軽く超えている。このまま酷使し続けていれば貴女は…」
「あら、主君を守る騎士であるはずの貴方がそんな台詞を言うなんて驚きだわ。妹が兄を守りたいと思うのは何も不思議ではないでしょう?」
「ええ、『普通』の範囲内なら何も問題ない。ただの従者でしかない私が口出しすべき問題ではないでしょう。ですが、貴女のそれは常軌を逸しているとしか思えません。…無礼と承知で言わせてもらうなら、貴女が主へ向けている感情は――異常だ」


そんなこと、今更言われなくても既に自覚している。名前は唇を歪めて自嘲するように嗤った。
生物学上、双子として生まれたケイネスと名前はこの世で一番自分に近い人間だ。母親の胎内に宿った時から血肉も遺伝子も全て彼と共有して彼と共に育ってきた。鋭利な刃物のような印象を与える容姿は男女の性差さえなければ本当に鏡合わせの自分を見ているかのように酷似していて、金髪碧眼の己の姿を見る度に自分と彼が同じ遺伝子や同じ細胞を持っている兄妹なのだと痛感する。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは紛れもなく血の繋がった自分の兄なのだ。どんなに否定したくても強く願ったとしても、それは変わらない。姓が違っても戸籍上は赤の他人であっても己の中に流れる血が名前に残酷な事実のみを突きつける。それこそ体中の血液を入れ替えたってケイネスが兄でなくなるわけがないのだ。
実兄に対して歪んだ愛情を抱くなんておぞましく穢らわしい。天に座す神への冒涜、家畜にも劣る行為だ。だが唾棄すべきこの想いこそが名前を構築する根源全てであって、今や無視出来ぬほど大きく膨れ上がった感情は名前の行動理念の中心になっていると言っても過言ではない。兄の為なら全てを棒げて命すら投げ捨てる覚悟があった。彼の為ならどんな苦労も厭わずありとあらゆる苦痛にだって耐えてみせると決意した。それがケイネスへ愛を伝えられない名前の想いの形だ。
小娘が許されざる恋に身を焦がす様はこの英霊には理解しがたいのかもしれないが、だからこそ彼に口出しする権利はないと思う。名前とディルムッドは主従契約を結んだマスターとサーヴァントではなく、かといってこの聖杯戦争を共に戦い勝ち残っていこうと手を伸ばせるほど強固な信頼関係を築けているわけでもなく、ケイネスを楔としてわずかな繋がりを持っているだけの赤の他人であり、もし聖杯戦争というきっかけがなければまず顔を合わせることがなかった希薄な関係だった。こうして会話をしていること自体が奇跡のような存在なのだ。そんな相手に心を砕く必要はなく、たとえ眉を顰められて後ろ指を指される背徳行為に触れていたとしても、無関係な彼に咎められこの想いを否定される筋合いはない。
止める間もなく激減する魔力に比例して衰弱の一途を辿る名前の体は既に限界に達しているようで、少しでも気を緩めた途端に意識を失ってしまいそうになる。苦々しい表情を浮かべて名前を見下ろすディルムッドに、名前は皮肉と嫌気が交じり合ったような禍々しい笑みを向けた。


「言いたいことはそれだけ?気が済んだのならもう終わりにしましょう。これ以上平行線を辿るだけの会話をしても非生産的で無意味でしかないと思うのだけど」
「名前様…」


部屋から立ち去れと言外に告げる名前の言葉を受けてディルムッドは眉を寄せ、その端正な相貌が悲しげに曇る。しかし名前の心には少しも響かず何も感じない。彼に対して酷薄すぎる自分の態度が彼を傷つけると知っていてもなお軟化させようとは思わないし、馴れ合うつもりは元よりないのだから嫌われたって構わない。八つ当たりでしかないとわかっていても名前はディルムッドに鬱々とした暗い感情の塊をぶつけずにはいられなかった。


「私が今どんな気持ちでいるかなんて、貴方には絶対わからない。好きな人に…兄様に好きだってたった一言も伝えられない私の苦しさなんて、誰をも魅了して想われるばかりの貴方には…」


妹ではなく女として見てほしいとどんなに強く願っても名前の想いがケイネスに届くことはなく、己と同じ冷えた青の瞳に彼が映し出しているのは愛おしい婚約者の娘ただ一人のみだ。この世で一番近い人間だからこそ彼は永遠に手に入らない。しかしそれでも彼らが幸せそうに笑っているのなら、お互いを愛おしく想っていて仲睦まじそうな間柄であったなら、とても悲しいけれど己の感情を押し殺して二人の幸多い未来を祝福するつもりでいた。――なのに、どうして歯車が狂ってしまったのだろう。ケイネスの婚約者であるはずのソラウが熱い視線を送っているのは兄ではなくこの英霊であって、信じられないことに彼女は明らかに彼に恋慕している様を見せるばかりか、サーヴァントに辛辣な態度を取るケイネスを罵倒して彼を擁護するのだ。元々ケイネスを心から慕っているわけではなかったソラウがディルムッドの魅了の魔術に屈して彼に恋心を抱いたのは一目でわかった。
ディルムッドが意図してソラウを虜にしたわけではないのは承知している。彼だって主君の婚約者を魅了するなど非常に不本意だったことだろうし、主に敵意を向けられるという苦しい立場に置かれて苦悩の狭間にいるのだろう。けれど、彼が悪いわけではないとわかっていてもソラウの心を乱した彼が許せなかった。兄を苦しめる原因の一端となった彼の存在自体が憎らしかった。
故に名前はディルムッドに対して頑なに辛辣な態度を貫く。自分がこの英霊に心を開くことはない。


「ランサー、貴方の心遣いは嬉しい。でも私のことは放っておいて」
「―――――っ、私は…!」
「兄様の警護を…お願い」


ポツリと呟いた声が闇へ溶けていく。名前は自分の声を最後に耳にしながら目を閉じた。ディルムッドがどんな思いでその言葉を聞いていたかなど少しも気に留めようとせずに。
だからその時彼が悲愴な面持ちを浮かべていたことに気付くはずも、なかった。



◇◆◇◆◇◆◇◆



痛ましい表情でソファーの傍らに佇んでいたディルムッドは、ほとんど意識を失っていくように寝入った名前の呼吸が落ち着いた頃を見計らって彼女の身体を抱え込むと、安らかな睡眠の妨げにならぬよう細心の注意を払いつつ部屋の奥にあるベッドへと運んで静かに横たえた。幸いにも名前は深く眠っているようで固く閉じられている白い目蓋が開いて覚醒する兆しはなく、規則正しく緩やかに胸が上下している。
冷えた空気が漂う室内は酷く静まり返っていて、うっかり気を抜いて雑音を立てることさえ躊躇するほど全ての音がない。まるで名前と自分がいるこの空間だけが世界と切り離されているような感覚に陥りながら、ディルムッドは懇懇と眠る名前をじっと見下ろしていた。元から白い肌は血の気が引き青褪めているせいで更に白さが際立ち生気が感じられず、今にも命の灯火が消えてしまいそうな病人を思わせるほど呼吸が弱々しい。このまま放っておけば二度と目を覚まさないのではないかという不安が胸中を掠めて名前を揺さぶり起こしたい衝動に駆られるが、こうして身を横たえて体を休めていることが彼女の魔力を回復させるには最良の方法なのだと思い出して寸での所で彼女の肩に伸ばしかけていた手を止めて、代わりに胸の奥底に積み重なっていた重く長いため息を零した。
そうして暗い闇に包まれる中、固く口を閉ざしたディルムッドは無言を貫いたまま人形じみた相貌を持つ名前を見つめ続ける。もう何十分も時が経つのも忘れて彼女を見ている。金髪碧眼の端正な顔立ちは彼女の双子の兄と酷似していて、名前とケイネスが同じ血を分けた兄妹であるという事実を紛れもなく証明する一つの要因となっていた。毛先に癖があるが指通りの良さそうな金糸の髪に、頬から顎にかけてのラインがほっそりとしている小さな顔、白磁の肌は瑞々しく張りがあり、淡く色付いた唇は一文字に引き結ばれていて彼女の意思の強さを表している。そしてディルムッドを何より魅了しているのは冷ややかな眼差しを向けるその瞳――眠っているせいで今は見えない双眸が湖畔の底のような美しい深青色をしていることをディルムッドは知っていた。
触れるわけでもなく何を呟くわけでもなく、ただ名前を見つめているだけのディルムッドの脳裏に、眠る前の彼女が苦しげに告げた言葉が蘇る。


『私が今どんな気持ちでいるかなんて、貴方には絶対わからない。好きな人に…兄様に好きだってたった一言も伝えられない私の苦しさなんて、誰をも魅了して想われるばかりの貴方には…』


ああ、俺には貴女の気持ちがわからない。わかりたくもない。血の禁忌を越えてまで実の兄に愛情を抱く貴女の気持ちなど。その代わり、貴女だって俺の気持ちなど到底わからないだろう。だって貴女は他の男になど目もくれず、己の秘めた想いを全て瞳の内に込めてただひたすらこの世で一番愛おしい兄一人だけを青い眼に写している。貴女が熱い眼差しで彼を見るのと同じように貴女を見ている男もここにいるのだということに気付いてすらいないのだろう。
そういう意味でならディルムッドは名前の最大の理解者とも言えた。好きだと伝えたくても伝えられない相手、もし伝えたとしても到底受け入れられず跳ね除けられ拒絶されるであろうという諦め、しかしそれでも恋焦がれる心を捨てられない矛盾。向ける対象さえ別の人間であるが、彼女が抱く苦しみ全てがディルムッドの知る所であり彼女との数少ない共通点でもあった。彼女も自分も、燃え盛る炎にも似たこの想いが相手に届くことはない。胸から溢れる狂おしいほどの愛が昇華する日は訪れない。きっと永遠に。

自分の世界を兄だけで構成している名前はディルムッドの苦悩など知りもせず眠り続けている。
貴女は何も知らない。知らないからこそ、あんなにも酷く俺の心を深く傷つける台詞が言えるのだ。俺が誰をも魅了して虜にする男だというのなら、どうして貴女は振り向いてくれない。俺が一番惹きつけたいと望んでいるのは貴女だというのに、未だに貴女の瞳は俺ではなく我が主しか映していないじゃないか。
サーヴァントとして現世に召喚されてからまだ間もない頃、「お願い…兄様を守って、ランサー」と手の甲を小さな両手で包み込まれそこに強く額を押し当てられながら懇願されたあの時から、俺の心は貴女のものだった。俺の心は貴女に捕らえられ隅々まで支配されてしまっているけれど、貴女の心は我が主のものであって俺のものではないのだろう。
一方通行な想い、愛しい相手が決して手に入らない悲しさ。他の誰でもなく許されぬ恋に思い悩む貴女こそが一番それをわかっているのに――どうして同じ想いに苦しむ俺を否定出来るのだ。

ベッドの傍らに跪いたディルムッドは力なく置かれた名前の手を取り、恭しく唇を寄せた。白い肌に微かに触れるだけの口付けは永久に変わらぬ忠誠の証。本来なら主君にのみ捧げるはずのそれは彼女が眠っている今だからこそ出来るものであって、彼女自身には決して悟られてはならなかった。何故ならばディルムッドが仕えるマスターは彼女ではなく彼女の兄であり、名前は彼への裏切りを絶対に許さない。
もし己のマスターがこの娘であれば聖杯に懸ける望みもまた違ったのだろうなとディルムッドは思う。ケイネスを主と仰ぐことに異論はないし聖杯戦争を勝ち抜いて彼に聖杯を捧げる心に変わりはないが、もし彼ではなく名前が自分を召喚したマスターであったとしたら過去と同じ間違いを繰り返してしまうかもしれない。互いの身分も立場も信念も、自分と彼女以外のものを全て捨て去って一途な恋に溺れてしまえたらどんなに幸せなことであろう。――それをするには自分の身に何重にも絡みつく業があまりに深く、そしてそれ以上に彼女との心の距離は遠く離れているから、『もしも』の話は所詮『もしも』という仮定でしかなく決して叶わない願いだろうが。
泡沫のように儚く消える愚かな願望だと知りながら、それでも思い描くだけなら自由だろうとディルムッドは苦笑した。

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