青年と王女
 暗く冷たい石室の奥底で、その呻き声は断続的に響いていた。
 低くありながらも、どこか少女の様なまろやかさを帯びた声である。しかしその声音からは明らかに悲哀と苦しみの様子が滲み出ていた。やがて呻き声は掠れ、荒い息へと変わる。鎖がジャラリと重たい音を奏で、固い岩の床に衣服が擦れた。
 地下牢の最奥で転がっていたのは、一人の青年だった。歳は17、名を不二周助という。
 甘そうな栗色の髪に神秘的な海の底を映したような瞳。バター色の滑らかな肌に整った目鼻立ち。元は大層な美少年だったであろうことが見て取れるが、生憎今は頬がこけ目の下に隈ができ、ひどくやつれていて見る影もない。纏っているワインレッドのポロシャツとブラックジーンズも含め、彼の全身はずぶ濡れだった。そして異臭を身に纏っている。
 石室に不二の空腹を告げる腹の音が響く。力なく床にうつ伏せで倒れる彼の首と手足は、重い鉄枷に繋がれていた。自分の息遣い以外に音がない暗闇の中で、彼は自分がこうなるに至った原因を今一度思い起こす。




 不二周助は都内の有名な進学校のテニス部で、キャプテンを務めていた。その部の成績は中の上。全国大会までは問題なく進めるが、初戦をなかなか突破できないといった実力である。彼自身の実力も部と同じく、全国区ではあるのだが今一つ決定打に欠けるといったところだった。
 そんな彼の、最後の夏が先日終わった。高校最後のインターハイ。彼が属する学校は団体戦では二回戦敗退。彼自身の個人戦では準々決勝敗退のベスト8という結果で幕を閉じた。今までで一番良かった成績に表向きは納得してみせたように振る舞っていたが、不二は負けず嫌いな性分であった。密かに優勝を狙っていた分、そのショックは大きかったのだ。
 大会が終わってしまった。その事実は高校三年生の不二に重く圧し掛かった。彼はプロ転向を視野に入れていない。親からは四大に入り、一般企業へ就職するという平凡な未来を切望されている。彼自身その道を歩むつもりではあったが、テニスに対しての不完全燃焼という現実が、彼の視界を曇らせていたのだ。
 遅れてやってきた戸惑いの時期とでも言えばいいのだろうか。夏休みも残り1週間という頃、彼は生まれて初めて一人旅に出かけた。両親には置手紙を残してきただけ。今までコツコツと貯めていたお年玉と小遣いを合わせた全財産を持ち、彼は家を飛び出した。
 訪れた先々で彼は様々な事を考えた。進学のこと、テニスのこと、将来のこと。自分が本当にやりたいことを考えたのだが、現実逃避の先で答えが見つかるはずもない。流れゆく車窓を眺めながら、程なくして帰宅を決めた。家を飛び出して3日目の夜のことだった。
 しかし、彼の身に摩訶不思議な事象が襲いかかったのはこの直後である。
 その夜の宿泊先であるネットカフェの中に入り込み、狭い個室のソファーに横たわり胎児の様な体勢で眠りについた彼。気が付けば彼は見事な宮殿の前で立ち尽くしていた。
 宮殿。といってもヨーロッパ建築の鋭利な城ではない。独特の丸みを帯びた屋根に金箔が塗された塔。庭園には観葉植物が植えられ、壁には見事なモザイクタイルによる幾何学模様が施されている。
 無数の松明によって照らされた城はまさしくアラビアンナイトの世界だった。


 見事な夢だと、不二は自分の想像力に感心した。寝る前にネットで覗いていたお気に入りのフォトブログに、中東の写真が貼られていたせいかもしれない。彼は早速、その素晴らしい宮殿内を歩いてみることにした。辺りは暗い夜だった。月の光と松明によって照らされた宮殿は、独特の怪しい雰囲気を醸し出している。昼間の眩い太陽の下でなら、また違う趣を見せていただろう。しかしこのミステリアスな雰囲気は、不二の気分をひどく高揚させた。
 中東の治安がもう少し良ければ旅行ができるのに。いいや、いっそトルコあたりに今度旅行に行ってみようか。友達も誘えば何人かは付いてくるだろう。そんなことを考えながら、松明に照らされた廊下へと進んでいく不二。廊下にもやはり色鮮やかなモザイクタイルが埋め込まれていて、松明の明かりを反射してキラキラと光っていた。
 しばらく歩くと部屋への入り口の様なものが見えてきた。扉はなく、薄い布で仕切られているだけだ。布越しに明かりが漏れている。中からは人の話し声が聞こえた。声音の低さからして男のようである。不二は壁に張り付き、中の様子を伺った。
「ああ、そういえば知ってるか? 王女がまた、情夫を1人始末したらしい」
「おいおいまたかよ。今月入って何人目だ?」
「3人目、か? 最近多いよな。侍女の話だと、どうやら相当気が立っているとか」
「今度の原因はなんだって?」
「なんてことない。髭の剃り忘れだってよ」
「うわ、ひどいなそれ」
「相変わらず『美しくないものに生きる価値はない』ってか?」
「国中の美男を集めてもその体たらくだからな。俺ら衛兵なんて虫けら以下にしか思われてないんだろうよ」
 会話の内容よりも、まずは彼らの言葉に驚いた。中にいる人々は確かに、日本語で会話をしていたのだ。現にその下劣極まりない会話の一部始終を不二は理解できた。しかしそれもすぐに納得する。これは不二周助の夢なのだ。不二周助が理解できない言語が登場するはずもない。
 それにしても、と不二は自分の顎に手を添える。不二は一応第二次性徴を迎えているが、まだ髭が生える気配はなかった。それどころか声変わりもまともに終えていない。髭だけでなくどうやら全身の体毛が生えにくい体質らしく、手足や脇や陰部も友人たちよりだいぶ薄い毛が少し生えているだけだった。高校に上がるとそのことをからかってくる友人もいたので、不二自身コンプレックスに思っている部分でもある。
 もしかして今の会話は、男の象徴である『髭』を羨ましく思う深層心理の現れ? と不二は自問自答する。その時だった。
「ん? なんだお前は」
「えっ?」
 顔を上げたそこには、松明を持って顔を白い布で覆った屈強な男が立っていた。どうやら見回りから帰ってきた衛兵で、自分が今まで立っていたのは詰所の横だったらしいと気付く。レム睡眠中に見る夢は大抵こういった、例えるなら演劇での場面転換のようなところで区切られる。もう少しこのアラビアンナイトの世界を堪能していたかったと少し残念に思った不二だったが、次の瞬間男に二の腕を掴まれたことで思考は切断された。
 ギリギリと自分を追い込む痛み。妙なリアリティーがあった。
「お前、女か?」
 白い布とターバンの様な帽子の間から覗く目が、いやらしい光を映した。不二は街中を歩いていて女と間違えられたことが何度もある。防衛本能が夢であることを忘れ、咄嗟に反応した。
「っ、男です!」
「……んだよ。で、ここで何をしているんだ」
 切れ長の瞳を見開き、左の二の腕を掴む衛兵の手を、テニスで鍛えた右手で握り返す不二。案の定放してもらうことはできなかったが、どうやら男であることは証明できたらしい。その時だ。
「どうしたんだ?」
「何かあったのか?」
 薄い布を捲って、部屋から屈強な男たちがぞろぞろと出てくる。不二を掴んでいた男は彼の細い腕を捻りあげて、仲間たちに見せた。
「ここで捕まえた。珍しい肌の色だと思わねぇか?」
「なんだ、隣国のスパイか?」
「サラビスの民ならもっと色が黒いはずだろ」
「北の民でもなさそうだな。あいつらは太陽に当たってないから肌が真っ白らしいし」
「でも目や髪の色はそっち系じゃないか?青い目なんてここいら近辺じゃまず見ないぞ」
 不二を取り囲んで突如始まる観察。浅黒い肌の屈強な男たちにジロジロと全身を眺められ、不二はこの上ない不快感を覚えた。早く夢が覚めたらいい。そんなことを考えるまでになったころ、一人の男が口火を切った。
「奴隷市場に持っていったら、高く売れるんじゃないか?」
「!!」
 日本国内ではまず聞かない、物騒な単語が不二の不安を煽った。早く目が覚めればいい。そして冷めたらすぐに家に帰って、姉の部屋から夢占いの本を拝借しよう。そんなことを考えていなければ、今の不二はこの言い知れぬ不安感を紛らわすことができなかったのだ。
「女みたいな外見だし、貴族様の愛玩人形にはおあつらえ向きなんじゃねぇ?」
「でも大丈夫か? スパイかもしれないぞ?」
「言わなきゃバレねぇよ。それよりもこの上玉だ。売り飛ばせば2000万は下らねぇよ」
「5人で山分けしても400万……これはおいしいな」
 徐々に力が込められていく掴まれた左の二の腕が、ひりひりと痺れを帯びてくる。生まれつき鋭い第六感が、かつてないくらいの警鐘を不二の中で響かせていた。
 夢とはいえ、どこで覚めるか分からない状況下でなるべく嫌な経験はしたくない。そう思った彼は、一瞬の隙を盗んで自分の腕を掴んでいる男の脛を蹴りあげた。悶絶する男。振り返ることなく不二は廊下を駆け抜けた。
 背後から追ってくる怒声。男たちは全員三日月形の剣を帯刀していた。左腕の痺れが、この夢の中で痛覚が生きていることを不二に教える。捕まれば、確実に痛い思いをするであろう。彼は懸命に足を動かした。
 つい先日まで現役の高校生テニスプレイヤーであった彼にとっても、鍛え抜かれた衛兵たちを撒くのは至難の業だった。数メートル間隔でおかれた松明の明かりのみを頼りに、入り組んだ薄暗い廊下を右往左往する。そのうちに自分を追ってくる足音が確実に数を増し、ついには20名あまりの男から逃げ惑うはめになってしまった。行き止まりに行き着いてしまったら確実に逃げ切れない。早く夢から覚めることだけを願いながら、モザイクタイル貼りの廊下を駆け抜けた。
 薄暗い廊下を抜けた先にあったのは、高い天井にフカフカした赤い絨毯。サテン生地のカラフルな薄い布がそこかしこに引っかけられてゆるく垂れ下がっている、非常に豪奢な部屋だった。自分が追われているということも忘れ、その部屋を見渡す不二。金でできた装飾品が、月明かりとランプの明かりの反射によって部屋を照らしている。この建物には基本的に仕切りがないらしく、薄紅色の布によって仕切られた先には大きなベランダがあった。そこからは街が一望できるだろう。床の赤い絨毯の上に置かれた銀色の御盆の上には、陶磁器のティーセットが並んでいる。
 間違いなくここは身分が相当高い者の部屋だろう。そう考えた不二の視界に飛び込んできたのは、紫色の布で仕切られた部屋の奥から出てきた、一人の少女だった。


 小麦色の肌に真っ黒な髪、褐色の大きなつり目が印象的な少女だった。小柄であるわりに胸部が豊かな膨らみを帯びている。髪は頭の一番高いあたりで一括りにしていて、その髪留めがまた色とりどりの宝石が埋め込まれている高価そうな金細工であった。小さな耳には金のイヤリング。細い首には何重にも重たそうな装飾品がぶら下がっていた。上半身は水着の様な露出度の高い服の上にサテン生地を纏い、下半身はゆったりとしたズボンで足全体を隠している。紫色のその衣装が、彼女のミステリアスな容姿によく映えていた。
「お前、何者だ?」
 まるで男の様な口のきき方で、少女は不二に話しかけた。そよ風が囁くような心地よい声音とのギャップに、不二はちょっとした好奇心を覚える。本物の王女様なんて、夢といってもなかなか会えるものではない。彼は彼女こそが、先ほど兵士たちが話していた性に奔放な王女であると確信していた。
「こんばんは」
 上手くいけば、あの兵士たちからも匿ってもらえるかもしれない。たまに意図的に使っている女子を瞬殺する微笑を浮かべ、彼は王女に挨拶をした。王女は目を見開く。すると、ポニーテールと纏っているサテン生地の衣服を揺らしながら、彼女は大股で不二へと近づいた。
 王女の琥珀色の目が、不二の足元から頭のてっぺんまでを舐めまわすように見つめる。先ほどの兵士たちの品評会に比べ、悪い気はしなかった。そして、彼女の小さい手が不二の頬に添えられた。
「お前……美しいな」
 勝った。不二は素直にそう思った。兵士たちの話を聞いていた時は、どんな阿婆擦れ王女かと思っていたが、会ってみると自身より少し年下の初心そうな少女である。ただ容姿が整った男子が好きなだけのお年頃だろう。情夫といってもおそらくは観賞用、もしくは自分をちやほやしてくれる男が欲しいだけなのだ。
 そう高を括った不二は、呆然と自身を眺める小さな王女にやさしく微笑み礼を述べた。途端、王女は半開きになっていた口ににんまりと弧を描く。大きな瞳が、獲物に狙いを定める女豹のように細くなった。そして、
「お前、服を脱げ」
 可憐な声はいきなり難題を提示した。
「……は?」
「喜べ、私の情夫にしてやると言っているのだ。さあ、服を脱いで私を誘ってみせろ」
「っ、えっと。言っている意味分かる? お嬢さん」
 年の頃はおそらく15歳前後だろう。自分の弟よりも年下の少女の口から卑猥かつ高圧的な命令が飛び出したことに、不二は戸惑いを隠せなかった。しかし、さらに信じられない出来事が彼を襲う。
「っ、口のきき方を弁えろ下劣な民が」
「!!」
 王女から冷ややかな罵倒が発せられた直後、最悪のタイミングで追手が王女の部屋へと踏み込んできた。抵抗も虚しく、三人がかりで羽交い絞めにされる不二。両手足と頭を押さえつけられ、成す術もなく床に這いつくばる羽目になった。
 そして追い打ちをかけるように、不二の頬を蹴り飛ばす小さなつま先。桜色に色づく王女の爪によって、不二の頬に朱線が刻まれてしまった。
「王女、お怪我は?」
「この者に何かされませんでしたか!?」
「まぁ待て」
 声を荒げる兵士たちを凛とした声で制した王女は、倒れ込む不二の口の前に足を差し出した。不二は赤い絨毯に片頬を押し付けたまま、懸命に真上の王女を睨みつける。王女は冷酷な瞳で不二を見下ろし、そしてこう言い放った。
「舐めろ」
「っ!?」
 これには不二も言葉を失った。
「お前は美しい。国中の美男子を見てきた私だが、お前のその珍しい瞳の色が特に気に入った。今なら先ほどの無礼を許し、特別待遇の情夫としてお前を迎え入れよう。だから隷属の意を示せ」
 不二は息を呑む。その高慢な態度と非常識な言動に面食らったというのもあるが、それ以上に彼女は美しかったのだ。
 薄く色づいた唇が緩やかな弧を描いている。眼は獲物を狙う猫のように細められ、そして小麦色の足の甲が、そっと不二の顎を撫でる。
「断ると、言ったら?」
 しかし不二にも男として、人間としてのプライドがあった。全身を押さえつけられながらも果敢に王女を睨みつける彼に、更なる負荷が掛かる。
「無礼者!! この方を誰だと心得る。中央大陸を統べるアバンダルの王、サイイド様の第一王女、アイシャ様であらせられるぞ!!」
「ぐっ!!」
 不二の左腕に激痛が襲いかかる。だがその時、突如としてその豪華絢爛な室内に高笑いが響き渡った。
 声の主、アイシャと言われた王女は心底可笑しそうに腹の底から笑っていた。眉を顰める不二に対して、片膝を付きその頬に触れる彼女。その幼い顔には、妖艶な笑みを浮かべていた。
「ますます気に入った。よかろう、時間をかけて屈服させてやる」
「誰が、っ……」
「おいお前たち。この者を牢へ。食べ物も水も与えるな。だが死にかけた時は水だけ与えろ。この生意気な心を根元から折ってやれ。何をしてもいいが、美しい顔と体には一切傷をつけるな。もちろん……見目が女のようだからと言って、つまみ食いも許さん。この男を暴くのは私だ」
 柔らかな手が頬をなぞった後、不二の前髪を掴む。高らかにそう衛兵たちへ命令をする王女に、不二はひどい眩暈を覚えた。これは悪夢だ。早く起きて、家へ帰るんだ。一刻も早く。
 だが不二の願いも虚しく、彼はこの日から数日に渡り暗い石室の奥で閉じ込められることになる。


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