いつか大きな声で歌おう
「おかえりなさい!」
 今日も今日とて大変なお仕事をこなしてきた仁王くんをできる限りの笑顔で出迎えると、彼は力が抜けたようにフッと微笑んで私の頭を撫でた。
「ただいま」
「今日のご飯は高野豆腐と鶏肉の煮物だよ! もうすぐできるけど、先にお風呂入る?」
「ほー、久々の肉か」
「スーパーで特売してたのをさらに閉店間際に激安で仕留めてきましたイェイ!」
 仁王くんへピースマークを向けて得意げにしてみせれば、彼は目を細めて笑って「ご褒美の良い子良い子じゃ」って茶化すように言いながら私の頭を掻き撫でた。
 こういう時、私は仁王くんと一緒にいるのにとてつもなく切なくなってしまう。
 東京の下町にあるこの築30年の安アパートに二人で住み始めて、もうすぐ2年が経つ。18までは独りで暮らしてたから、そのころに比べたらずっとずっと寂しくなくて幸せなはずなのに。幸せでなければいけないのに。
「宇田川、俺先に風呂入るぜよ」
「え?あ、うん! どうぞどうぞ! ゆっくりしてきてね!」
 明らかに不自然な動揺を隠せない私を、それでも追求せずに仁王くんは脱衣所へ消えていった。思わず身に着けていたエプロンを握りしめる。ピンクの生地の手作り感満載なこれは、お嬢育ちな私が初めて自分で作った衣類だ。基本的に自分で作れるものは何でも作った。

 15の春。立海から転校した先の公立中学に一度も通うことなく、私は義務教育課程を修了した。それから先はとにかくバイトバイトバイトの日々。右も左もわからない肉体労働は正直死ぬほどきつかった。何度も何度も人に怒鳴られて、人間関係に泣いたことも一度や二度じゃなかった。それでも耐えてこられた理由は単純明白。一刻も早く家を出たかったから。
 元々子育てに無頓着だった父は、私の凶行を『お前の教育が悪かったせいだ』と言ってただ母を責め立てた。母は母で極力私に近づかないよう奇妙な距離を置いていた。それもそうだろう。自分だっていつ鉄パイプで殴られるか分からない。それは人として当然の行動だったのだろうけれど、当時の私はとにかくそんな家から出たかった。母を責める無責任な父も私に怯える母も、もう見たくなかったのだ。
 お金がある程度貯まったのは15歳の秋。私を厄介者扱いしていた父はいとも簡単に、アパートを借りる際の保証人になってくれた。そんな彼とはもうその時から4年半もの間会っていない。何の感慨も湧いてこないのは、やはり私が真性の薄情者だからだろうか。母も最初の頃はアパートに時折顔を出していたが、段々足が遠のいていった。
 そんな頃だったと思う。仁王くんが私を薄暗いアパートの隅から見つけ出してくれたのは。

 探した。第一声がそれだった。それもそうだろう。私たち一家はあの事件の後人目を逃れるように別の街へ引っ越している。足取りがバレないように父がいろいろと小細工をしていたようだから、探し出すのに相当骨が折れたはずだ。
 聞きたいことがたくさんあった。
『……俺、宇田川さんとそんな話したっけ?』
『ねぇ、翼知ってる? 仁王ってすーっごく上手に変装できるんだよ! この前の幸村なんかそっくりだった!』
 私を騙してたの? そうなの? 違うって言って。あれは幸村くんだったって言ってよ。ねぇ、どうしてあんな酷いことしたの? 今更なんの用? 笑いに来たの? あの頃も必死に笑いをこらえてたんでしょう? 放っておいてよ、詐欺師。悪魔。最低よ。出てって!!
 このようなことを、支離滅裂に永遠に繰り返していた。泣きじゃくりながら彼の肩を叩く私を、彼はただ無言で抱きしめてくれていた。
 あの日と同じ、甘い香水の香りがした。
 それが2003年の暮れの出来事。

 彼はそれからも出来るだけ暇を見つけては、足しげく私のアパートに通ってくれた。冷たい態度をとる私に愛想を尽かすこともなく、献身的にそばにいてくれた。彼は私が寂しくて寂しくて仕方がないことに気付いていたんだと思う。
 そして彼は私に、親友と向き合うチャンスをくれた。幸村くんと話す機会もくれた。彼は間違いなく、あの時私を救ってくれた人なんだと。そう実感するのにそれほど長い年月は掛からなかった。彼が幸村くんに化け続けていたのは、私を傷つけるためでも興味本位でもない。私のためだったんだって分かったから。だから。
 幸せにしたいと思った。私を笑顔にと願い行動してくれた彼のために、今度は私が頑張りたいと思ったんだ。

「仁王くん、冷たいよ。髪の毛ちゃんと拭いて?」
「宇田川はやっぱり俺の腕にジャストフィットぜよ。俺に合わせて作られてるみたいじゃ」
 狭い流し台で洗い物をしていたら、音もなく近づいてきた彼に背後から抱き付かれた。首筋に伝った水滴で、彼の綺麗な銀髪がまだ濡れていることを悟る。
 灰色のスウェットを纏った腕が、きつく私のお腹周りをホールドしていた。
「あの、ね。仁王くん」
「なんじゃ?」
「私今日、雑誌の記者さんに会ってきたんだ」

 私の首筋に顔を埋めてじゃれていた彼の動きが、凍りつくようにして止まった。
 私は洗い物をしていたアカギレだらけの汚い手を止めて、蛇口を捻って水も止めた。

「仁王くん、私のこと心配してくれたんだよね? だから記者さんに嘘ついて、これ以上私に深入りしないようにって」
「っ、宇田川」
「ダメだよ! そんな、私なんかのために……仁王くんがわざわざ、悪役に、なるなんて」
 私はそっと、彼の手の甲に濡れた自分の手を重ねる。
「仁王くんって自分が悪役になるのに全然抵抗ないけどさ! ……そういうの、ダメだよ」

 彼はどうも自分が悪役になってことを丸く収めようとするところがある。それでも私にとっては誰よりも優しいヒーローだった。あの日終わろうとしていた命を、この左手が救い上げてくれた。抱きしめて、甘い匂いと温かな体温で私を宥めてくれた。
「宇田川は優しいのう」
 誰が何と言おうと仁王くんは私にとって世界で一番優しい人なんだ。すべてに失望しかけていた、それでも死にたくないと願ったワガママ女を。優しい嘘で騙し続けてくれていた。

 だからこそ、彼のその同情と罪悪感が悲しくてしょうがない。

「仁王くん。好きです」
「……宇田川」
「好き。だいすき」

 声が震える。彼にこの言葉を継げるときはいつも、緊張感と恐怖は尋常じゃないほどに膨れ上がる。抱きしめあっている時も、キスとキスの合間も。セックスをしている最中でさえ、私は彼のことだけで頭をいっぱいにはできない。
 足しげく私が住んでいたアパートに通ってくれた彼を最初に挑発したのは私だった。キスをして、腕や足を絡めて、カーペットの上に押し倒した。彼は高校二年生に進級したばかりで、私はレストランでキッチンのバイトをしていた春のことだった。それからも仁王くんを繋ぎ止めておくためならなんだってした。男は胃袋で掴めとバイト先のパートのおばちゃんが言うものだから、死ぬ気で料理を研究した。夜の方も必死でいろんなことを覚えた。彼が好きだというものを全て覚えて、それについて勉強した。
 すべては仁王くんの傍にいるため。私の隣にいる仁王くんを幸せにしたかった。
 それがどれだけ浅ましい願いか。

 見捨てないで。私を一人にしないで。
 私が言う「好き」は純粋な愛の言葉なんかじゃない。ぜんぶぜんぶ、仁王くんへの懇願なんだ。

「ごめんね、ごめん、仁王くん」
「宇田川はやっぱり泣き虫やのう。それに、ごめんを言うタイミングもわからん」
「ごめんね。私」
 仁王くんはますますその腕に力を込めて、私の耳たぶに小さくキスをして笑った。彼は今とても優しい顔をしているのだろう。学生時代、コート上の詐欺師と恐れられその役を強要された頃には見せることも許されなかった、彼の慈愛が滲み出た微笑み。
「仁王くん、すき」
「俺も、宇田川のことが大好きじゃ」
 私は仁王くんのことを心の底から愛してるわけではない。彼もそのことは理解してくれていた。

 彼はかつて私の親友に『自分の罪』を全てカミングアウトしようとしていた時期がある。私はそれを必死で止めた。これ以上彼女に余計な情報を与えないでほしい、彼女に変な同情をされるのは嫌だからって。そんな建前を理由に彼の口から本当のことが語られるのを止め続けた。けれど相手は仁王くん、そんな言い訳がいつまでも通用するはずもなく。
 仁王くんを独り占めしたいから。仁王くんにはずっと、私のことだけ悩んでいてほしいから。だから、仁王くんが私を騙していたことは誰にも言わないでほしい。
 そんな本音を白状させられた瞬間から、私たちのこの歪な関係は始まった。仁王くんはそんな私の身勝手な独占欲を受け入れてくれたのだ。明らかに度を越えた被害者意識だったのに、彼は甘んじて私の傍にいることを受け入れてくれた。
 私を騙したという罪を償うために。

「言ったじゃろ、宇田川。俺たちは寂しがり屋で、ちょっと頭がおかしいもん同士ぜよ」
「うん」
「だから周りに迷惑かけないためにも、一緒にいるのが一番じゃ」

 私が彼から離れられないのは、独占欲と孤独への恐怖から。
 彼が私から離れられないのは、同情と過去への罪悪感から。
 粉々に砕けた絶望的な関係から生まれた感情は、歪だったが確かに私たちにとって唯一無二の愛だった。


「あんな、宇田川。今日はこんな湿っぽい話したかったんじゃないナリ」
「えっ?」
「じつはのう?」
 彼は私が醸し出していた暗いオーラを吹き飛ばすがごとく、悪戯っぽい明るい声で話題を別のものへ変えた。私は彼によって振り向かされる。学生時代はミステリアスだと思っていた金色の瞳は爛々と光り、普段は立たせている綺麗な銀色の髪は濡れて大人しくなっている。一緒に住み始めてからは理髪代節約のためにお互いの髪を切り合いっこしていたが、彼のこの髪を触れられるのが名実ともに私だけとなったことにも喜びを感じていた。独占欲って恐ろしいけれど、こんな些細なことに喜びを感じられるのは良いことである気がする。
 私がそんなことを取り留めもなく考えていたら、仁王くんは私の髪を撫でて心底嬉しそうにこう言った。
「アシスタントになれたぜよ」
「……え?」
 得意げにニヤリと笑う彼。頭の情報処理が追いついたのは3秒後のこと。
「え、えええええええっ!? う、え、ああっ!? あ、わわわっ」
「落ち着きんしゃい宇田川。ほれ、ヒーッヒーッフー」
「に、仁王くんそれラマーズ法だよ! あれ? 落ち着く意味合いでは合ってるのかな? ま、いいやそんなこと!」
 おめでとおおおお!! と叫びそうになったところで仁王くんに口を大きな手で覆われる。時刻は夜9時。アパートの壁はとても薄いです。
「お、おめでとう仁王くん! 夢に近づけたね!」
「と言ってもまだまだペーペーぜよ。けど見ときんしゃい、今に先輩たちの技術根こそぎ盗んでやるナリ」
 小声で大騒ぎする私に彼は苦笑する。けれど確かに嬉しそうだった。
 仁王くんが映画撮影などで使われる特殊メイクの工房に勤め出したのは彼が高校を卒業してすぐだった。いや、微妙に時期が被っていたかもしれない。最初は強引に入り込んで、子供のお使いみたいな雑用を安い賃金でこなしていた。そのうちちゃんと契約社員として働かせてもらうようになって、電話の応対とか事務関係に携わる様になって。そして去年の秋口あたりから道具の片付けをさせてもらえるようになって。
 アシスタントになれたということは、その工房の親方やチーフクラスの人の補佐として作業に携われるということだ。そして、契約社員じゃなくて正規雇用もしてもらえるということ。
「やっぱり仁王くん筋が良かったんだよ! だって勤め始めの頃、少なくとも30になるまで道具触れると思うな! って言われたんでしょ?」
「あれは親方の脅し……いや、まぁ今は自惚れとくかのう」
 そうか。そうだったんだ!事前に知らせてくれていたら今日はもう少し奮発して牛肉とか、もしくは売れ残りのケーキなどを用意できたんだけど。明日は久々に仁王くんが好きな焼肉をしてあげようか。そんなことを画策しながらただひたすらおめでとうを連呼して彼に抱き付いた。これから素敵なものをいっぱい生み出していく、そして私を救ってくれた温かな手が背中に回る。
「本当は、もっと特別な場所で言いたかったんじゃがのう」
「え?」
「流れって、大事やと思わんか?」
 仁王くんはそう言って私のつむじのあたりにキスを落す。
「にお、くん?」
「好きじゃよ」

 そして、彼が私の顎を捉えて上を向かせる。金の瞳が私を射抜いていた。

「結婚しよ」


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