指先で語る世界に色などない。
真っ白の画面に自分の想いを託すように書くのは、画家も写真家も、小説家も変わらない。変わらないのに。私には圧倒的にその色が足りない。
すり切れるような毎日に嫌気がさして、今日も一文字も書けないままスクリーンを閉じた。私は自分を投影して夢見て焦がれて、現実とのギャップにこうして毎日痛む。そんな世界。
血を吐きそうなほど痛む胸をなんと形容しよう。自分の気持ちを表すことも出来ない私は、この仕事に向いてないんじゃないかって何度も想っている。
その証拠にたくさんの罵声をネット越しに聞くのだ。思っているよりも世界は私の敵ばかり、なのかもしれない。
絶望をはねのけたくて電車を乗り継いで海を目指した。耳元は白のヘッドフォン。誰の声も聞こえない。聞きたくない。たとえ、目先に何かヒントが落ちていたとしても今はこの鼓膜に響く世界に自分を浮遊させてしまいたい。何も考えたくない、と言った方が分かりやすいかもしれない。
海は好きだ。私はこの広大に包み込む蒼に心を溶かす。
なにぶん何も考えずに来てしまったのだ。私が手ぶらで考えることは、現実逃避でも、海底社会のことでもない。現実に押しつぶされそうになっている解放されない溺死寸前の自分のことだけ。
これからきっと、帰ったら担当の人に怒られる。一字も書けない私を嗤われるかもしれない。きっと私は誰からも嫌われていて、この世界にいる必要なんてない。
ねえ、誰か。私は生きてる意味がありますか?
ひざを抱えて突き刺さるナイフごと、意識はこの海の奥へ沈んで行く。ちょうどいい錘になって、私はこのまま死ねるかもしれない。
そう思ったとき、すぐ近くでカメラのシャッター音を聞いた。
「え…」
私を撮った張本人の彼は、風に髪を揺らしている。目の色が海の色のようだ。何かに似ている。そう直感で思った。
「急にすいません。アナタがあまりにも綺麗で」
「…」
こんな想いを抱いている私が綺麗なわけないのに。私は彼を見つめていた目をそらす。ナンパではないと思いたいがその確証はない。
彼は了承していないのに私の傍に来て、小さな紙を差し出した。どうやら名刺だ。私は片手でそれを受け取ってやる。”不二周助”。そう書かれている。
私は名乗らない。自分が何者であるか、言うのが嫌だった。
「はじめまして。フリーでカメラマンをやっている不二といいます」
「…はじめまして」
彼が隣に座って私と肩を並べる。そしてカメラを片手にしばらく何も言わずに私の隣で海を撮っていた。名乗ってもいない私の傍で、飽きもせずずっと。
その姿を見て私は思い出した。彼は私が幼いときに読んだ、絵本の中の王子様に似ている。人魚姫が恋い焦がれた、あの王子様に。
あの絵本。知らぬ間にどこかへ行ってしまったあの絵本。私を本の世界へ、誘ってくれたあの絵本。
思えば私はあの頃から王子様に憧れたり、自分を主人公としたお話を考えるのが好きだった。あの頃と今では、主人公が自分ではなくなったけど、私は自分で書いたお話の主人公達をまるで我が子のように思っている。でも、私は泳げなくて、彼らを非難されるのが嫌で、匿って。彼らもまた錘の一部となって泳げなくなっているらしい。
「海って」
彼が急に話しかけた。私は驚いて、彼に目線を向ける。とても楽しそうだった。
「海っていいですよね。嫌なことも忘れられる気がしませんか?」
「…そう、ですね…」
「君は海が似合うから。人魚姫みたいに」
「え…」
「儚げだったから、僕が勝手に思っただけかもしれないけど。さっきの写真にタイトルをつけるなら、そうします」
それだけ言うと、大きな黒いバッグを肩から下げて彼は立ち上がる。もう行ってしまうらしい。
最後に私にレンズを向けながら彼は行った。
「泡になって消えてしまうのは惜しいから、どうかしっかり気を持ってください」
きっと彼が最後に撮った写真は私の間の抜けた顔が映っていることだろう。私は自分が人魚だとは到底思わない。あんなに美しく儚げで、一途な女の子にはなれそうにもない。けど、人魚じゃないからこそ泡にするのは泣き言だけでいいのではないだろうか。
私は彼の名刺に一滴だけ、涙を落として目を閉じた。涙は海の匂いがした。
◇
あれから少しずつだけど、自分の書く話に希望が持てるようになった気がする。私の名前を知らない彼と、また出会うことは一生ないだろうがそれでいいとさえ思う。
あの一度きりだったからこそ、意味があった。私の名を知らぬ彼だったからこそ、私を人魚だと形容してくれた。それでいい。それで。
今度出版することになった私の新しい小説のブックカバーをどうするか検討しようということになり、担当の人をぼんやりと待った。
私はこの数分後、チャイムとともに海色の目をしたカメラマンと再び出逢う。
「はじめまして」
***
なしろ様から頂きました。素敵なカメラマン不二とプロの作家ヒロインのお話です!
このお話を読んだ時とても地の文に惹かれたのは、恐れ多くもヒロインと同じく私がお話を書く人間だからなのでしょうね。私以外にも、物書きさんには何かしら思うところがある作品だと思います。やっぱりなしろさんが書くお話は地の文がとても好みです。
なんだか私が不二くんから「がんばれ」と背中を押された気分になりました!素敵な作品を本当にありがとうございました!