夜明け前の闇
 二人の男は約束した。若者たちが笑って暮らせる、平和な場所を築こうと。
 戦いの火種を地道に潰していくだけの、気が遠くなる作業だっただろう。戦わずして得られる泰平など無いと、どれだけの侍に見下されたか。腰抜けと揶揄されたか。
 実際、父の親友に彼らの過去を聞くまで、高杉晋助も父のことをそうだと思っていた。
 体面と自分の地位を護ることしか頭にない腰抜け。腰に差した武士の誇りの使い方も忘れて、目上の者に頭を下げることでしか生き抜けない人間だと。
 抗うことを忘れた、負け犬だと思っていた。
 彼らには彼らの、命を賭した戦いがあったというのに。

「親父」
 朝焼けが屋敷の中に差し込む頃。父親の姿を探して、手足や顔に包帯を巻いた高杉が仏間に顔を出した。案の定、大忠太は妻の遺影の前で項垂れ、なにか物思いに耽っているようだった。
 高杉は重い足取りで彼の背後に近づき、二歩後ろに黙って正座した。
「……なあ、アンタたちの護りたいものは、護れたのか」
 俯き、彼らしくないか細い声で高杉はそう問いかけた。
「井上先生を殺して……アンタたちの大事なものは護り通せたのか」
 覇気は無く、そして非難や皮肉の意図も無かった。ただ、純粋に確かめたがっていた。
 市井の者を巻き込むクーデターを計画していた過激攘夷派は、後ろ盾を失い先日見事に一網打尽にされた。萩の城下町の平和は保たれた。
 ただ、その立役者が世間に知れることはない。町の者が知るのは、とある極悪藩医が処刑されたことだけだ。

 あの後、高杉達は診療所に担ぎ込まれ、傷の手当てをされながら家老の堀田と面会した。そこで高杉達は彼の口から、惨劇の真相を知ることとなった。
 事の発端はその日の夕方、平蔵を秘密裏に逃がし終えた堀田が緊急の家老会議に呼び出されたところから始まった。呼び出しに応じて参上すると、そこには自分以外の三人の家老と、そして大忠太が真っ青な顔で鎮座していた。それを見た瞬間、最悪の想像が堀田の脳裏を過った。皮肉なことにその想像は当たっていた。
 そう、家老五人の中に紛れ込んでいる攘夷派は、上平一人だけではなかった。
 家老の中で幕府恭順派の人間など、最初から堀田しか存在していなかったのだ。
 開国時、粛清された前家老たちが中心となり耕していた攘夷倒幕の土壌は、それが藩内で禁忌とされた後も脈々と上層部で受け継がれていた。彼らは幕府恭順の姿勢を見せ、平気な顔で捕縛された攘夷浪士たちの首を斬っておきながら、虎視眈々と牙を研ぎその時を待っていた。
 幕府恭順派の一枚岩など夢のまた夢、長州藩は四年前と何ら変わっていない。一部の権力者が安全な場所から高尚な事をのたまい、若者たちが体を張って死んでいく。そういう場所だった。
 家老の一人が提案する。今回は貴殿らの頑張りに免じて、大忠太と堀田は見逃してやると。ただ、こちらも上平と血気盛んな若い衆を失ったのは痛い。
 だから、井上平蔵の首を寄越せと。
 彼らが乗れば仇を討てる。乗らなければ、その時は殺人犯の逃亡を幇助したとして邪魔な政敵を追い出せる。つまりはそういうことだった。
 堀田と大忠太に、選択権は無かった。彼らが今、政から退場させられるわけにはいかなかった。
「すまなかった」
 堀田は、勝手に事情を話していた平蔵のことも、勝手に父親に付いていこうとしたみやびのことも責めることは無く、ただ苦々しげに彼女へ頭を下げた。だがみやびは一言も発することなく、ただぼんやりと宙を見つめていただけだった。

「何とか言ってくれよ」
 彼らしくない、子供らしい泣き出しそうな声が仏間に響く。白檀の芳香が、やりきれない思いと共に肺に満ちていく。
「アンタは逃げた訳じゃないと、そう言ってくれよ頼むから!」
 年相応の駄々をこねるように、高杉は甲高い声でそう父を責め立てる。袴越しに太ももへ思いきり爪を立てる。何もできなかった自分を、何の力も持たない自分を責める。
「……負けてなんか無いんだよな? これから、井上先生の分も護り続けるんだよな!?」
「黙れ」
 高杉の声帯が凍りつく。眼を見開き、唇が震え、そして彼はだんだん俯いていった。
 この部屋には二人しかいない。つまり、彼に黙れと言ったのは一人しかいない。どうして、どうして、どうして。高杉の頭の中でその言葉ばかりがぐるぐると回る。
「……お前の声など、今は聞きたくない。出ていけ」
 小さな肩がびくりと跳ねた。震える唇を少年は噛む。やがて血が一筋流れた。
 それでも彼は出ていかなかった。今向き合わなければ一生後悔する。そう思ったのだ。
「お、俺……井上先生から、聞いて……二人が、何と戦ってたのか、知って……」
 体と声が震えて、息も上手くできていなかった。たどたどしい言葉が、ちゃんと伝わっているのか彼には自身が無かったが、それでも伝えるしかなかった。
「二人の、欲しかったもの、知って……嬉しかったんだっ」
 溺れているかのような息遣いの少年は、それでも泣くまいと足に爪を立て続けている。
「なあ親父、俺っ!!」
「俺がアイツを殺して、何を護ったのか教えてやろうか」
 そしてようやく顔を上げた息子に、父親はとうとう気付くことは無かった。
 彼は仏壇に飾られた妻の遺影を眺め、抑揚のない淡々とした声で語り始めてしまった。
「俺は、保身のためにアイツの首を刎ねたんだ」
 どくん、と。その一瞬、晋助の鼓動がやけに大きく聞こえた。
「護り通せたもの? ……そんなもの、このふざけた立場と命以外にあると思うか」
 晋助の、父親によく似た深緑の目が光を失っていく。
「よく憶えておけ。……これが、戦いに負け、生き恥を晒す武士の姿だ」
 むせ返るような白檀の匂いに眩暈を覚える。
「敗北した武士は、勝者に二択を迫られる。その命尽きる瞬間まで抗い続けるか、刀を捨て護る者のために頭を垂れるかだ。前者を選んだ者は首が飛び、後者を選んだ者は腹を詰めることが許される。……どちらも誉れ高い武士の最期だ」
 また、その小さな肩がびくりと跳ねる。一面に散らばる赤が見える気がした。
「武士の恥とは……その二択を選ぶことができず、仲間を見捨て敵前逃亡し、醜く生きながらえること」
 やめてくれ、親父。そう言いたかった。けれど声はもう出なかった。
「こうなりたくないなら、大勢と異なる思想など持たぬことだな」
 温度の無かった声に熱が混じり始める。悲痛な色を帯びてくる。
「聡くなれ、非情になれ。夢など語るな、理想などには拘るな。大事な荷物を抱えた分だけ人は弱くなる。剣先が鈍る。選ぶことができなくなり、結果何も護り通せなくなる」
 大きな肩が下がっていくのを、息子は黙って見ることしかできなかった。
「……お前は、同輩や先達たちと足並みを揃えて生きろ。……それで良いんだ」


 初めて、竹刀を握った日のことを思いだしていた。
 思い起こせば、目の前にいる男は自分に、剣を教えてくれたことなどほとんど無かった。
 自分が、見様見真似で勝手に覚えたことだった。
 強くなりたかったから。
『おれ、大きくなったら……父上みたいなつよい侍になりたい!』
 あの頃、彼が心の底から望んだことは、確かにそれだった。


「嫌だね」
 ようやく出た声は、思った以上に鋭く、冷たかった。
 高杉晋助は、爪痕残るその脚でしっかりと立ち上がる。
「そんなクソつまんねェもんに、誰がなるか」
 その足取りは力強かったが、やけにわざとらしく荒々しい。まるで、何か迷いを断ち切る様に。
 背を向けて歩き出す息子に、父は声をかけることも、振り向くことも無かった。
 小さな手が勢いよく襖を開ける。
「……俺ァ、アンタみたいにはぜってーならねェ」
 彼は駆けだした。彼はまだ、大切なものを放り出すわけにはいかなかった。


 男が死んだ翌日、萩の城下町はいつも通りの朝を迎える。昨夜一人の男が町の外れで首を斬られたことは、やがて仕事へ向かう商人や買い物に出てきた主婦たちが噂をし始めることだろう。
 その日、川原近くの刑場に、一つの首が置かれた。
 囲む野次馬たちが男の罪を囁き合う。人の良い家老の一家を皆殺しにしたらしい、処刑当日に脱走を図って子供を人質に半日逃げ回ったらしいと。その所業に尾ひれを付けてはああ怖い怖いと、一人の人間の死をどこか娯楽の物語のように口にして。
「申し訳ない、そこを退いてもらえるか」
 無数の小さな声がひしめき合うそこで、少年の大きな声はよく響いた。
 大人たちが振り返る。そこには黒髪を高く結わえた十歳そこらの幼い少年がいた。その姿は痛々しく、目は腫れ上がり手足や顔のあちこちに包帯を巻いている。だが周りの大人たちはその少年の姿よりも、彼の持ち物に驚き口を開けた。
 それは、美しい百合の花束だった。少し不格好に白い紙で包んだそれを、少年は両手でひしと抱えて割れた人だかりの間を歩く。
 やがて刑場に張り巡らされた柵の前にやってくると、その花束をふわりと天高く投げた。
 綺麗な弧を描いて、花束は男の首の近くへと転がった。
「……何やってんだ、テメェ」
 少年に声をかけてきた人物の方を、彼は振り返らなかった。
「見て分からんのか。恩人を弔っている」
 そう言って、彼は首に向かってそっと手を合わした。少年に声をかけてきた人物、高杉は隈のできた目を細め、唇を噛みしめる。どうしてそんなことができる、どうしてそんなに簡単にあれを直視できる。
「お前、昨日の今日だぞ」
 口に出して、だからなんだと自分で言い返したくなった。井上平蔵は死んだ。高杉大忠太に首を斬られて、そして今あそこで罪人首として晒されている。その事実は変わらない、受け入れられないのは自分の勝手な都合だ。
 桂小太郎に八つ当たりするのはお門違いだと、彼もちゃんと分かっていた。
「高杉。……お前、ちゃんと泣いたか?」
 桂はしばらくして合掌を終えると、振り返ってその泣き腫らした眼を高杉に向ける。その言葉に高杉は彼を睨みつけた。
「俺に泣く資格なんかねェよ」
「泣くのに資格なんているのか」
 高杉の顔に怒りで赤みが差す。他人の内情に無遠慮に土足で踏み込み、神経を逆なでするその少年を殴り飛ばしたくなってくる。
「人間はどうやったって、悲しみや辛さを抱え続けて生きることはできない。……だから泣くんだ。泣いて、そして前を見るんだ」
「テメェそれ、同じセリフみやびに言えんのか!?」
 ちがう、これは俺の問題だ。みやびは今は関係ない。そんなことは高杉も分かっていた。言葉になど到底できない焦燥感と不快感が、高杉を乱暴な気持ちにさせていた。
 桂の目を見たら、それが数時間泣いたくらいでは到底そうはならない腫れ方だということは明らかだった。きっと一晩中泣いたのだ。あの長屋で、独りぼっちで。けれど今、彼は毅然とした態度で自身の目の前にいる。不格好な瞼でも、その奥にある眼光は少しだって陰っていなかった。
 置いていかれた。高杉はそう思ってしまった。
「言うよ。……家族が死んだ時、俺はそうしたってちゃんと伝える」
 高杉が目を見開く。桂はそんな彼を見て少しだけ微笑んだ。
「心の整理が付いたら、ちゃんと講義に来い。……特等席はとっておいてやるから」
 高杉の中の何かが切れた。桂の優しさが汲み取れないほど、彼は鈍感な男ではなかった。むしろ彼の気遣いが、ボロボロの自身に軟膏のように塗り込まれていく気すらした。
 その感覚が気持ち悪かった。
 自分で自分を癒せない、その弱さを見透かされている気がして腹が立った。
「こんな時にも勉強の話か……さすが、特待生様は違う」
 自分一人では呑み込み切れない膿が、口から刃として零れていく。
「案外井上先生のことも、言うほど悲しんでなかったりしてな」
 違う、こんなことを言いたいんじゃない。止められない言葉は、他ならぬ高杉自身を傷つけていく。
 言われた桂は特に表情を変えず、黙ってその言葉を聞いていた。やがて高杉の方へと近づいてくると、その隣を横切ってふと足を止めた。
「そうかもな」
 高杉が目を見開く。
「俺は、こういうのには慣れているから……お前と同じだけ傷ついてやることはできないんだ。……すまん」
 その時初めて、桂は辛そうな声を出した。けれどそれは井上医師の死を悼んでのものではない。遠ざかる足音に振り向くこともできないで、高杉は爪痕の残る太ももを拳で思いきり、何度も叩いた。
「くそったれがっ!」
 そんな言葉を言わせたかったんじゃない。高杉自身が、桂を悲しませたかったわけじゃない。
 腹の中でぐるぐるととぐろを巻く黒い淀みは、高杉を泣かすことも殺すこともしない。父の言葉一つ一つが、桂の眼差しが、高杉を蝕んでいった。


 朝、父と対峙してから家を飛び出した彼に、明確な目的地は無かった。ただ町中を歩いていたら刑場に群がる野次馬とそこに近づく桂を発見しただけだ。彼はその後も特に何かがしたいわけでもなく、頭に思い浮かんだ場所をふらふらと彷徨っていた。
 いつもの神社で不貞寝をしてみたり、その裏山の洞窟で涼んでみたり、川原に足を運んで無心で石を投げた。二人用の棒アイスを一人で食べ切り頭痛に襲われ、包帯を替えてもらうために町の診療所に顔を出した後、海へ赴いた。強い日差しに照らされて、そういえばもう七月なんだなと当たり前のことに何故か感慨を覚えて、それから意味も無く浅瀬の海面に後ろから倒れ込んだ。
 ずぶ濡れになった体で無意識に向かった場所は桂の家だった。長屋通りは夕飯時で辺りにはカレーやら焼き魚やらみそ汁やら、様々な料理の匂いが微かに漂ってきた。ただ桂の家に明かりは灯っておらず、高杉はその中で食事をした日を遠い過去のように感じるだけだった。
 その日、日が落ちた後。高杉が最後に向かったのは町の外れ、街道沿いの東の林だった。
 月明かりもろくに差し込まないその真っ暗な林の中で、彼は一人道から外れる。地中から飛び出す木の根や盛り上がった腐葉土に足を取られながら、彼は当てもなく林の中を歩いた。木々の枝が彼の二の腕や頬に新たな傷を残していく。それでも何かに取り憑かれたように、彼は歩みを止めない。
 行きたい場所があった。けれど、そこは行きたくない場所でもあった。
 どれくらい歩いただろうか。そろそろ疲れを感じ始め、いっそそのあたりで寝てしまおうかと考えたときだ。
 木と木の間、空がぽっかりと見えるその空間から月明かりが射し込み、僅かだが地面を照らす場所があった。
 高杉の心臓の音が嫌な音で高鳴る。その場所の中央に人影があったからだ。

 その人影は、小さな手に命を奪う鈍い光を携えて、その切っ先を自分の喉元へ向けていた。


「みやびっ!!」
 土を蹴り、樹木や藪に激突しながら彼は叫んだ。距離にして彼の歩幅で二十歩少々。発見してからその体に縋りつくまで、高杉はその時間が永遠に感じられた。
 渾身の力でその手に持った懐剣を弾き落とすと、彼はそのままみやびを抱きしめて地面へと倒れ込む。もう限界だった。それまで耐えてきた苦心も虚しく、彼の瞳からは大粒の涙が溢れ出す。少女の右手首を痕が付くほど握りしめ、彼はその小さな肩に顔を埋めて泣き叫んだ。
 死ぬな、死なないでくれ。祈る様に何度も叫ぶ。腹の中に押し込められた淀みがその昏さを増していく。
「なんで止めるの」
 少女は泣きじゃくる少年を抱きしめ返すことも無く、手足を投げ出し少しだけ欠けた月を虚ろな目で眺めていた。
「戦って、抗って……私一人がわがままばっかり言ったせいで、みんな壊れちゃったのに」
 高杉は抱きつぶす勢いで強く強く彼女を掻き抱く。慟哭する少年と対照的に、少女は目を潤ませてすらいなかった。その口元に笑みすら浮かべていた。
「私だけ、生きてるわけにはいかないじゃない……」


 その瞬間、高杉晋助は大切なものを全て失った。
 彼が始めた戦いだった。彼が煽り続けた結果がそれだった。
 自分自身に力も何もない癖に。
 残ったのは、その喉元から下腹までを蠢く、激しい後悔の念だけだった。



「華やかで賑やかな本通り、規律正しい武家屋敷の街並み。それらを見下ろす指月山の萩城の荘厳さ。静まり返った夜半にはどこかからさざ波の音が聞こえ、月は綺麗で酒も美味い」
 歌うように芝居がかった台詞を口走るその男を、刀を携えた少年が半開きの目で見上げる。男は安宿の窓辺で月明かりに照らされながら、猪口を片手にそっと振り返った。
「銀時。私、この町が気に入りました」

 夜明け前が一番暗い。
 高杉晋助の瞳に、眩い朝焼けが映るのはもう少しだけ先のこと。


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