気付いた時には町へ向かう道も町から出る道も、提灯の明かりで塞がれていた。その数は優に百は超えていただろう。
 親子の表情が絶望で染まる。高杉と桂は考えるよりも先に動いた。
「走れ!!」
 その明かりを持つ者たちが誰かなどと、確かめる余裕も無かった。彼らが平蔵とみやびの手を引いて林の中へ飛び込むと、後ろから怒声が飛んでくる。
 逃げたぞ、追え、追えと。
「どうして……っ」
「考えるのは後だっ!! とにかく走れっ!!」
 満月の夜とはいえ、空を木々で覆い隠された林の中は暗い。幾度となく飛び出した根や藪に足を取られつつも、四人はひたすら駆けた。
 背後から無数の足音が迫ってくる。高らかな笛が鳴り響く音、男たちの声、声。前方にもちらほらと明かりが見える。気が動転しすぎて走るのがやっとの親子に代わり、高杉と桂は否が応でも五感が研ぎ澄まされていった。光が無い方、足音が聞こえない方、人の気配が、殺気が感じられない方を目指してただ駆けた。
 二人とて、この状況はあまりにも理解不明で、そしてただただ恐ろしかった。どうして、何故、と頭の中で湧き上がる雑念を必死に振り払い、長い時間走り続けていた。
 林は続く。先頭を桂が走り、その後ろに井上親子が続いていた。高杉は足の遅いみやびの後ろに付いて彼女がはぐれない様そのそばを離れなかった。道など無く、当然草木にぶつかってあちこちに傷ができた。みやびの二の腕に、高杉の頬に、細かな傷が刻み込まれていく。土を蹴る音の間隔が段々と長くなっていく。土の匂いがする空気が肺に入っていくような感じがしない。痛い、苦しい、誰か助けて、誰か、誰か。そんな弱音を懸命に振り払って、高杉は無意識のうちにみやびの手を掴んで引いていた。
 息が上がる。どこまで走り続ければいい? 追手はまだ撒けない。それどころか気配が増えている気すらする。声が追いかけてくる。笛が鳴っている。誰かが叫んでいる。逃がすな、逃がすなと。
 そして、その必死の逃亡は突然終わりを告げる。
「はぁ……はぁっ……っ、は……ぁっ!!」
 最初に限界が来たのは、やはりみやびだった。何かに足を取られ派手に転倒する。手を繋いでいた高杉も足を止めざるを得なかった。
「みやび!!」
 先行していた平蔵が振り返る。だが光はすぐそこまで迫っていた。
「先に行け!! 早く!!」
 大群の狙いは平蔵だ。そう当たりを付けた高杉が叫ぶ。だが平蔵の足は動かない。桂が懸命に手を引いているが、その視線はみやびに釘付けで前を見ようとしない。
「父上ぇぇっ!!」
 そして次の瞬間、倒れ込んだみやびが叫んだのと同時に、彼女は大きな大人の腕に後ろから羽交い絞めにされる。
 それは長州藩奉行所の役人たちだった。たすき姿に杖を携えた彼らは続いて高杉を二人係りで羽交い絞めにする。高杉が懸命に抵抗する傍らで何人もの役人たちが杖を構えて駆け抜けていった。
「逃げろォォォォ!!!!」
 自らを捕えようとする腕と腕の間から、彼は叫んだ。平蔵が我に返り走り出す頃には、すでに役人たちの杖が彼に届く範囲だった。数人が桂を抱えて平蔵から離れる。そして役人はこう叫んだ。
「人質確保ォ!!」
 桂がもがきながら声を荒げていた。何を言っているんだ、人質とは何のことだ、違う、俺たちはそんなのじゃないと。その目には涙が浮かんでいる。けして大きくは無いその手を懸命に恩人へ伸ばしている。
「どういうことだ……どういうことなんだ、これは!?」
 杖で幾度か叩かれ、地面へと押し倒され拘束された平蔵は、頭から血を流しながらただただ眼を見開いて困惑していた。
 すると提灯を持った何人かがうつ伏せで倒れる平蔵の近くに寄る。役人は平蔵の頭を掴んで強引に顔を見た。
「間違いありません、井上平蔵です」
 平蔵もつられて役人の方を見上げる。すると彼の顔に一瞬緊張が走り、そして次の瞬間。
「ふふっ……あははっ……」
 何故か、笑い出した。
 聞き間違いかと高杉は目を凝らす。だが彼は確かに口元に笑みを浮かべ、堪えきれないと言った風に笑い声を漏らしていた。
 ただ、その目から雫が零れ落ちている。みやびも桂も、その尋常じゃない様子に何も言うことが出来ないようだった。高杉の抵抗する手も弱まる。彼は提灯で仄明るく照らされる、平蔵が見た役人を見据えた。
 見覚えがある男だった。高杉の背筋に悪寒よりもずっとおぞましい、凍える様な寒気が走る。
 やがて平蔵は満足したのか、笑い声を収めて息を吸い込む。
「大忠太、居るんだろう? 出てきたらどうだ」
 止めてくれ。高杉は祈った。出てこないでくれ。
 だが彼の祈りも虚しく、役人の群れが二つに割れた。
 自分に竹刀を握らせ、侍の在り方を背中で語った姿、その思い出にひびが入っていく。
「弟子にこんなことをやらせるなんて、お前らしくないな」
「……こいつらが、自分たちにと申し出てきたんだ」
 腰に二刀を差した、袴姿の男がゆっくりと歩み寄ってくる。提灯の小さな光が、その男の姿をぼんやりと写し出した。
 戦時中、自分の信じる道のために奔走していた、侍の姿が崩れていく。
「……どういうことなのか、説明してくれるよな?」
 そう言って、平蔵が笑ったのを高杉は確かに見た。
 父、大忠太の顔は見えなかった。
「筋書きが変更になった。……家老殺しの極悪人、井上平蔵は処刑の日の朝に奉行所を逃亡。子供三人を人質に半日逃げ回ったが、日没後町の東の林にてその身柄を拘束。人質を無事保護した後、その場で斬首するという流れにな」
 全身から汗が噴き出していることに、高杉は今更気付いた。体の震えが止まらない。二人の男を直視できない。視界が滲む。
 自分には、なんの力も無い。そのことを痛いほど思い知らされて、それでもなお、彼はみっともなく縋るしかなかった。
「やめて……」
 井上平蔵が目を閉じる。
「その粗末な筋書きは、堀田……じゃないな。障害はまだまだ多そうだ」
「……そうだな」
 大忠太は短く返事をして、そして腰に差した打刀を抜いた。
「止めてくれっ……」
 高杉が絞り出した声は、裏返って虚しく夜の林に消えていった。
 平蔵を押さえつけていた者たちが、平蔵の上体を起こす。彼はもう抵抗しなかった。
 そして、大忠太が低く響く声で周りへ告げる。
「人質を安全なところへ! これより井上平蔵の処刑を行う!!」
「親父っ!!!」
 息子は、晋助は懸命に父へ手を伸ばす。縋って、止めたかった。平蔵が語った、情に厚く不器用な男を。自身が見てきた寡黙で真っ直ぐな侍を。
 それでも、まだ幼い彼の身体は、大人の男が三人がかりで抱えればいとも簡単に連れ去られてしまうのだ。
「何でだ、何でなんだよっ!?」
 少し後方では役人に抱えられた桂が虚ろな表情で涙を流し、惨い結末を迎える親友たちをその目に焼き付けていた。
「アンタ武士だろ、侍なんだろ!? なのにどうしてっ!?」
 役人の肩から、みやびが遠ざかる父親を声も無く見つめていた。口元を押さえ、何も言うことが出来ないという様子で、ただただ号泣していた。
「頼む、斬らないでくれっ……その人を殺さないでっ!!」

 三人の視界から二人の姿が消える頃、何かが断ち切られる音が夜の林に響いた。
 風に乗って、幾度嗅いでも嗅ぎ慣れぬ鉄臭さが僅かに匂ってくる。
 高杉の腕から、力が抜けた。
 誰かも分からぬ自分を抱える男の肩に頭を預け、彼は震える息をそっと吐いた。
「おやじ……」
 木々の枝で掠った傷の痛みを思い出していた。それ以外はもう何も考えたくなかった。


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