後編
 その後、左助くんの服に着替えた名前と左助くんで、第二回戦は決行された。今度は見張りを買って出てくれた精市が何故か先ほど名前が使っていた小さな水鉄砲で参戦することとなり、そして幼児ふたりをボロボロに打ち負かすという大人げなさを発揮したが、それが終わる頃には名前も左助くんすっかり笑顔に戻っていた。
 幸い、ワンピースは洗濯可のポリエステル製だった。真田家の洗濯機を貸してもらっている間は、叱り方を間違えたと反省している弦一郎を慰めつつ庭から聞こえる楽しげな声に耳を傾けていた。
 すると、精市が幼児たちを連れて二回目の水分補給に戻り再び出て行ったあたりで弦一郎が俺を別室へ案内したいと言い出した。
「少し見せたいものがある」
 案内されたのは、今からほど近い客間だった。冷房の掛かっていない蒸し暑い部屋で、専用の長細いハンガーに掛かっていたとある物を見て俺は全てを察した。
「なるほど、そういうことか」
「すまなかった。名前ちゃんを驚かせるんだと数日前から態度には出さんが張り切っていてな……」
 そこに下がっていたのは、白地に青でイルカやクジラや熱帯魚、それから貝や珊瑚の絵が描かれた子供物の浴衣だった。ご丁寧に黄色の兵児帯まで添えられている。
「左助くんに新しい浴衣をと祖母が呉服屋で生地を見繕っていた時に左助くんが見つけたらしくてな。ぜひ名前ちゃんにとお義姉さんに頼み込んで仕立ててもらっていた」
 真田家全体を巻き込んだまさかの仕込みに、やはり今まで感じていた左助くんの想いは勘違いではなかったのかとじわじわ納得していくのが分かった。彼は弦一郎はゲンイチロー、精市はセーイチと呼ぶくせに俺のことはレンジさんと呼ぶ。
「丁度良かった。ワンピースが乾くまでまだ少し時間は掛かるだろうから、今日はこれで名前を祭りに行かせてやってくれないか?」
「いいのか?」
 当初はその予定だっただろうに、弦一郎は律儀にそう問い返してきた。良いも何も、同じ片思いの経験者として左助くんの想いを無下にはできまい。
「もちろんだ。ご家族の分も礼を言わせてもらう、ありがとう弦一郎」
「いや、礼には及ばん。世話になってる名前ちゃんへの誕生日プレゼントということにしておいてくれ」
 とは言っても、見たところ生地もそれほど安物というわけではなさそうだ。子供物と言えど手縫いで仕立てるにはある程度の動力も必要だっただろう。こういうところに俺は真田弦一郎という男の根本にある人の良さを察してしまう。育った場所がこういう優しさと気前の良さで溢れているのだ。
 汗だくの三人が庭から戻ってきたのは、それから1時間後のことだった。有無を言わさず全員風呂場へ連行することになったのだが。
「我儘言うな名前」
「イヤだ」
 左助くんのTシャツとスパッツを汗と水で多分に濡らした名前は、両手を組んで頬を膨らましそっぽを向いている。背後では半裸の精市が苦笑し左助くんがこちらを睨んでいた。
「まだ一人で風呂に入れないだろう、精市と一緒に入るんだ」
「イ、ヤ」
「名前!」
「名前、レンいがいのおとこのひとと、おフロになんてはいらないから」
 そう言って譲らない名前に眩暈がする。普段は素直で従順なはずなのだが、この急に入る反抗スイッチがいつも分からなくて疲れる。
「もう俺たちが入った後に蓮二が一緒に入ってあげなよ」
「浴衣なら貸すぞ?」
「あ、真田。俺甚平がいい」
「お前は少し遠慮を覚えろ……」
 俺たちが言い争っている間にとうとうすべて脱ぎ捨てた精市は、そのままのらりくらりとこちらの様子を伺いながら脱衣していた左助くんを手早く脱がせて浴室へ放り込む。そして弦一郎が律儀に人数分の浴衣や甚平を取り揃える頃には、早くも二人は汗を流して出てきた。
 名前はその間ずっと膨れ面で俺と口をきかなかった。
「名前。一体どうしたというんだ」
「……」
 清涼感がある入浴剤が入れられた檜の湯船に浸かり、ミントの香りに包まれながらまだ膨れている名前にそう話しかける。金髪をタオルで纏めて上げている彼女は、剥き出しの項をこちらに向けて黙りこくっていた。
「そもそも言うことを聞かないお前が悪いんだぞ」
「……レンは」
 俺の言葉に反応してか酷く落ち込んだ声でやっと話し始めた名前は、やがて俺に爆弾を投下した。
「レンは、名前がレンいがいのおとこのヒトとおフロはいっても、へいきなの?」
「……ん?」
 六歳児の妙に大人びた見返り姿に、一瞬思考回路が停止しかけた。
 狼狽えるな柳蓮二、落ち着け。相手はオムツすら取れているか怪しい頃から面倒を見ている幼児だぞ。
「名前、らいねんショウガクセイなんだよ!? 名前がサスケくんとおフロはいってもレンはいいの!?」
「い、いいも何も……」
 詰め寄ってくる碧眼の子供に、どこをどう気にしろというのかと絶壁の胸と膨らんだ腹部を見る。お前、左助くんとそう体つきなんて変わらないだろうが。
「ミライのおよめさんが、ほかのおとことおフロにはいってもいいっていうのね!?」
「は!?」
「レンのバカッ! もうしらないっ!!」
 そう言って浴槽の湯をいくらか巻き込んで勢いよく上がっていく名前に、盛大に顔へ湯を掛けられながらも顔が引きつるのが止められなかった。
 苗字名前よ、どうか冷静になってくれ。俺は十六、お前はまだ六歳なんだぞ? と問い掛けたくても、小さな背中は浴室を飛びだし脱衣所を突き進んでいく。そのまま廊下へ出られたらたまったものではないと慌てて追いかけた。
「待て名前、ちゃんと体を拭け! 今弦一郎が……」
「ついてこないでよ! 名前のことすきじゃないクセに!」
「何を……」
「名前のことおよめさんにするきがないなら、名前のことなんてほっといてよ!」
 名前の頭から緩く巻いた濡れタオルがビシャリと落ちて濡れたダークブロンドが広がる。分かったからとりあえず体を拭かせてくれないかと狼狽えていたら、最悪のタイミングで脱衣所の扉が開いた。
「……出直した方がいいか?」
「ゲンイチローッ!!」
「ぬっ!?」
 気まずそうな顔で例の浴衣を持って現れた弦一郎に、名前が叫んで飛びつく。驚きながらも浴衣を濡らすまいと身を固くする弦一郎の太ももに、名前は濡れた裸体で縋っていた。お前、弦一郎には良いのか。お前の基準は何処にあるんだ名前。
「ど、どうした名前ちゃん……?」
「名前やっぱかえる」
「なっ!?」
「我儘ばかり言うな名前、いい加減にしろ!」
「か、かえるもんー!!」
 弦一郎の太ももに縋り素っ裸で本格的に泣きだした名前に、もう俺も弦一郎も途方に暮れるしかなかった。何度も言うが普段は素直で聞き分けの良い子なのだ。だがたまに、ごくたまにこうやって大暴れし始めるから本当に性質が悪い。
 こういう時に限って、気の利いた頓知で場を丸く収める能力に長ける精市はいない。もう勝手にしろと言ってしまおうかと思ったその時だった。
「名前ちゃん、実はだな。左助くんと真田家一同から名前ちゃんへ誕生日プレゼントがあるんだ」
「……プレゼント?」
 両手に持っていた浴衣を片手に抱え直して利き手を空けた弦一郎は、そう言いながら名前の身体をそっと自身から離した。名前が涙を目に浮かべながら弦一郎を見上げている。
「そうだ。名前ちゃんは浴衣は知っているか?」
「ゆかた?」
「ああ。日本の女性が夏に着る着物だ。祭りや花火大会で着物を着た女の人をよく見かけんか?」
「……テレビでみたことある。キレイなキモノきたおんなのヒトたち」
「そうか、ならば話は早い」
 弦一郎はそのまま名前の前で片膝を付くと、片手に持っていたその浴衣一式を再び両手で持ち直して名前に見せた。見る見るうちにその青い瞳に光が宿っていくのが分かる。
「左助くんがな、名前に似合うだろうとこの浴衣を用意したのだ」
「……サスケくんが?」
「名前ちゃん、海の生き物が好きだろう? きっと喜ぶと思ったのではないだろうか。……どうだろう、これを着て俺たちと祭りに行ってみないか?」
 弦一郎の低く優しい声音に落ちついたのか、それとも目の前に広げられたイルカやクジラの躍る愛らしい浴衣に心動かされたのか。すっかりおとなしくなった名前は笑顔で頷くといそいそと自分で体を拭き始める。
「うむ、名前ちゃんは良い子だな」
「えへへっ、ねぇゲンイチロー! 名前にそれきせてくれる?」
「もちろんだ」
 部員にはとても見せられない緩んだ顔でいそいそと幼児に着付けを施していく姿に、皇帝陛下が聞いて呆れると少し冷めた目で見ざるを得ない。先ほど甥にあれほど強く出ていた厳格な男は何処へ行ったのか。お前も所詮メスには甘い口かと着々と進む着付けを横目に、俺も淡々と体を拭いて用意されていた弦一郎の物らしき藍色の浴衣に袖を通した。
「そら、できたぞ。思った通りよく似合う」
「ホント!? 名前、かわいい?」
「ああ、とても可愛いぞ」
「ふふっ、ありがとーゲンイチローッ!」
 視線を向けると、白い着物を纏い黄色の兵児帯をふわりと浮かせながら弦一郎に抱き付き、その頬に軽く口づけを落とす名前がいた。満更でもない顔を晒すたるんどる皇帝は余所に、名前はそのまま軽い足取りで脱衣所の姿見の前を陣取った。そしてそのままそこで一回転してみせる。その兵児帯がまた金魚の尾ひれのように揺れ動くものだから、名前も面白がって何回も回転していた。
 やがて、その姿を黙って見ていた俺と鏡越しに目が合う。青い目はすぐにふいと逸らされ、言いようのない苛立ちが募った。
「そういえば、幸村が髪を結ってやると言ってネットで髪型の検索をしていたぞ」
「そうなの? やったっ、じゃあサスケくんとセーイチにもみせてくるね!」
 そう言ってどこか逃げるように走り去っていく姿に、着崩れるのも時間の問題だなと思った。するとようやく立ち上がったたるんどる皇帝陛下がおもむろに話しかけてくる。
「蓮二、先ほどから顔が怖いんだが」
「気のせいだ」
「恋愛でテニスを疎かにするのは言語道断だが、そうでなければ俺は蓮二にどんな恋人が出来ても応援するぞ」
「だからお前はどうしてそう突飛な発想をする!?」
「む? 真剣交際に年齢は関係ないぞ」
 もちろん然るべき時までは純粋な関係であることは常識だがな、と言い放つこの男の常識がよく分からない。
「あの年頃の言う好きなど、挨拶のような物だろう……現に弦一郎や精市にも頻繁に言っているではないか」
 そして俺にしか裸を見られたくないと言うくせに弦一郎の前では平気で、そして左助くんには拘る。あれは憧れを恋愛感情と勘違いしている典型で、本当は左助くんのことを異性として意識しているのではないか。そう考えたら腑に落ちるのに、何故か喉の奥が詰まったように少し苦しかった。
「うむ……」
「なんだ、言いたいことがあるなら言え」
 少し乱暴になってしまった口調だったが、弦一郎は気にも留めず顎に手をやりこう言った。
「いや、あの好きの差が分からない様では、蓮二もまだまだだなと思ってな」
 生意気な口をきく一番の朴念仁の腹に一発手刀をお見舞いして、とりあえずは居間へ戻ることにした。
 日がだいぶ傾いた5時頃、俺たちはそれぞれ団扇を帯に差したり扇子を懐に仕舞いながら真田家を出た。俺はさすがに履いてきたスニーカーでは合わないだろうと弦一郎から下駄を借りたが、灰色の甚平を着た精市は自分のビーチサンダルをそのまま履いてきているため完全に格好は湘南伝統のヤンキーのそれである。先行する浴衣姿の左助くんと名前を見張りながら、俺たちはその少し後方で三人並んで歩いていた。
「いや、だからそれは蓮二はお婿さん候補だから良くて、左助はそれ以外の男だから駄目ってだけの話なんじゃないの? 俺と真田は男の枠にすら入ってないから大丈夫ってだけでしょ」
 祭り会場への道すがら、まだ俺はこの話題に付き合わされていた。
「貞操観念しっかりしてて良いじゃない。アレはイイ女になるよ」
「同い年なのに俺と精市たちを分けるのは何でだ、全く分からん……」
「お兄ちゃんは男じゃないけどお兄ちゃんの友達のイケメンは男とか、そういう話だって。気にしすぎ」
「俺は名前のお兄ちゃんじゃないというのか」
「だから名前にとって蓮二はお兄ちゃんじゃなくて好きな男なんだってばー」
 もーめんどくさいと項垂れる精市だったが、最初に吹っ掛けてきたのはそちらだ。最後まで付き合ってもらおう。
「俺はお前たちに兄枠を取られたというのか……」
「兄になりたいなら残念ながら手遅れ」
「何故だ」
「開眼するなよ怖いな……」
 物怖じする湘南伝統のヤンキー姿の美少年にそのまま目を見開いて詰め寄ると、彼は両の掌を揃えてこちらに向けて俺を遠ざけるような仕草をしながら顔を背けた。
 道のりは大通りへと差しかかる。祭りへ向かう人が疎らながら増えてきた。その時ふと前方の子供たちへ視線を向ければ、対向車線側をじっと見ている名前が視界に入った。
 その幼い視線の先には、両親に手を引かれて祭りへ向かう浴衣姿で同い年くらいの女児がいた。
「蓮二の名前を見る目が、もう兄のものじゃないからだよ」
 潮風に乗って、隣から精市のそう諭すような声が聞こえてきた。
「兄だから分かる。今胸に走っただろう切なさも、俺や真田が頬にキスされた時に感じた苛立ちも、蓮二の無自覚の証明だよ」
「そんなことは……」
「別に今すぐ自分の結論を出す必要はないよ。……でも、名前の気持ちくらいは正しく受け取ってあげてもいいじゃない」
「……正しく」
「そう。……自分の本気が伝わらない時って、なかなか悲しいよ」
 そう言って精市は湘南の街に沈みゆく夕日を眺めていた。その眼はここにはいない誰かを映し出しているようで、俺には触れられない思い出の気配を察する。
『名前はレンのことがずっとずっとだいすきだよ。しんじて』
『……ずっと、お前が好きだった』
 名前の、真っ直ぐな気持ちに背中を押されて、俺は俺の中にある降り積もった恋心を告げて区切りをつける決心が出来た。一時はそのまま誰にも告げず腐らせ、墓まで持っていこうと決意した初恋だ。その己にかけた強い呪縛を溶かすほどの想いが何であれ、どうして俺は真剣に読み解こうとせずただ貰っただけで満足していたのだろう。
 その感情の種類を決め打つことが怖かったのか。彼女の唯一無二でい続けたかったから。
「すまないが、左助くんと先を歩いていてくれないか」
「なに奢ってくれる?」
 健気な頼みに間髪入れず見返りを請求してくる悪友に、俺は笑いかける。
「屋台で好きなものを何でも一つ」
「じゃあ俺焼きそばね」
「では俺は焼きトウモロコシを頼もうか」
 今までしっかり空気を読んで無言を貫いていたくせに、ここぞとばかりに便乗して好きなものを告げて去っていく皇帝に、なんだかんだ言って甘やかされた歳の離れた末っ子だよなと神の子と笑い合った。
 そしてポンと肩を叩いて走っていった精市と入れ替わりに、弦一郎によって俺の元へ行くよう言われた名前がその場で立ち止まった。俺は弦一郎から借りた下駄でアスファルトを踏み鳴らし、後れ毛と兵児帯を風に揺らす浴衣姿の彼女へ一歩一歩近づく。
「……なに」
 不機嫌というよりはどこかバツが悪そうな名前に、そっと左手を差し出した。青い瞳が夕暮れの日差しを映してキラキラと光る。まるで海の中から空を眺めるような色で。
「手を繋ごうか、名前」
「……」
 しばらく俺の顔と左手を見比べていた名前だったが、やがて恐る恐るといった様子でゆっくり俺の左手に右手を重ねようと手を伸ばす。しかし何を思ったのか、触れる寸前でそれは引っ込めてしまう。
 俺は思わずそれを追い掛けて、その小さな手をしっかり左の掌の中に閉じ込めた。
「レン……」
「居なくならないよ」
 その時、脳裏に過ったのは小学五年の転校前と中学三年のU-17合宿だった。
 俺がその台詞を言うには、あまりにも信憑性が無さすぎるだろうか。だがそれでも。
「俺はずっと名前のそばにいる。例え名前に放っといてと言われてもな」
 それが今この瞬間の俺の正直な気持ちなのだから、これ以外の言葉で孤独と戦う幼い少女へ掛けるに値するものは見当たらない。
 呆然とする名前に、それからもう一つと浮かんだ思いを告げた。
「その浴衣、とても可愛いぞ」
 それからゆっくりと、小さな歩幅を考慮して歩き始めた。最初は引っ張られるように黙って付いてきた名前だったが、やがて彼女は縋る様に両手を俺の左手に絡めた。
「レン……すき、だいすき……」
 切なげな涙声だった。今日は名前を泣かせてばかりだ。
 それもいいか。普段はずっと笑っている強く優しい子なのだから。
「だいすきだよ……ムネがくるしいくらい、すき……」
 前方では、こちらが気になって仕方ない左助くんが弦一郎と精市に挟まれ、手を繋がされそうになっているのを必死に抵抗している。悪いがここは譲ってやれそうにないなと幼い少年に心の中で宣戦布告をしつつ、兄になれない自分と妹にはなりたくない彼女を想って空を見上げた。
 物心ついた頃から寂しさを胸の内で飼いならし、孤独に慣れてしまっていたこの子の家族になりたかった。ただその一心で抱き寄せ頭を撫で愛情を様々な方法で伝えてきただけだったのに、随分と思い描いた場所とは遠いところへ来てしまったようだ。
 もう目指す場所は一つしかないと、そう割り切るには俺はまだまだ子供過ぎる。せめてこの小さな手を守り通す力を得なければと、そっとその手を握り直した。


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