2012年4月21日
 生まれてから24年間住み続けている、この海沿いの地方都市。その市名と同じ名前が付けられた駅周りは、最近になって駅ビルが改装されたりで小洒落たショップやレストランが増えた。
 そんな駅付近の喧騒に紛れ、商業ビルの横を通り過ぎる。パステルカラーのタイルを敷き詰めた歩道橋を、俺たちは手を繋いでゆっくり歩いていた。
「精市さん」
「うん、まあ王道だよね」
「せいくん」
「慣れるまでちょっとニヤニヤしちゃうな」
「……あなた」
「ああ、なんだろう。俺いますっごい気持ち悪い顔してると思う」
 彼女が翳す左手の薬指で、小粒のダイヤが4月の夕日に反射しキラリと輝いた。
 あ、どうも幸村精市です。
 突然ですが結婚しました。隣にいるのが妻の幸村楓です……!!
 と、数時間前までの絶望感はなんのその。幸せオーラ全開なのには訳がある。
 俺の衣装決めを終えた後、俺が朝から何も食べていないのに目敏く気付いていた楓と一緒に近くのカフェに入った。ちなみに千代田はさすがに俺が衣装を選び始める前には退席し、東京へ帰ったらしい。
 カフェで、楓と一緒にこれからやらなければならないことを改めてリストアップした。優先順位も決めて最優先が入籍日の決定だろうという結論になった時、楓がおずおずとバッグの中から出したのは淡い色合いで掌大の手帳だった。
 そう。いわゆる母子手帳というものだ。
 氏名欄は空欄だった。どうせなら名字が変わってから記入したいと、病院側に言って待ってもらっている状態だという。どうしてもっと早く言ってくれなかったんだとはさすがに口が裂けても言えない。なら善は急げで今日提出しちゃう? と言って婚姻届の提出方法をネットで調べるのがやっとだった。
 夫婦が同じ市内の本籍地である時、その市の役所で婚姻届を提出する時は戸籍謄本等は必要ないのだという。必要なものは、印鑑と身分証明書と証人ふたりの署名と捺印。調べると婚姻届のテンプレートまで大量にネットに転がっていた。
 それからの俺たちの行動は早かった。楓の体調を気遣いつつ、まずは楓の実家に伺った。楓のパソコンとコピー機で婚姻届のテンプレートを印刷し、楓の部屋で肩を寄せ合い名前を書いた。難関はふたりの証人だが、楓が捺印したところでお義母さんが買い物から帰宅したのでとりあえずひとりは確保できた。貴方たちまだ入籍してなかったの!? と叫びながらカレンダーで日柄の確認をするというお義母さんからの怖いリアクションを貰うことにはなったが。ちなみに今日は先負だった。
 印鑑を回収するために俺の実家へ向かうと、丁度親父がクラブを持って打ちっぱなしに出掛けようとするところだったので、慌てて引き留めてどうにか署名と捺印を貰った。その婚姻届が受理される頃にはすでに4時近かったが、レンタルドレスショップを出たのが1時半だったのを加味するとなかなか頑張った方ではないだろうか。
 それから俺たちは、この勢いを殺してはならぬと優先リストの次項消化に取り掛かった。
 さて指輪をどこへ買いに行こうという話になった時、楓の体調さえ良ければ横浜へ出ないかと提案した俺に、駅前のあそこでいいと楓は言った。あそこというのは数年前から駅前のデパートの2階にある若者向けの宝石チェーン店で、聞けば楓は就活時期によくそのデパートに寄っていて、その時目に付いていたのが今でも頭に残っていたのだとか。
 いつかここで。なんて、当時から思っていたりしたのだろうか。
 彼女の体調を気遣いつつ店へ移動すると、楓は並ぶ数多のエンゲージリングを前にしてもそれほど迷った素振りを見せることなく、数点を付けてみた後に一番シンプルな物をひとつ選んだ。0.23カラットのダイヤが一粒だけ付いたシンプルなプラチナリング。お値段は俺の1ヶ月分の給料よりも少し安かった。
 結婚指輪も一緒に選んだのに、双方合わせて所要時間はなんとたったの45分。俺たちより前に来店しああだこうだと悩んでいた女性の彼氏が、羨ましそうにこちらを見ていた。いや、気持ちは分かるけれども、こちらはこちらで少し拍子抜けだったりもする。店に在庫があった9号サイズがぴったりだったこともあり、楓はそれを左手に付けて店を出ることにした。
 そして今、彼女は俺と手を繋ぎながらデパート前の歩道橋を渡りつつ、そっとビルの間から覗く夕日に左手を翳している。すると、サッとその頬に赤みが差して唇が変な風に歪んだ。
 あ、めちゃくちゃ照れてる。
「嬉しい?」
「嬉しい」
 即答かよ、くそっ可愛いな。
「本当にそれで良かった? もっと大きな石でも頑張れたよ俺」
 からかうような口調で彼女の手をニギニギすると、とうとう耐えきれなくなったのか楓がニヤニヤ笑いだした。あ、俺の奥さん超可愛いぞ。
「ここに指輪があるってことが嬉しいんです。石の大きさなんて」
「そう? 女の人ってそういうの拘らない?」
「……私は、別に」
「無欲だなぁ。知ってる? 跡部さん家の奥さんは婚約指輪に15カラットのダイヤ付いてたらしいよ」
「えっ!? 15!?」
「当然奥方、こんな重いもん付けられるかやり直し! って突き返したらしいけど」
 跡部夫妻の鉄板ネタに声を出して笑う楓。久々にこんなに明るい楓を見たような気がして、蓋をした俺のマイナス思考も中身が軽くなっていく気がした。だって、どこからどう見たって幸せだ。
「結婚指輪も、出来上がるの楽しみだね」
「はい。着けるのはもう少し先ですけど」
 結婚指輪は楓の9号も俺の15号も店に在庫はあったが、みんなそうしているという言葉に流されて今日の日付とお互いの頭文字を内側に彫ってもらうことにした。よって納品は2週間後になったわけだが、楓の言うように俺の左手薬指が埋まるのはそれよりもう少し先だ。
「毎日必ず付けよー」
「ふふっ、男の人ってマリッジリング結構ちゃんと付けてますよね」
「付けさせられてるんじゃない? あと、営業は付けてる方が信頼度上がるっていうね」
「そうなんですか?」
「ちゃんと順当に家庭を持てた人ってことで、常識があると判断されるみたい」
「……そうですか」
「変な話だよね。家庭持ちイコール真人間でもないだろうに」
 ビルの影に入ってしまうあたりで、名残惜しそうに歩みを止めた楓に合わせて俺も止まった。振り返った先にあった彼女の横顔は、いつのまにか思いつめたような表情に戻っていた。これは、体調云々のものではない。
 俺の浮かれていた気持ちも徐々に萎んでいくのが分かった。
「ねぇ、楓」
 カフェで作った優先リストは、俺の仕事用の手帳に挟まり今は自宅待機だ。指輪購入の次に行うべきことは、ゲストの決定と住所調べ。平日に取れる時間は少ない。楓の体調も考慮して、今日は帰って各自やるべきことをやるのが正解なはずだ。
 脳内でリストの中に『話し合う』を差し込めなかったのは、今はそんな場合じゃないと山積みの予定を前に怖気づいたから。けれど今この瞬間、それは逆なのかもしれないと思った自分の勘を信じてみたくなった。
「あの……ずっと思ってたんだけど」
 楓がこちらを向く。顔の角度が変わって、夕日に照らされた顔がビルの影に覆われていく。往来激しい歩道橋の片隅で、一体何をやってんだと冷静な自分が呆れていた。
「あっれー? もしかしてゆっきー!?」
 間の抜けた、それでいて今一番聞きたくなかった声が鼓膜に飛び込んできたのはその瞬間だった。脊髄反射レベルの速さで顔が強張るのが自分でもわかる。それを見て何事かと楓は目を丸め、そして声が掛かった俺の背後を覗き込んだ。
「マジか、奥さん一緒!? どもー、初めまして。ゆっきーと同じ部署の田辺って言いますー」
 トン、と気安く肩に置かれた手に、今朝の二日酔いを思い出した。ブリキおもちゃにでもなったみたいにぎこちなく振り返ると、顔面がやたら派手な巻き髪の女を連れた田辺がしたり顔で立っている。
 最悪だ。そう思わざるを得なかった。
「あ……はじめまして。千代田……じゃなくて、妻の楓です。夫がお世話になってます」
 そう言って頭を下げる楓の照れ顔を堪能する余裕が無い自分が非常に腹立たしい。はーいお世話してます☆ なんて返すその星マークを黒く黒く塗りつぶした後に粉砕してやりたい。
「ゆっきーあのあと大丈夫だった? ごめんなー? 課長たちも行きたいって駄々こねられてさぁ」
「いえ……気にしていませんから」
 目を逸らしてそう言うのがやっとだった。俺の処世術はまだまだ未熟だ。
「でもマジで不二には感謝だなー? ゆっきー泥酔しすぎて女子たちにお持ち帰りされそうだったし?」
「!?」
 初耳であるその事態にも驚いたが、もっと驚愕したのはこの男のデリカシーの無さだ。おい、この場に誰がいるか分かっての発言かそれは。
 睨みつけようとして止めた。その表情を見て、むしろいつもの嫌がらせの延長だと確信する。
「奥さん知ってます? こいつがデキ婚するって聞いて社内の女子大騒ぎでー、相手はどんな顔してるんだ、どこに勤めてるヤツだ、っていまだに嗅ぎまわってるヤツらがいるくらい」
「田辺さん、俺たち忙しいんでこの辺で……」
「まぁでも、俺がちゃーんと広めとくんで! ゆっきーの奥さんはスタイルの良い美人さんで、ゆっきーとは超ラブラブだったよって? あ、何ならこの後一緒に飯でもどうです? 俺ふたりの馴れ初めとかちょー聞きたいなー」
「妻の体調も優れないので遠慮します。楓、行こう」
「社交的じゃない旦那のカバーすんのも、妻の役目だと俺は思うけどねぇ」
 ぶん殴らなかった俺を誰か全力で誉めそやしてほしい。田辺の蛇の毒牙みたいなその一言は、楓の足をその場に縫い付けるのに充分な効果を発揮していた。俺がどれだけ手を引こうとしても彼女は動こうとしない。
 気付いて、気付いて。そいつは俺の仕事に何の貢献もしない木偶で、俺はそいつのことを心の底から軽蔑していて、そいつの頭の中はこれから2時間どうやって俺たちをいたぶるかしかないってことに。頼むから。
「ええ。そちらのお連れの方がよろしければ、是非。良いでしょう? あなた」
 さっき試しに呼んでみた呼称の中で、よりにもよって一番挙動不審になったそれを彼女は使った。振り返った楓は、柔らかな笑みを浮かべていた。
「マジっすか、やったー! 別にいいだろ?」
 連れている派手女に軽く了承を取ると、田辺は馴れ馴れしくも楓の肩に手を乗せる。楓が俺と繋いだ手を解く。綺麗に微笑む彼女が、田辺に会社での俺の様子を聞いていた。
「ねえ、でも行く予定だったとこには連れてってよねー?」
 田辺とよく似た喋り方をする連れの女が、拗ねたようにその会話に割って入った。
「分かってるよ。この近くにうまい韓国料理屋があるんだけど、そこでいいよね?」
 いいわけないだろつわり中の妊婦だぞ!? 明らかに嫌がらせ以外の何物でもない行為に、もう限界だとその肩に乗った手を叩き落とそうとした。その時だった。
「うっ……」
 田辺を見上げていた楓が、急に何か込み上げるものを押さえるように口元を押さえた。
 そのままその場にうずくまる彼女に、俺たちのみならず往来の人々までもが視線を向ける。
「楓?」
 慌てて俺も屈むと、楓は明らかに息を我慢するような様子で口早にこう言った。
「袋、だれか袋」
「えっ、袋!?」
 俺の手元にはエンゲージリングの空箱が入った宝石店の紙袋しかない。思わず視線を上げてそこにいたふたりを見上げると、全力で首を振って後退する姿がそこにはあった。楓はそんな様子すら視界に入っていないようで、とうとうウエッとえずくような様子まで見せ始める。
「は、く……」
「ちょっ、ちょっと待って!? 頑張って楓、立てる!?」
 力なくフルフルと首を振る楓に、何事かと数人の野次馬が群がってくる。すると田辺の連れが田辺の裾を引いて「ちょっと、行こう?」と言った。田辺はバツの悪そうな笑みを浮かべる。
「お、奥さん体調悪そうだし、また今度誘うわ! じゃ!」
 脱兎のごとく逃げ去るふたりを見送る暇など無かった。こうなったら宝石店の紙袋に頑張ってもらうしかないと、俺の掌より小さいその紙袋の中からせめてと思って空箱だけ取り出す。慌てて楓の口にそれを当てると、そのときやっと楓の目が笑っていることに気付いた。
 えっ?
「行きましょう、せいくん」
 刹那、立ち上がった楓の姿は非常に凛としていた。数人いた野次馬にぺこりと会釈すると、楓は唖然とする彼らを気にするそぶりも見せず俺の手を引き江ノ電の駅の方へと向かい始める。
 何が起こったのか、徐々に理解できてきたような俺はその意外さに目を見張った後、面白おかしくて、それ以上に騙された自分が悔しくて、つい歩きながらその頬に左手で軽いデコピンをしてしまった。
「いたっ」
 右手で頬を押さえた楓が恨めしそうに見てくる。
「俺の心配返せ」
「見抜けなかったあなたが悪い」
「見抜けるわけないだろ? 元演劇部の鬼部長」
 そう指摘すれば、彼女は照れ臭そうにヘラッと笑った。
 演劇は大学卒業と同時にきっぱり辞めたと聞いた。
 楓が大学3年で部長を務めた時、それまでに出場経験が無かった学生向けの演劇コンクールに出場し、いきなり入賞してきたのは記憶に新しい。世話になったOBOG、高校時代の戦友、大会を通して出会った業界人。様々な人間から、うちで演じてみないかと彼女は誘われた。
 演劇を職業にする気は無いと、一刀両断したのは他ならぬ楓自身だ。演劇が大好きで仕方ないのに、それを普段は誰にも悟らせず淡々と社会の歯車として働くことを彼女は選んだ。俺たちは似た者同士だ。
 まだこんなに、何かを演じることが嬉しいくせに。
「……差し出がましいとは、思ったんですが」
 まだ嬉しそうな顔を消せていない楓が、ほんの少しだけ眉をハの字にして口を開く。
「なんだか、穏やかじゃない空気だなと思ったので」
「……いや、助かったよ。実は俺、あの先輩すごく苦手でさ」
 嫌いでも軽蔑でもなく苦手と評したのは、まだ猫を被っていたいのか陰口が嫌いと豪語する自分への辻褄合わせか。それは自分でも分からなかった。
 口に出してから、ああ言わなくても別に良かったことだったなと後悔して楓を盗み見ると、どういうことだろう。彼女は暮れなずむ夕日をバックに目をキラキラさせている。あまりに予想していないリアクションで、つい上擦った声で「楓?」と呼んでしまった。
「幸村さん、苦手な人居たんですか……?」
 余程気が動転しているのか、呼称が戻っている幸村夫人。それ以前に俺への認識がやっぱりどこか夢見がちだと苦笑が込み上げた。
「そりゃあいるよ。いないと思ったの?」
「……はい」
「いるよ、たくさんいる。昔も今も」
 そういえば昔、丸井や赤也にも似たようなことを言われたなと思いだした。苦手、嫌いな人間のことを考える時間や体力を極端に惜しむ性質なのか、物心ついた頃から愚痴を言ってストレス解消という思考回路が理解できなかった。それをどういううわけか、温厚で器がでかいなんてよく解釈されたからビックリだ。
 それでも頭がおかしくなりそうな問題は立海在籍時に山ほど抱えていたが、大概のストレスは事が起きた直後に「クソが」と内心で絶叫してやり過ごすようにしていた。そうでないと身が持たなかった。
 好きな人間に問題起こされるよりは数倍マシだ、と考えられるようになったのはあの中3の誕生日からか。
「例えば?」
「えっ……例えば、えっと……」
 ICカードで江ノ電の改札を抜けながら、この数年で嫌いになった人間の記憶を一生懸命掘り起こしていた。楓が心底興味深そうな目で覗いてくるのがちょっと居心地悪い。
「中学の時の主治医……恩人なんだけど、モルモット扱いされたのがちょっとね。それから部活の一部の先輩に、反テニス部派の運動部顧問たち。俺のことを人間扱いしてくれなかった女子軍団、嫌がらせしてきたバイト先のフリーター、圧迫面接してきた某社の人事」
 丁度ホームで停車中だった車両に乗り込み、二つ並びで空いている席に座る。
「それから……テニスで勝てないからってやたら絡んできた不二周助」
 最後に付け加えたひとりに、楓が思わず吹き出しそうになっていた。
 本当は、彼を嫌いだと思った理由はもっと他にある。
 大切な旧友である千代田を、どうも彼にとっての『いろいろなもの』の身代わりにしている気がして、昔から見ていて虫唾が走った。そしてたまに俺たちの過去とすら張り合って勝手に自爆している彼を見ると、本当にそれでいいのかと千代田に問いただしたくなる。
 まあ、俺はその一点に関してだけは完全に不二に負けているので、もう俺に出来ることなんて何もないのだが。
「たくさんいるよ。俺は案外、非常識な事をされたり、敵意を向けられたり、大切な人を傷つけられたりすると、簡単に人を苦手になったり、嫌いになる。ただ、彼らについて考えることはほとんどないから、自然と口にも出さなくて周りにバレないだけで」
 電車が動き始めた。休日出勤のサラリーマン、遊び帰りの若者や家族連れを乗せて、江ノ電は夕暮れの湘南を走り始める。
 楓は、繋いだままの手に少しだけ力を込め、何かを言おうか言うまいか迷っているように見えた。
「……幸村さんは、やっぱりすごい」
 やっと絞り出した一言は、ちょっと意味が酌めなかった。
「どういう意味で?」
「理由なく誰かを嫌いになることは、無いわけですよね?」
「それは、そうだね」
「嫌いになる、それ相応の過程があって。その先に嫌いになるという結果がある。……私は、その過程を自分の中で上手く消化することが少し、下手で」
 困ったように微笑む楓は、何故か少し泣いているようにも見えた。
「嫌だ、怖い、辛い、そう思った出来事が何度も何度も頭の中をぐるぐる回って、もうどうしようもなくなる時があるんです、たまに。この人のことは考えるだけ無駄って、さっさと思考を切り上げられたら楽なのに、どうして、なんでって結論の出ないことをいつまでも考えてしまって。幸村さんみたいに、割り切ることがどうしても苦手なんです」
 いい大人が、情けない。そう言って笑う楓は、やっぱり心底疲れているように見えた。
 仕事で、何かあったのだろう。突然の退職宣言と結びつくのはそれしかなかった。想起するのは雑用を押し付けられ独りオフィスで戦う不二裕太の姿だった。
 江ノ電が一つ目の駅にたどり着く。楓の家の最寄りは、次の駅だ。
「ねぇ」
 いま楓に一体何が起きてるの? 会社で嫌なヤツがいるの? 俺に出来ることはない? もしかしてもっと前から仕事辞めたかった? 千代田はそれを知ってたの? だからあんなに仲良くなってたの? なんで俺に少しも言ってくれなかったの?
 俺、そんなに頼りない?
 言いたいことはたくさんあった。それでも、疲れ切っている楓にそれをぶつける気は少しも起きなかった。
「俺といる時も、そういうこと考えちゃう?」
 好きな人間以外に思考を割く優しさを子宮に置いてきた俺は、楓がどうしてそんな迷宮に迷い込んでいるのかを本当の意味で理解してあげることはできない。けど、考えたくない物事に踊らされる気持ちだけは痛いほどよく分かった。
 そういうときの出口の探し方も、旧友たちから嫌というほど叩き込まれている。
「……あんまり」
「あんまり、そうか……ってことはちょっとは考えるんだ」
「……」
 済まなさそうに身を縮ませる楓と、テニスをできなかった頃の自分が重なって見えた気がした。俺が思い詰める顔もきっと、このくらい他人からは辛そうに見えたのだろう。
「大丈夫だよ」
 あの当時、掛けられるたびに何が大丈夫なのかと掴みかかりたくなった言葉が自然と出てきた。
「籍入れて、指輪買って、嫌なこと少し考えずに済んだでしょ?」
 耳元で囁くようにそう言うと、彼女は少し頬を赤くした後に小さく頷いた。
 この子が、俺のことを心の底から愛していて良かったと思う。
 だからこそ俺は、この子のことをちゃんと救うことができる。
 大丈夫。今度は自分に言い聞かせた。
「ひとりでは難しくても、ふたりならできることがたくさんある。それをこれから試していってみよう。ひとつひとつ」
 そう言って笑いかけた時、江ノ電が楓の最寄駅に滑り込んでいった。楓は俺の顔を少し困ったような顔で見つめた後、ただ黙って笑い返した。
 柔らかな笑みだった。


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