traveling!


 ふと思い立ってカイトは外に出た。眩しい光に眼を細め、肺に外の空気を満たすように大きく深呼吸をする。ずっと人工の光のみを浴びていた身体に太陽の光を受けるのはいつぶりだろうか。
 もうすぐ夏が終わる。耳を澄ましてみてもあれだけ五月蝿かった蝉の声はもうほとんど聞こえなくなっていた。一夏とは始まった時は長いように思えてもその期間は実に短い。研究室に籠っていれば今が朝なのか夜なのかもわからないことは多々あったが、こうも一つの季節をぽっかりとした空白の時間のままに過ごすことになろうとは、タイムマシンにでも乗ったかあるいは竜宮城で過ごしたようだとでも言うべきか。

「兄さん」

 ふと前方から聞き覚えのある声が耳に届き、カイトはそちらへと振り向いた。麦わら帽子を被り未だ夏の面影を残す格好をした弟が駆け寄ってくる。ああそういえば遊馬達とプールに行っていたんだったな、と思い出し、いつものようにふわりと笑みを浮かべて彼を迎える。

「お帰り、ハルト」

「ただいま」

「楽しかったか?」

「うん!遊馬達とたくさん泳いだよ!」

 うきうきと息を弾ませながら兄に今日あったことを報告するハルト。病気がちの為に激しい運動を禁じられていた彼が日焼けの痕まで作って太陽の下元気に遊び回る日が来ようとは、あの時では考えられないことであった。故にカイトにとっては無理もないことなのだ。こんなにも元気な弟を前についつい頬が緩んでしまうのは。
 息をつく間もなく報告し終えると、ハルトは急に静かになりじっとカイトを見つめた。

「兄さんとも、一緒に行きたかったな」

 ハルトの満面の笑みの中に少しだけ影が差し、カイトの心の中にチクリと痛みが刺す。そういえば数年前の夏はカイトもハルトと共に川で魚を釣ったり野山で虫を採集したりしたものだが、今となってはカイトにそんな暇はなくハルトと共に過ごすのも研究室の中が主であった。最後に彼と遊んでやったのは一体いつのことであっただろうか。自分で決めた道だといえどもこうも他のことをする時間がないというのも考えものだ。彼には寂しい思いをさせているのかもしれない。
 カイトはハルトの前に膝まづき、視線を合わせた。

「ごめんな、ハルト。今度休みができたら、どこかへ行こう」

 するとハルトはカイトの予想に反し、口許に笑みを浮かべたままゆっくりと首を横に振った。

「ううん、僕はいいんだ。いつも兄さんと一緒にいられるんだもの。それよりも、休みができたら一緒に遊んであげてほしい人がいるんだ」

「一緒に遊んであげてほしい人?」

「うん。ほら、ミザエルにもずっと、会ってないでしょ?」

「………」

 ミザエル。その名を聞きカイトははたりと言葉を無くした。ここ最近ずっと会えないままでいるカイトの恋人。この数日は連絡を取るのもままならなかった。カイトはハルトが彼女のことを気遣っているということに少しばかり驚き、そして彼にまで気遣わせていることにどこか後ろめたさを感じた。

「そうだな…あいつにも、しばらく会ってないな」

「ミザエル、きっと寂しがってると思うよ?」

「お前が心配することはない。あいつはそんなにヤワな奴ではないからな…だが確かに、久しぶりに会ってやりたいと思う」

「カイト。何故そのことを私に言わない?」

 よく知った低く静かな声が背後から聞こえた。振り向くとカイトと同じように白衣を着たクリスが些か険しい顔で立っている。先程の咎めるような物言いと無関係ではないようだ。

「彼女との時間を全て犠牲にして研究に費やすことはない。今週末からでも少し遅いが夏季休暇にしよう」

「クリス…。俺のことはいい。それよりも研究をーー」

 言いかけた言葉はカイト、と新たに彼から発せられた言葉で途切れた。厳しい顔は変わらず、青い光が静かにカイトを見据える。

「研究は早く進み、早く成果が出ることに越したことはない。だが、今は予定通り進んでいるし、まだそれだけに集中する時ではない。その為に他のことを犠牲にするのは間違っている」

「クリス…?」

 カイトは思わずぽろりと零すように彼を呼んだ。研究に没頭することを間違っていると、あのクリスが言い切ったのだ。何よりも研究第一で、鬼のように没頭する彼が。そんなクリスの背中を見ていたからそうすることが当然だとカイトも思っていた。しかし、それは間違いであると言うのだ。
 彼の思惑を図りかね、カイトはただ無言で言葉の続きを待つ。

「お前はもう子供ではないだろう。その手に抱えられるものは昔よりも増えたはずだ。それともお前はあの周りが見えていなかったときのお前のままか?」

 彼の言葉はカイトに対して無意味に過去の辛酸を思い出させるものでは決してない。あの時は周りを顧みる余裕などなかったが、今は違う。支えてくれる人も大切なものも増えた。それを昔のようにただ前だけを見ることで蔑ろにするなと、彼はそう言っているのだ。カイトとミザエルのことも充分にわかった上での言葉であった。

「ありがとう、クリス」

 カイトは些か呆けたようになっていた顔を引き締め、その上に笑みを乗せた。それを見たクリスはようやく眼の力を弱め険しい表情を解いた。

「そうだ、それでいい。今から、両立することを覚えるんだ、カイト。でなくばこれから先もっと苦労するだろう。特に、家庭を持った時にな」

「家庭など、俺にはまだ……」

 せっかく表情を引き締めたというのに、冗談を半分交えたクリスのからかいに思わずカイトは赤面する。隣でハルトがふふっと可愛らしく笑った。揃いも揃ってカイトに大きな世話を焼く兄と弟。全く、迷惑でありがたい話だ。

「まあいい。とにかく今週末から休暇を取りなさい。この休暇で、お前自身の羽根を伸ばすと共にミザエルを何処かへ連れていってやるといい。それまでは進められるところまで研究を進めることにしよう」

 休暇をくれる代わりに、クリスが言うのは週末まで覚悟をしておけよ、というところだろう。望むところだ、と建物に入っていくクリスの背中にカイトは声なく言葉を投げ掛けた。
 ポタリと汗の筋がカイトの頬を伝い、来ていた白衣に落ちた。ハルトの額にも汗が浮き、ぱたぱたと手で風を送っている。夏の終わりといえど日差しはまだまだ強い。行こうか、とハルトの手を握って促し、カイトも建物の中に入った。



「もしもし、ミザエル」

『カイト!』

 Dゲイザー越しに聞こえる声は少しばかり弾んでいた。己の名を呼ぶその声だけで、彼女が今どんな表情をしているのかなどと考えるこの思考も案外単純なものだ。きっと彼女は突然の連絡に驚き眼を大きくした後、表情を喜色に輝かせていることだろうと推測してカイトは口元に小さく笑みを作る。

「悪かったな、しばらく連絡が取れなくて」

『構わない。で、何の用なのだ?』

 素っ気ない言葉だが声の調子はカイトの名を呼んだ時から変わることはなく、その先を期待しているようにも思える。あまり勿体ぶって相手の出方を見るなんてことは得意ではないから、単刀直入に用件を話すことにした。いずれにしろ、彼女が次に浮かべる表情は容易に想像がつく。

「今週末、少し長めの休暇が取れそうなんだ。どこかに…そうだな、旅行にでも行かないか?」

『えっ…!本当か!?』

 カイトの予想通りミザエルは予想外だったようで、驚きで一段と大きくなった音声をDゲイザーから受信した。たしなめてやればすまないと言いつつも彼女は先程よりも一層弾んだ声でカイトと言葉を交わす。週末の段取りを決める間もそれは変わることなく、むしろその期待は膨らんでいるようであった。

「じゃあな、宿題は済ませておけ。旅行先に持ってくるなよ…まあわからないことがあれば教えるが」

『せっかくの旅行だ、そんなものを間に挟むつもりはない。それに…』

「何だ?」

『わからない所を残しておけば、後々またお前に聞きに行けるだろう…?』

 先程とは打って変わって、控え目に囁かれた声。それを聞いた瞬間カイトは今まで研究第一に、そちらにばかり没頭していたことを悔いた。会いたくても会いたくても、ずっと我慢していたことだろう。カイトは忙しいからと言ってくれてはいたが、彼女の心は寂しさにうち震えていたのかも知れない。ミザエルは強いから大丈夫、などというのはカイトの勝手な思い込みに過ぎなかったのだ。
 同時に、きゅっと胸を締め付けるような愛しさが込み上げる。どうしようもなくそれは瞬く間にカイトの心を満たした。カイトは眼を細め、心から溢れる想いをそのまま言葉にしてDゲイザー越しの彼女に囁く。

「おやすみ、ミザエル。愛している」

『っ、カイト…わ、私も…………っ、おやすみ!』

 ミザエルは消え入るような小さな小さな声で言葉を発した後、勢いよくプツリと電源を切った。一字一句を逃さないように注意を傾けていたお陰で通話を終えてもカイトの口元の笑みは消えないままだ。
 今度の週末は、正真正銘二人だけの時間だ。長く時間を作ってやれなかったから、その時だけは自分の全てを彼女にやろう。カイトは珍しく少しばかり先の未来に思いを馳せ、先程まで愛しい声を届けてくれていたDゲイザーを一つ撫でた。



 カイトとミザエルを乗せた船が海の上を走る。小型ではあるが二人で乗る分には充分な大きさだ。貸し切ってあるから当然他に乗客はいない。
 二人して甲板に出て、海を眺めていた。よく晴れていて風が心地よい。カイトもミザエルもいつもの格好ではなく、夏らしいラフな格好をしていた。カイトは薄手のシャツとスラックスという何とも簡素な出で立ち。ミザエルは向日葵柄のワンピースを着て、風に裾をぱたぱたとはためかせている。
 彼女は碧い海を、船から身を乗り出して興味津々に眺めていた。それもそのはず、ミザエルは転生する前は海と全く関係のない砂漠で育ち、バリアン世界では紅い海しか見てこなかったのだから当然のことであった。

「いいのか?カイト、本当に」

 ふとカイトの方に振り向いた彼女の顔には疑問の中に少しだけ不安と申し訳ない、というような感情が混ざっているのが見てとれた。一体何を懸念しているのか。カイトがその旨を尋ねると、ミザエルは少し眉を顰めた。

「何故お前が旅行の費用を全部出すのだ。それに全く甘えてしまうのは……」

「余計なことは考えるな」

 ミザエルの真後ろに立ち、後ろから腕を回して細い身体を包み込む。息の詰まる音が聞こえて眼を見開いた彼女がこちらに向いた。空の色を映したような瞳が揺れる。

「お前と過ごす時間を買っていると思えば…ずっと会えなかった分を考えればこのくらい安いものだ」

「カイト…でも」

「費用のことが気になるならお前の身体で払って貰おう」

「馬鹿…」

 せっかくこちらを向いた顔がプイッとまた海の方へ戻ってしまった。しかし金糸の間から覗く耳は仄紅い。彼女でなければ言うことのないであろう冗談をサラリと言った後で、カイトは可愛らしい彼女の反応に満悦する中に少しだけ自嘲の笑みを含めた。
 腰に回した手の片方でゆっくりと髪をすく。手入れがよく施されて指の間を流れる美しい絹のような髪がカイトは好きだった。一つ掬い、ちゅっと音を立てて接吻する。その音にようやく振り返ったミザエルに見せつけるように眼を合わせながら、何度も。
 彼女は先程よりも茹で上がった色をして口元を手で押さえた。笑みを崩さぬままにそっとその手をどかし、顔を近づける。ミザエルはきゅっと眼と口を結んだ。口づけなど何度もしてきているというのに未だにそんな初々しい反応を見せる彼女にふっと息が漏れる。そっと唇の端に口づけた後、そのまま横に滑らせて唇を重ねた。

「んっ……ん、カイト…もっと……」

「今日は積極的だな…」

「たまにはいいだろう。お前はこういうの、好きではないのか?」

「悪いわけないだろう」

 身体ごとカイトの方へ向いて首に腕を回し、小首を傾げてミザエルは続きを強請る。彼女もカイトと同じ。こうして触れ合うことをずっと望み、待っていたのだ。身体の奥低から沸き上がる様々な想いを乗せて再びカイトは彼女の柔らかい唇に深く口づける。
 カイトが吸って離すと、ミザエルが追いかけてきて吸われる。戯れのようにそんな口づけを何度も繰り返す。それを見る者もいなければ咎める者もない。海の上のこの世界に今はたった二人だけしかいない。
 ちろちろと舌先を舐めながらカイトの手は自然にミザエルの腰を撫でていた。ふ、と合わせた唇から甘い吐息が零れ、カイトの鼓膜を小さく震わせる。その声に堪らずじゅっと唾液を吸い、カイトは欲望を押し付けるように濡れた唇を彼女の首筋に押し付けた。

「あっ…ここで…?」

「嫌か?」

「嫌、ではない……けど…、恥ずかしい……」

 首の側面や背面を舌でなぞり柔らかく吸ってやれば、首に回った手にきゅっと力が入る。ミザエルとは寝室以外で身体を重ねたことはない。白昼の下、それも外でというのがどうしても羞恥を感じてしまうのだろう。
 しかし身体を緊張させる以上の抵抗はして来ない。カイトが望むならと、彼女は無言のうちに我慢をしているようにも見えた。
 カイトはそっとミザエルの首から顔を離す。

「カイ、ト…?」

 潤んだ眼と声でミザエルがカイトを見上げる。その様子にまた劣情が生まれるが、誤魔化すように唇を軽く重ねた。

「楽しみは後にとっておこう。宿に着いたら、存分に抱いてやる」

 自分でも驚くほどにストレートな欲望だ。彼女の唇を撫でる指は今にもその中に入れて舐めさせてやりたいという衝動を孕んでいる。勿論、カイト自身も。しかしまだ序盤で欲望に負け、ミザエルを疲れさせるわけにもいかない。ここは耐え、後程存分に彼女を堪能しようという結論に至った。
 ミザエルは何も言わなかったが、顔を紅潮させるとぽすりとカイトの胸に倒れ込んだ。カイトは彼女をそっと包み込み、再び水平線の方へと視線を移す。夏には少々暑いはずの互いの温度に、これ以上ない程の心地よさを覚えた。

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