「まだ何かご用ですか?」
前方数メートルのところで足を止めた女は、振り返らずに言った。
「あなたたちの邪魔なんてしてません。そんな恐ろしいこと、出来やしませ…」
「アンタでしょ」
今度は振り返った。千鶴と同じ色をした目が、見たことのない色を浮かべてこちらを向く。ほら、やっぱり。
「あたしに用があるのは、アンタのほうでしょ」
その発言は突拍子ないもいいところだ。なのに『南雲薫』の表情に、疑問や困惑といったものは見られない。まるでさざ波すら立たない水面のように、ピクリとも動かない感情がその眼に映っている。ーーいや、抑えているだけだ。騒ぎ立てようとする激情の波を。
「あたしの何が気に食わないのかな?とってもイライラしてるみたいだけど」
挑発するように笑みを向ければ、抑え込まれた感情の波が微かに泡立つ。
「あたしだけじゃない。アンタは総司や雪村君にも向けてたよね、その気っ色悪い『悪意』」
「…………」
「誰彼構わず向けてるわけじゃないよね、それ。ねぇ、なんで?」
上手く隠していたつもりか知らないが、おそらく総司も気付いていただろう。彼女の向ける『悪意』ーー怨恨、憎悪、嫉妬…たくさんの感情をないまぜにしたものに。
彼女を千鶴に近付けてはならない。その直感は正しかったのだ。理由がどうであれ、そんなろくでもないものを送りつけてくる奴に、あんないい子を近付かせて好い転がり方をするとは思えない。
「……悪意だなんて。そんな言い方、しなくたっていいじゃないですか」
ぽつりと、呟くように言った彼女の口が微かに歪む。あくまで穏やかに、静か過ぎる程に揺れ動かない感情が、微笑みの向こうに見えた。
「あなた、今、幸せでしょう?」
「どうして?」
「毎日が充実してる。楽しくってしょうがない。そんな顔をしてますよ」
「……そうだね」
事実だ。どれだけ忙しくても、あたしはこの世界での生活を楽しんでる。忙しいからこそ、毎日が充実してると言えるんだろうが。
「私はそれが、ほんの少し、羨ましいだけです」
ニコリ。微笑んだ彼女の感情がぶつかってくる。それは『羨望』と呼ぶにはあまりにも黒い。
だけど、それを口に出す余裕はあたしにはなかった。横道から、彼女の背後に現れた男たち。同じくあたしの背後にも男たちが現れ、計六人の浪士があたしたちを囲む。
「…ダメですよ。一人でこんな場所に来ちゃ」
ーーいや、違う。浪士たちが囲んだのは『あたしたち』じゃない、『あたし』だ。
「私があなたを誘き寄せるつもりだったら、この場所は格好の襲撃場所ですよ」
「ーー!!」
先ほど総司が千鶴に告げた言葉と全く同じだった。
『薫さん』は笑みを浮かべたままペコリと頭を下げ、あたしに背を向けるとそのまま歩き出す。前方を塞いでいた男たちは彼女の通り道をあけると、彼女が去るのを確認してまた塞いだ。あたしを包囲する形は崩れない。
「……」
彼女の姿が完全に見えなくなってから、あたしは深く溜め息を吐いた。
「もういいでしょ。あたしはアイツを追えない。アンタたちがここにいる理由はない筈だ」
浪士たちは一度もあたしに殺意を向けなかった。刀に手を伸ばすことさえしなかった。だからあたしは、彼らは『薫さん』の逃げ道を確保するためだけにその場にいるのだと判断したのだ。
案の定、あたしが刀をとることもせずに緊張を解けば、男たちは惜しむことなく出てきた横道へ身を滑らせていく。全員の姿が見えなくなり、気配を近くに感じることがなくなってから、あたしはもう一度溜め息を吐いた。
「……面倒な奴」
南雲薫。
出来ればもう、二度と会いたくない相手だ。