鍵師の憂慮
△ ▽ △



宗像草太は慣れた様子で商店街の路地を曲がった。昭和の置き土産のような店も多いこの商店街は、首都東京の都心にほど近いとは思えないような古めかしさを残している。年配者の多い商店街から一本裏の細い小路の途中に、目当ての店はひっそりと在る。これまた何年前からこうなのか、今日び田舎でもなかなか見かけないレトロな雰囲気の木製の戸を、草太は迷いなく引き開けた。

「名前、いるか」

店の中は薄暗く狭い。少し奥まった番台のような場所に、目当ての姿は無かった。天井まである木製の作り棚にびっしり並ぶカラフルで小さな箱は、ドラッグストアで見かけるような薬の類だ。ここは薬屋なのである。
もう一度草太が声を張ると、番台の向こう、そこだけやけに綺麗な障子の向こうから、はあいと間延びした女の声が聞こえた。どうやら店主は在宅だったらしい。

「草太?」
「…また寝てたのか。もう昼だぞ」
「ああそう」
「電話を何度も掛けた」
「そう?どこやったっけ電話」

開いた障子戸の向こうから姿を現したのは、まさしくたった今目覚めましたと言わんばかりの女だった。栗色の髪は妙な位置が膨らんで毛先が跳ねているし、襟元の伸びたTシャツにショートパンツから白い脚をさらけ出したまま、まだ開き切らない目をこする。いい歳の女性が、いくら知人が相手とはいえ人前に、まして店先に出て来るような格好では到底ない。草太は深い息を吐き出して、小言を飲み込んだ。

「鍵の修理を頼みたい」
「えー」

女はのそのそと番台に座る。高い位置にあるそこから、草太を少し見下ろして。

「高くつくよ」
「…勤労学生に払える範囲内で頼むよ」
「ふふ」

片肘をついて悪戯そうに口角を上げた彼女の様子に、草太は内心溜め息を吐いた。









彼女、名前はこの小さな薬屋、雲雀堂の主人だ。歳は草太と同じくらいに見えるが、確かな事は知らない。10年前までは彼女の祖母がこの雲雀堂の主人で、草太は祖父と時折訪れていた。先代主人が亡くなってしばらくここは閉ざされていたのだが、いつからか孫である名前が継ぐようになった。表向きは薬屋だが、実際に彼女が行う仕事のほとんどは別ものだ。数知れない顧客を抱え、しょっちゅう日本全国を飛び回っている。草太同様、それが名前の家業であるからだ。


「八尾、草太にお茶」
「はいよ」


番台の奥の障子の向こう、草太は畳敷きの床に胡座を掻いた。座ると同時に名前が後ろを振り向いてそう言うと、音もなく現れた背の高い男が短く返事をする。
この雲雀堂には名前の他に、八尾という男が暮らしている。彼女が雲雀堂を継いで程なくして、八尾はいつの間にかここに居着いていた。最初こそ草太も訝しんで名前に色々尋ねはしたが、家なし子を拾ったのだ、と彼女は笑うだけだ。短い髪はオレンジがかった明るい色をしていて、コンタクトなのか金色の混じった不思議な眼をした男である。


「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
「名前にはこっち」
「八尾分かってるう」


草太の前に切子のグラスに入った麦茶を置いた八尾は、続いてちゃぶ台の上に缶ビールを置く。ぱっと顔を綻ばせた名前に、草太はやはり息を吐く。


「昼間だぞ」
「夜じゃなきゃ飲んじゃいけないなんて法律はない」
「店も開いてるのに」
「おっと、閉めといて、八尾」


言いながら名前はさっさとプルタブを開けて、喉を鳴らしてビールを流し込む。彼女はいつもこの調子だから、草太もそれ以上はやめておいた。


「それで、鍵は」
「ああ、」


唇をぺろりと舐めて、名前がちゃぶ台に肘を付く。草太は首に掛かった紐を引っ張って頭から抜くと、そこに括り付けられた大切な鍵をこつんと置いた。


「おや、傷が付いてる」
「この間落としてしまって」
「ふーん?」
「そこにたまたま、車が通って」
「はあ、アンタもうちょっと大事にしなさいよ」
「ああ」


草太の商売道具である大切な鍵には、細く抉れたような傷が数本付いていた。先日地方に扉を探しに行った折、道路に飛び出した子どもを咄嗟に庇った。その時に落ちた鍵の上を車が通り抜けてついてしまった傷だったが、子供は無事だったので草太は心から安堵したものだ。とは言えそこまで詳しく話さないのが宗像草太という男である。


「んーこれは、ちょっと手間かな」
「なるべく早く頼む」
「材料がねえ、特殊だからこれ」
「来月、要石を探しに行く予定なんだ」
「ふーん。どこなの」
「宮崎」
「遠いねえ」


鍵を手に取り矯めつ眇めつしながら、名前がさして興味も無さそうに呟く。

草太は閉じ師だ。全国にある後ろ戸と呼ばれる常世とつながる扉を、今名前の手にある鍵で閉め歩く。中でも要石と呼ばれる強力な封印を施した扉は、破れると甚大な被害を及ぼす災いがこの世に現れ出てしまう。草太の家業はそれを防ぐための、一見地味ではあるものの大切な仕事だった。


「来月ならさ、今月は空いてるってわけだね」
「…いやまあ、それはそうだが」
「なら修理代に、私の仕事手伝ってもらおうかな」
「また妙なことをやらせるつもりじゃないだろうな」
「妙な事とは失礼な」


言いながら名前は笑っている。

名前の本業は薬屋、ではない。神社仏閣に納められている、神具仏具の修理である。しかしこれまでも名前の仕事を何度か手伝っている草太は、彼女がさまざまな呼ばれ方をしている事を知っている。神具師、薬屋、拝み屋、鏡屋、祓魔師、呪術師と、それらは多岐に渡る。名前は出張して神具を修復するだけでなく、禍ツ神を鎮めたり、狐憑きを祓ってやったりとなんでもする。彼女の血筋は平安の世から長らく続く神官の家系だったが、時代の流れもあって廃業したらしい。草太が知っているのはそのくらいで、詳しい事は教えてもらえないままだ。
そしていつからかその隣にいたのが八尾で、多岐に渡る名前の仕事だけでなく、住み込みで身の回りの世話までこなしている。

前回草太が名前の仕事を手伝った時は、北海道の山奥の寺まで重い荷物を運ばされた。その前には神隠しの調査だとかで八尾と揃って女装させられたこともある。草太の不安は尤もであった。



「御神鏡のお手入れでね、毎年行くんだ」
「毎年?」
「うん、気の良いおばあちゃんでさ、すんごい人なの」
「すごい人って」
「そう、イタコでね」
「へえ」

名前の話に、草太は少なからず興味を持ったらしかった。


「相談予約は8年先まで埋まってるような御仁だからね。草太も一度会っておいて損はないよ」
「俺が?」


どういう意味かと視線を向ける草太に、名前はふふんと自慢げに笑ってみせる。彼女の隣で、八尾も薄く笑った。


「けっこうパワフルな人だよな」
「そうそう、八尾なんて去年、お尻叩かれて」
「え」
「そうなんだよ、気合いが足りない!とかって言われてさあ」
「草太も気合い入れてもらいなよ」
「勘弁してくれ…」


スケジュール帳を開いて抜け目なく予定を立て始める名前に、草太は苦笑した。









△ ▽ △







「どうして草太を誘ったの?」
「ん」


鉄びんで沸かした湯を急須に注ぎながら、八尾がぽつりと呟く。名前は結局三本開けた空のビール缶を人差し指でつつきながら、八尾の方を仰ぎ見た。


「どうもこうも、面白そうかなって思っただけだよ」
「手伝いが要るような仕事じゃないだろ」
「そうだねえ、なんなら私一人で十分だね」
「…名前は何かと草太を気にかけるよな」


八尾は半分独り言のようにそう漏らして、軽く揺すった急須から湯呑みに茶を注ぐ。ふたつ並んだ湯呑みは名前が買ってきた物だ。名前のには猫、八尾のには狐の絵が描いてある。


「昔から放って置けないんだよ、あの子のことは」
「弟みたいってこと」
「まあ、そんな感じ。ほら草太ってさ、なんか俗世を憂いている感があるじゃん」
「…俗世を憂いている奴が、未来ある子どもたちの教師になろうと思うのか」
「いやなんて言うかさあ、一人でなんでも片付けて、整頓して、いつ居なくなっても迷惑が掛からないようにしてる…みたいな」
「まあ、確かに名前みたいに何でもかんでも散らかしっぱなしな奴が急に死んだら周りは迷惑だろうな」
「言うねえ」


目を細める名前を、向かいに座った八尾が呆れたように睨む。

彼女は生来の収集癖に加え仕事の関係もあって、とにかく様々な物を持っている。店の表にあるのは薬ばかりだが、障子一枚隔てた居住スペースは名前の仕事道具や仕事先で手に入れた趣味とも言える骨董品の類で溢れている。古い木造住宅は二階建てで、名前と八尾は二階で寝起きしているが、彼女の自室は服やら化粧品やらでごった返しているので一階の居間で寝入ってしまう事も多い。それらを適宜整頓して、日々掃除しているのは八尾だ。若い男女が一つ屋根の下で暮らしているというのに、名前は八尾の前で恥じらいを見せたことなど初めから一度もない。というか彼女は生来恥じらう心など持ち合わせてはいないのだろうと八尾は思っている。


「それにほら、ハルコさんイケメン好きじゃん。喜ぶよ」
「ああまあ、それはそうかも」


ハルコさん、とは件のイタコであった。八尾は昨年散々可愛がられた事を思い返して、苦い顔で笑いながら茶を啜った。

名前は八尾の事を聞かれる度に、家なし子を拾った、捨て犬を拾ったなどと適当に答えては草太を呆れさせていたが、それはあながち間違いではない。実際に八尾は半ば行き倒れていたし、名前が拾ってくれなければ今は生きてさえいなかったかもしれなかった。体調が回復してなお追い出す事はなく、体の良い小間使い代わりにされているのは確かだが、実際に帰る場所のなかった八尾にとっては衣食住に困らないのは何よりありがたかった。名前は命の恩人であり、今やほとんど家族のようなものだ。事実自分が来るまでの間どう生活していたのか八尾が不安に思う程度には、彼女の生活力は乏しかったのだ。
出会ったばかりの頃は姉を取られた弟のように警戒していた草太も、八尾がいた方が名前の暮らしが安定していることに気付くと警戒を解いた。実年齢にそぐわずどこか大人びている草太は、確かに時折心配になる。友人がいない訳ではないようだが、決して多くは無さそうだった。


「草太に必要なのはさ、青春だよ」
「青春?」
「そう。甘酸っぱい恋とか、ドキドキのときめきとか、そういうやつ」
「アイツ、そういうのに興味ないだろ」
「まあ青春っていうにはちょっと大人になり過ぎたかもしれないけど。ああでもほら、年齢は関係ないって言うし?」
「名前はあったの、青春」
「そりゃまあ、人並みに?」
「嘘つけ」
「何でだよ失礼だなあ」
「草太に青春が必要なら、名前には自立が必要だな」
「私はいいの」
「なんで」
「八尾がいるじゃん」
「……はあ」


悪びれることなくそう笑う名前に、八尾は浅い息を吐いた。生活力に乏しく家事の一切を嫌う彼女の事が、しかし八尾は嫌いになれる事などなかった。いつもなんとなく無気力で、へらへら笑っていて、仕事の時だけはきちんと真剣にこなす名前の世話は、案外やり甲斐のあるものだったからだ。







△ ▽ △








新幹線の三人掛けの座席に、名前を真ん中にして並んで座って一時間と少し。両手に華だと笑っていたのはほんの数分で、名前はあっという間に眠りに就いた。徐々にずり落ちた頭が草太の肩にもたれて、すうすうと子どものような寝息を立てている。窓側に座っていた八尾が小さく笑った。


「重くない?こっちに寄せようか」
「いや、大丈夫だ。よく寝てる」


もたれているとは言え、名前の体重のほとんどは背もたれに乗っているのでさほど重みを感じない。草太はそう言ってから、ふと思った事を口にした。


「…八尾は名前が好きなのか?」
「ん、え?」


名前の寝顔を後で揶揄いのネタにするべくスマホで撮ってやろうとしていた八尾が目を丸くする。冗談かと思ったが、草太の顔は真剣だ。


「好き、っていうのは」
「いや、名前が俺の肩に乗っているのは、嫌なのかと」
「俺が草太にヤキモチ妬いてるってこと」
「ああ。違うのか」


たとえそう思っても、馬鹿正直に口に出すものだろうか。八尾は頭を抱えたくなる。名前、コイツには青春云々の前にまだ学ぶべき事がありそうだ、と。


「そんなんじゃないよ。好きな女と普通に一緒に生活できるか?」
「出来ないのか」
「ええ?いや普通、出来ないんじゃないのか」
「…好きなら、一緒にいられて嬉しいだろ」
「そうじゃなくて…お前も知ってるだろ。名前、酒飲んで絡むしそのまま腹出して寝るし、風呂上がりなんか平気で下着でうろつくし」
「そうだな」
「好きな奴だったら、そんな事されたら一緒に住めない」
「…そういうものか?」
「我慢できないだろ」
「我慢」
「別に名前が嫌いな訳じゃない…っていうかまあ確かに、俺はコイツのこと好きだけど、そういうヤキモチ妬くみたいなのじゃないよ」
「そうなのか」
「そ」


八尾の言いたい事は、おそらく草太には半分も伝わっていないのだろう。草太には青春が必要だ、と言い放った名前の台詞をやはり思い出しながら、八尾は今度こそ名前ののんきな寝顔を写真に撮ってやった。






新幹線を降りて在来線に乗り換え二時間、そこからタクシーで更に40分ほど走った先、たどり着いたのは立派な日本家屋−−ではなかった。築浅の綺麗な平屋建ての住宅はモダンなデザインで、全体的に時代を感じる集落の中では取り分け都会的な印象すら受ける。草太は少し意外な気持ちで名前の後に続いた。


「ハルコさーん、来たよー」


インターホンに向かって名前がのんびりと言うと、すぐに戸が開いて中からエプロン姿の若い男が顔を出した。どうやら件のイタコの世話係らしく、手慣れた様子で長旅ご苦労様でした、と三人に微笑み掛ける。通された居間はやはり内装もモダンで、住宅誌にでも載っていそうな雰囲気だ。
男が三人に茶托に乗った湯呑みを配り終えたところで、奥の扉が音もなく開いた。


「名前ちゃん、八尾ちゃん、待ってたわよ」
「ハルコさん、ご無沙汰してます」
「お元気そうで何よりです」


ソファーから立ち上がって頭を下げた名前と八尾に倣い、草太も腰を浮かせて頭を下げる。彼女がハルコさん−−件のすごいイタコ、らしかった。


「おやまあ、今年は一人増えてる」
「ええ、大勢で押し掛けてすみません」
「まあまあ名前ちゃん、また拾ったの?」
「あはは、違いますよ。私の幼なじみみたいなもので」
「…はじめまして。宗像草太といいます」


化粧気のない老婆が向かいに腰を下ろしたところで、名前達も座る。ハルコの視線が真っ直ぐ草太を射ていた。


「宗像、って、羊郎さんと同じ苗字ね」
「え」
「さっすがハルコさん、羊郎さんのお孫さんですよ」
「あらやっぱり?懐かしいわねえ」


破顔するハルコに対して草太は目を丸くする。祖父の名が出て来るとは思っていなかった。


「祖父とお知り合いでしたか」
「昔ね。もう40年も前の話だけど」
「それは、存じ上げず失礼を」
「いいのよ、真面目な子だねえ」
「そうでしょう?面白みのない男なんですよ」


名前がにやにやしながら草太を肘で小突く。ハルコとの付き合いは長いのだろう。おそらく彼女の先代からの顧客なのだと草太は考える。草太の祖父は優秀な閉じ師であったから、全国各地に知人が多い。同じように名前の祖母も日本中を飛び回っていて、二人は今の草太と名前のように古くから友人であり仕事仲間であった。


「八尾ちゃんも、元気そうね」
「ええ、おかげさまで」
「嬉しいわあ、イケメンが二人も来てくれて」
「ちょっとハルコさん、主役は私ですからね」
「はいはい、分かってますよ」


悪戯そうに笑ったハルコが立ち上がる。先ほど彼女が現れた両開きの大きな引き戸を引き開けると、草太はわずかに息を飲んだ。


「それじゃあ、私は仕事にかかりますよ」
「ええ、よろしく頼むわね」


モダンな居間から段差無く続いた向こう側、広い畳敷きの和室には、ハルコの背より高いであろう立派な祭壇があった。紙垂の下がった白木の祭壇の上に、直径20センチほどの縁のない鏡が鎮座している。静謐な雰囲気に草太は思わず背筋を伸ばす。

名前が立ち上がって大きなカバンを持ち和室へ向かう。部屋に入る前に一度膝をつき、深く礼をする。音もなく立ち上がって部屋へ入ると、こちらを振り向いてにこりと微笑んだ。


「では、後ほど」


そうして彼女は戸を閉めてしまった。凛とした空気がぴたりと遮られ、穏やかな陽光の差す居間に時間が戻る。草太ははっとした。いつのまに息を止めていたのだろうか。
名前の仕事に同行するのは、もちろん初めてでは無い。普段の名前といえば格好も行動もルーズで、興味の赴くままに暮らしているイメージだ。しかし神具仏具に向き合う時、その印象とは真逆の姿を見せる。のんびりとした自由気ままな彼女が、途端に凛と張り詰めた雰囲気を纏う。大きな口で笑うことも、にやにや目を細めることも、足を開いて座ることもない。多少見慣れたものとはいえ、草太は未だに驚いてしまう。


「相変わらずねえ、名前ちゃん」
「相変わらず手が掛かりますけどね」


思わず動きを止めたままだった草太と違って、ハルコと八尾はのんびりと茶を啜った。薄い引き戸一枚隔てた向こう側で、これから名前は御神鏡の手入れにかかるのだろう。その作法や方法は草太には分からない。


「ところで、草太ちゃん」
「…はい?」


向かいに腰掛けたハルコが不意にそんな呼び方をするものだから、草太は目を瞬いた。


「私ね、イタコなのよ」
「あ、ええ、名前から聞いております」
「霊を降ろす事も出来るけど、降ろさなくても分かることも沢山あるの、この歳になるとね」


ハルコさんのそれは歳関係ないよな、と八尾が横で呟く。ハルコの目は柔らかく笑んでいるが、その奥はやけに力を持ち、光を帯びているように見える。


「草太ちゃん、あなたの願いは、近いうちに叶うわよ」
「俺の、願い」
「でもあなたの願いは、本当にそれなのかしらね」
「…なんのことですか」
「羊郎さんもねえ、あなたくらいの歳の時には色々思い悩んだものよ」
「祖父が?」
「そりゃそうでしょ。悩むのは若者の特権よ」
「はあ…」


不思議な感覚だった。閉じ師という家業は基本的に一人で完結するものであり、だからこそ名前や彼女の祖母のように顧客を抱えて知り合いが増えていくことはない。寡黙で厳しい祖父もしかし、若い時には閉じ師としての自分に葛藤があったのだろうか。草太は病院のベッドに横たわる祖父を思い浮かべるが、そんな姿はとても想像がつかなかった。


「草太の願いって、なに」
「俺の願いは…」


八尾の言葉に草太は唇を結ぶ。漠然とした思いではあるが、願いだなんて綺麗な言葉にするには不釣り合いな気がした。

例えばこのまま人知れず家業を続けて行ったとして、行き着く先には何も無い。例えば名前やハルコのように、その人でなければ出来ない仕事というわけでもない。知識と経験を積めばある程度は誰にでも出来るだろう。家族は年老いた祖父しかおらず、遠からず自分はひとりぼっちになる。死にたいとまでは言わないが、いつ死んでも構わない−−とは、いつからか草太の中にある確かな気持ちであった。
そしてそれが叶う、ということは、つまり。


「…草太ちゃんにも、人生を変える出会いがあるのよ」
「出会いですか」
「そう。それまでの考えや経験がひっくり返ってしまうような出会い。人ってのは誰しも、そういう相手がいるものなの。最初はそうと気付かなくても、こうして人生も終盤に差し掛かってくるとね、あああの時諦めなくて、あの時あの人に出会えて、私の人生はこれで良かったのだな、なんて思うものよ」
「そう、ですか」
「自分のことを信じてあげなさいね。きっとあなたなら大丈夫よ」
「…はい」


深いシワがいく筋も刻まれたハルコの眼差しはひどく優しかった。もしも願いが叶ってこの寂寞とした人生が終わるとして、ならば人生を変える出会いはいつやって来るのだろうか。それとももう出会っているという意味なのだろうか。草太は考える。


「名前も言ってたよ、草太には青春が必要だって」
「青春?」
「そ。もっとドキドキしろってさ」
「なんだそれは」
「あら、名前ちゃんはやっぱり分かってるわねえ」


ハルコと八尾が笑い合う。草太だけがどこか取り残されているようだった。


「八尾ちゃんにとっての人生を変える出会いの一つは、間違いなく名前ちゃんだわね」
「あーまあ、それはまあそうかも知れないけど」
「だからっていつまでもうじうじしてると、とんびに攫われるわよ」
「だからあ、俺は別にそういうんじゃないって」
「何年続けるのかしらねえ、それ。やっぱり気合いが足りないんじゃないの」
「えっいや大丈夫、足りてる」


八尾が思い出したようにぎくりと肩を揺らす。そういえば八尾は去年尻を叩かれたとか言っていた。思わず草太も苦笑する。
確かに名前と八尾はいいコンビで、そこには長年連れ添った夫婦のような老成した雰囲気すらある。それに何より名前の生活水準が人並みに保たれているのは、八尾の世話あっての事だ。おそらく彼がいなければ、あの薬屋兼自宅は名前の収集癖と怠け癖によって大変な事になっていただろう。互いを信頼し、言葉にしなくとも感情を共有し、存在だけで安心できる。男女間の感情についてはこと疎い草太でさえ、二人が互いを大切に思い合っている事は分かった。


「八尾は名前とは結婚しないのか?」

だからそれはふと浮かんだ疑問だったのだ。名前は草太の少し歳上で、八尾の歳は知らないが彼女と同じくらいに見える。つまり二人とも妙齢であるわけだ。


「なっ、バ、何言ってんだ草太!」
「え?」

しかし純粋な問い掛けだった草太に対し、八尾は金色がかった目をまん丸にして声を荒らげた。


「そういうんじゃねぇって言ったろ!」
「そう…なのか?」

色白な八尾の頬に僅かに朱が差したように見える。口調が乱暴になるのは八尾が焦った時の癖だが、草太は知らなかった。八尾はいつもどこか飄々として、少し離れた場所から冷静に周囲を見ているような雰囲気があった。


「八尾は名前が好きだろう」
「ハァ…だから、そういうのじゃねぇの」

肩を落としてこれ見よがしなまでに溜め息を落とす八尾だったが、一際楽しそうな笑い声がとどめを刺す。

「あっはっは、だから、ねえ、周りの者にはバレバレなのよ、草太ちゃんは分かってるわねえ」
「ハルコさんまでやめてくれ」

八尾は頭を掻いて、それからぽつりと漏らした。

「俺は結婚なんか出来ないんだよ」
「八尾ちゃんは本当、頭が堅いわね。今どき珍しくないわよ」
「そんなわけないだろ…」
「ま、せいぜい名前ちゃんに変な虫がつかないようによぉく目を光らせてることだわね」
「へーへー」

八尾とハルコの会話の意味は、草太には分からなかった。










「ハルコさん、終わりましたよ」
「あらお疲れ様。ありがとうね」
「あれ、八尾と草太は」
「ふふふ、今裏で薪割りしてくれてるわ」
「それはそれは」


一時間ほど経った後、祭壇の部屋から出て来た名前は満足そうに微笑んだ。ハルコの世話係がお茶とケーキを持って来て、名前は目を輝かす。


「ハルコさんの御鏡様は、何より気を遣います」
「あらそう?お利口でしょう」
「はは、相変わらずのじゃじゃ馬ですよ」
「そうねえ、それがいいのよ。たくさん採れた?」
「ええ、お陰様で」


名前はかばんから小瓶を取り出す。きっちり栓がされ、小さな瓶を覆いそうなくらいの呪符で封じられている。
ハルコの鏡は特殊なもので、人の邪気を吸い込む特性がある。彼女の家に代々伝わるもので、数年に一度邪気を抜いてやる必要があった。ハルコの顧客は膨大で、だから毎年名前が邪気抜きにやって来るのだ。そうして溜まった邪気を持ち帰り、コレクションに加えている。


「どうするの?それ」
「案外使い途は多いんですよ。この間は餓鬼を誘き寄せるのに大活躍でした」
「あなたは本当なんでも出来るわね」
「ハルコさんがコレを分けてくださるからですよ。私の仕事はみんな繋がって、誰かのお世話になってます」
「八尾ちゃんとかね?」
「そうそう、八尾は本当にいい助手です。その餓鬼を一網打尽にしたのも結局八尾でしたから」
「ふふ、仲良しねえ」
「…私の仕事も生活も、私一人では成り立ちません。ハルコさんや八尾を含め、たくさんの人のおかげです」
「そうね。草太ちゃんも、そんな風になれたらいいんだけど」


ハルコがケーキを口に運ぶ。名前もそれに倣って小さなケーキにフォークを刺した。


「……草太は、大丈夫でしょうか」
「そうねえ」


名前が草太を連れて来たのは決して気まぐれではない。ハルコが人気たる理由は、単に降霊の精度が高いからだけではない。未来を視る力、つまり予知能力があり、その助言を聞きに全国津々浦々、果ては海外からもお忍びで要人がやって来る。彼女の言葉は悩み迷う人の心に温かく寄り添い、邪気を祓って進む力を与えてくれる。だからこそ、名前は草太を引き合わせたのだ。


「大学に入って友達も出来て、そのうち恋人とか出来て、そしたら少しは変わるかなと思ってたんです。でも相変わらずで」
「もっと自分を大切にしてほしいものだわね」
「そうなんですよ。他人のために迷わず自分を投げ出して、それで満足して死にに行きそうで」
「名前ちゃんは、草太ちゃんが大好きなのね」
「ふふ、大好きですよ。あの子は昔から頑張り屋で、真面目で、とっても大切な弟分なんです」
「そうねえ」
「ねえハルコさん、草太、ほんとに大丈夫ですか」
「……名前ちゃん、草太ちゃんはきっと大丈夫よ」


眉尻を下げてどこか不安そうな名前に、ハルコは柔らかく微笑んだ。


「死んだりしないですよね?」
「さあ、それはどうとも。人は皆いずれ死ぬもの」
「ちゃんと沢山歳を取って、幸せになって欲しいだけなんです」
「それはまた、随分欲張りねえ」
「だって」
「大丈夫よ。草太ちゃんはきっと、大丈夫」


誤魔化されているような気がして名前は唇を尖らせるが、ハルコは無責任な事を言ったりしない。それを知っているから、名前は小さく息を吐いた。


「ま、ハルコさんがそう言うなら大丈夫かな」
「それより八尾ちゃんのこと、もうちょっとどうにかしてあげなさい」
「八尾ですか?」
「俺は結婚なんて出来ない、なんて言ってたわよ」
「結婚?八尾にそんな相手がいましたか」
「……全くこれだから」
「え?」
「名前ちゃんも、もっと自分の将来を考えることね」
「私ですか?私はまあ、これからもこの通りのんびり好きな事をして生きていきますよ」


大きな口でケーキを食べながら、名前は悪戯そうに笑って見せた。










△ ▽ △






「お、草太。いらっしゃい」
「出来たか」


その日も草太は雲雀堂の戸を潜った。番台に腰掛けてにっこり笑う名前が、草太の大切な鍵を少し上げて見せる。


「ぴかぴかにしといたよ」
「…ありがとう。助かった」
「大事にしなよ」
「ああ」


名前から鍵を受け取った草太が大切そうにそれを首に掛ける。後ろの障子戸から顔を出した八尾が、良かったな、と笑った。


「これから行くの?宮崎」
「ああ」
「ふーん、お土産頼むよ」
「考えておく」


リュックを背負った草太が微笑むのを見て、名前は目を細めた。


「草太」
「ん?」
「気を付けてね」
「ああ」


ハルコの言葉が、草太と名前、どちらの胸にも響く。草太の願いが間もなく叶う−−きっと、草太は大丈夫−−


「名前」
「ん」
「八尾と仲良くな」
「…は?なに急に」


先ほど閉めたばかりの戸に手を掛けたまま、思い出したように草太が振り返ってそう言った。
名前は言葉の意味がわからず、後ろに立っていた八尾と目を合わせる。


「八尾はな、名前の事が好きらしい」
「…ん?」
「おい草太、何言ってんだお前」
「だから、仲良くな」


今度こそ戸を引き開けて、草太が薄く笑んだ。差し込む日の光の中に草太の姿が溶けていくような気がして、名前と八尾はわずかに息を呑む。


「草太」


光の中へ進んで行く草太を呼んだのは八尾だ。


「行ってらっしゃい」


色々な言葉を飲み込んで一言だけそう言ったのは名前だ。


「…ああ、行ってくる」


ぱたん、戸が閉まる。






鍵師の憂慮
おかえりって、ちゃんと言わせてね。








「……大丈夫かなあ、草太」
「どう、かな」
「なんか心配だね」
「だな」
「ねえ、八尾」
「ん」
「私の事好き?」
「……逆に、嫌いだと思うのか」
「それはないかなあ」
「ならいいだろ」
「うん」
「…名前」
「ん」
「………ビール飲むか」
「ん!飲む」










→extra story
名前と八尾の出会い
(草太は出てきません)
鍵師の拾い物





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