鍵師の拾い物
△ ▽ △





12月の冷たい雨が、街の全てを鈍色に染め上げてしまうような日だった。名前はビニール袋を提げた手をポケットに突っ込んで、簡素な傘を差して足早に歩いていた。雲雀堂の主人となって一年、店はまだ閉めている日の方が多い。さすがにそろそろ増えすぎた荷物を片付けなければ、居住スペースが無くなりそうだった。帰ったら片付けを始めよう、その前にお風呂に入って、ビールを飲んでから。そう思いながら水溜りを踏んだ足は、はたと止まった。
道の脇、古びたビルとビルの隙間のような場所に、うずくまるオレンジ色が目に入った。


「………犬?」


名前は迷いなく近付いてしゃがみ込む。人ひとりようやく入れるかどうかくらいの隙間に、ところどころ茶色く汚れた大きな毛玉がいた。捨て犬、迷い犬、死んでいるのだろうか。名前は恐る恐る手を伸ばす。丸まったそれに触れると、短くてやや硬い毛がびっしり生えたその下に、柔らかな温度があった。生きている。が、反応はない。名前は着ていたダウンジャケットを脱ぐと、それを包むように掛けてやる。そうして力を入れて抱き上げると、やはりそれは犬のようであった。柴犬の血が入った雑種犬。名前はそう判断して、ダウンジャケットごと胸にしっかり抱えて、小走りで間近の雲雀堂を目指したのだ。

見たところ怪我は無さそうだった。ふさふさの大きな尻尾はだらんと垂れたまま、犬は目を開けない。名前は元来動物好きで、捨て犬や捨て猫は放って置けない性分だった。今は亡き祖母に何度叱られても、連れ帰って甲斐甲斐しく世話を焼いてやった。浴室にタライを持ち込んで湯を溜め、泥だらけの犬を洗う。丹念に洗って乾かしてやると、輝くようなオレンジ色の毛並みがふわふわと蘇る。暖房を付けるのも忘れて汗を掻きながら犬を真新しいバスタオルで包み直してやったところで、名前は深く息を吐いた。
目が覚めた時不安になるだろうと、大きめの段ボール箱に急拵えの寝床を作る。毛布を敷いてバスタオルごと犬を入れてやり、それからようやく暖房を付けて、シャワーを浴びに浴室に戻った。滅多に見ないテレビの横に置かれた振り子のようなガラス細工が、風もないのに揺れ続けていた。







△ ▽ △






犬を拾って3日目の朝だった。せっかく買ってきたドッグフードには口を付けなかったが、かつお節を掛けたパックの白飯はよく食べるわがままな犬にその日も名前はそれを出してやった。目覚めて以降一度も暴れたり噛みついたりしないばかりか、怯える様子も見せない犬に名前はひとつ息を吐いた。


「君、どこから来たの」


ちらりと名前を一度見て、犬は食事に戻る。がつがつ食べることはなく、一口ずつゆっくりと食べる様は優雅ですらある。小さな黒い鼻が上下している。


「ねえ」


黒いまつ毛に縁取られた金色の目が、咀嚼しながら名前を見上げた。


「君、犬じゃないよね」


名前の声が少しばかり低くなった。


「いったい何者なの」
「お前こそ、何者だ」



この部屋に名前以外の声が響くのは、随分と久しぶりの事だった。
居住まいを直すようにきちんと背筋を伸ばして座った犬−−ではない何かは、ほとんど口を動かさずに、しかし確かにそう言ったのだ。名前はわずかに目を見開いた。



「しゃべ、れるの」
「……ああ」
「犬、じゃないよね」
「犬ではない」
「じゃあ何?」
「……なぜお前は驚かない」
「…君が普通の動物じゃない事は、分かっていたからね」
「そうか」
「驚かないんだね」
「奇怪な家だからな」
「奇怪って」


名前が笑う。片や犬ではない何かは、少しも表情を変えずに(或いは人と違って表情が変わるものではないのかもしれないが)長い息を吐いた。


「助けてくれたことに礼を言う」
「どういたしまして」
「俺は狐だ」
「ああ!狐か!」


今度は合点がいったとばかりに目を丸くして楽しそうな顔をする。ころころ変わる名前の表情に、犬ではない何か、狐は、わずかに目を細めた。


「お前は何者だ。普通の人間ではないな」
「普通の人間だよ」
「神具と呪物を蒐集する人間が普通なものか」
「趣味を兼ねた家業だから」


ほとんど趣味だな、と狐は思う。この家は決して狭くは無いが、とにかく物で溢れかえっているのだ。


「私は名前。ここは薬屋。本業は…神仏具師だけど、何でも屋。色々あるけど一番気に入ってるのは鍵師」
「名前」
「そう。君は?狐って名前あるの?」
「俺は、……今はもう、名はない」
「ほう?」


狐は視線を畳に落として、それからゆっくりと話し出した。

隣町にあたる繁華街の裏通りに、その神社はひっそりとあった。祀っているのは御狐神で、商売繁盛の神とされる稲荷神社であった。小さいながらも長い歴史を持つ神社であったが、管理する人間が居なくなり、手入れされなくなり、繁華街に位置することもあり再開発の手が入る事となった。本来神社の取り壊しとなれば、神職が遷座や御魂抜きの儀を行うのが通例である。ところが土地を買い上げた業者はそれをせず、そのまま取り壊しあっという間に更地にされてしまったのだ。ずっとそこにいた御狐神は、長年放置されていた事により力を失いかけていた。反撃に出ることはおろか、祟りの一つもくれてやれないまま、その地を去る他なかったのだ。そうして社を失った御狐神は、信仰心という力の源泉を完全に失い、元の狐の姿で彷徨っていた。それを見付けて連れ帰ったのが、他でも無い雲雀堂の主人であったわけだ。




「へえ、神様なの」
「元、だ。今はもう、そこまでの力はない」
「そっか、タメ口きいちゃってまずかったかと思ったけど、まあ元ならいいか」
「……」


狐は今度こそ呆れ返った。
喋る狐に驚きもせず、神であったことを話してみても気にする箇所が完全におかしい。若いくせに古びた家に一人で暮らし、あらゆる神仏具や呪物の類いに囲まれて暮らす女が変わり者である事は一目で分かっていたが、ここまでとは。


「神様になる前は、ただの狐だったの」
「生まれは京都だ。若気の至りで陰陽師に捕えられた」
「陰陽師!知り合いに一人いるよ」
「…神として祀られる前は、妖狐だった。ただの狐だったのはその前だ」
「へえ」
「昔は仲間が大勢いたものだ。中でも俺は力が強かった」
「ふーん、見た感じ普通の狐だけど」
「…」


狐にとっても、誰かとこんな風に会話をするのは随分と久しぶりだった。懐かしさすら覚える妙な感覚ではあるが、物怖じ一つしない名前の方が自身より珍しいような気さえしてくる。


「ん?神様じゃなくなったなら、妖狐に戻ったってこと?一マス戻る的な」
「まあそうだろうな。ただの狐は人語を話したりしない」
「そっか。見た感じは妖狐もただの狐なんだね」
「……」



狐はそこで押し黙り、それから一拍置いてこほんと一つ咳払いをした。別に名前にただの狐、と言われた事が気に障ったわけではないが、何を言っても驚かないこの女を少しばかり驚かせてやりたいという悪戯心が湧いたのだ。


「うわ」


ほんの一瞬、部屋の中が真っ白になるくらいの眩ゆい光に満たされた。思わず目を瞑った名前が目を開けると、そこにいたのは。


「す、…っごい」


後光を纏うかのように光を放つ、それは美しい狐だった。体躯は先程と変わらないが、違うのは尻尾だ。扇のように幾本ものふさふさした大きな尾が、狐の後ろで揺れていた。


「九尾の狐だ!」
「驚いたろう」


今度こそ口を開いたまま目を輝かす名前に、狐はわずかに顎を上げて少し自慢げにそう言った。


「すごい!初めて見た!綺麗!」
「ふん」


名前はやおら立ち上がり、座ったままの狐の周りをぐるりと回る。顔を埋めたらさぞかし気持ち良さそうなふさふさの尻尾が揺れる。


「ん、あれ?いち、にい、さん、し、……八本しかないじゃん」
「…力が足りないのだ。信仰を得られぬ、社も持たぬ神は神ではなくなり、妖に戻る」
「てことは、力が戻れば九尾に戻る?」
「そうかもな」


例え理論上そうであっても、そうはならないのだろうと狐は思った。信仰を集める、社に丁重に祀られる、それは今の世では簡単なことではない。繁華街の裏通りに暮らしていた狐は、時代が変わりきってしまったことをよく分かっている。


「…君はこれからどうするの」
「さあ」


変わった時代のためだけでなく、この町は古くから生きる妖が住むには厳しい。都心にも妖の類いは無数にいるが、どれもこの時代だからこそ存在するような新参ばかりだ。どこか自然の残る山まで行って、おとなしく狐として暮らすか、或いは名前が最初に勘違いしたように、犬のふりでもして人の世に紛れるか−−狐にとってはどちらもぴんと来なかった。


「行く宛、ないんでしょ」
「まあないが、俺は妖だ。どうとでもするさ」
「誰かに取り憑いたりとか?ホンモノの狐憑きにはまだ出会ったことないんだよね」
「憑かれたいか?」
「私は勘弁」
「人に取り憑いたところで面白い事など何もない」
「ふーん」


名前は思案顔で、再び狐の前に座り込む。それからにやりと口角を上げた。


「じゃあさ、ウチにいれば?」
「……」
「おばあちゃんの薬屋継いで、家業もやってるけどさ。一人だと色々ほら、寂しいし」
「友人がないのか」
「いない訳じゃないけど…ってそうじゃなくてさ。行くとこないならここに住みなよって話」
「妖と暮らす気か」
「君は妖だけど、悪い奴じゃなさそうだから」


何をもってそう言い切るのか、狐はしばし呆気に取られた。名前は名案だろうと鼻高々な様子で、変な女ではあるが悪人ではないのだろう。それに正直、渡りに船であった。


「……そうか。では、世話になる」
「お、やったあ」
「できる範囲で、お前の仕事とやらも手伝おう」
「神様なのに偉ぶらないんだねえ」
「もう神ではないからな」
「いやあ、嬉しいな」


名前は屈託なくそう言って笑った。狐もつられてわずかに微笑む。仕事の手伝いの前に、まずはこの家をまともに住めるように片付けなくてはならないだろう。まずはあの神具を箱に仕舞って、あそこの呪符をもっと高い場所まで移動させねば。案外まめな性格であるらしい狐は、少しばかり温度の上がった息を吐いた。


「よろしく頼む」
「こちらこそ。ああそうだ、名前がないと困るね」
「…好きに呼べ」
「えー何か希望ないの?狐だから、コン太郎とか…」
「それは嫌だ」
「即答じゃん。じゃあ、尻尾が八つだから…八尾」
「苗字のような気もするが」
「八尾コン太郎」
「……八尾でいい」
「オッケー。ではよろしく、八尾」
「ああ。よろしくな、名前」







鍵師の拾い物









「おい名前、いい加減に起きろ」
「……ん、え?どちら様」
「一晩で忘れる奴があるか。俺だ、八尾」
「はい?八尾はもふもふでふさふさのコン太郎であって人間じゃないですけど…」
「早く起きろと言ってるんだ。俺がそのもふもふの八尾だ。不便だから人型を採っているだけだ」
「え」
「ん?」
「八尾、人になれるの」
「造作ない」
「ええ、すごーい…」
「オイ待て寝るな。起きろと言ってる」
「んん…」
「あとコン太郎は却下したはずだ」



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -