『昨日から降り出した雨はエンジュ、コガネ周辺に降り続いています。お出掛けの際は必ず傘をお持ちください。この雨は夕方にかけて――』
ざあざあと降り続いている雨の音が、テレビの音と一緒に耳に届く。何気ない日常の音すら、今の俺には騒がしく聞こえるようだった。
いつからこうしているのか、感覚が麻痺してよくわからない。ただずっとこの椅子に座って、透明なガラスを挟んだ先を見ていた。バタバタと忙しそうに小走りで目の前を過ぎて行くジョーイさん、それに続く看護ポケモンのラッキーは俺がじっと眺めているだけだった部屋に入って何かを見ているようだ。
ふと、振り向いて窓から外を見てみると、窓にたくさんの水滴がついてあんまり見通しが良くなかった。それでもどんよりとした空の色はわかる、晴天なんて言葉とはかけ離れた天候だ。さっきまで音も聞いていたはずなのに、俺はそこでやっと大雨が降っていることに気付いた。
「…大丈夫かい」
最近聞き馴染んだ声だ。いつもはどこか気だるそうなのに、今はどこか真剣みを帯びていた。この前あったときには薄汚れていた白衣は今日は綺麗で、新しいものに代えたのか、それとも洗ったんだろうか、とか思考を巡らせていると差し出されたのは温かそうな湯気をたてた紙コップだった。
受け取って両手で握れば、その温かさが手の平から全身に巡るようだった。こんなに体が冷えていたのか、と妙に冷静な自分が不思議になる。
「君まで倒れたら大変だ」
隣に座った研究員はいつもの調子で笑った。きっと気を遣わせている。でもそれにちゃんと応えられるような余裕は、今の俺にはなかった。
「なんで…」
やっと搾り出せたと思った声は、返事でもなんでもなく。
「なんで…こんな事に、なってんだよ…」
ガラスに映りこんだ自分を睨むように、自分を責めるように呟いていた。
目の前の部屋から出てきたジョーイさんは隣の研究員の名前を呼ぶと、俺から少し離れたところでカルテらしきものを見て話し始めた。
椅子から立ち上がりガラスに近付けば部屋の中がよく見えた。子供の俺にはよくわからない機械がたくさんあって、部屋の中央にはカプセルのような横長のものがある。たくさん管が通されたその中には、苦しそうな呼吸を繰り返すポケモンが一匹。
ブビィだ。そこらへんのブビィじゃない、俺の相棒で、いつも一緒だったあの。首もとに掛けられたネックレスがなによりの証拠だ。早い呼吸に合わせて上下する羽飾りが、淡い照明の光に照らされてキラキラと光っていた。ブビィの様子とは正反対に活き活きと。
ざあざあと降り続く雨の音が空だけじゃなく俺の心にも暗雲を運んでくるようで、思わず俯いて目を閉じた。









公園から出た俺たちは、コガネ、キキョウ、そしてまだ行ったことのないエンジュシティに続く道に分かれている36番道路でアドスに追いついた。
俺とブビィが前に出て睨みつけると、アドスは余裕の表情でパラセクトの頭を撫でてこちらを見据えていた。
「今ならまだ戦わなくても許してやるけど?」
「馬鹿言うなよな!」
強めの風が吹き、ざあっと周りの木々を鳴らすように揺らした。勝負をしっかり見たいのか、少し離れた切り株に座ったルエノ。モココも隣で切り株にもたれる様に座った。逆側ではルーが不安そうにゴースを抱きしめ俺とアドスを見ているのがわかった。
アドスが軽くパラセクトを押し出すような仕草をすれば、それに従うようにパラセクトが前に出た。弱くはないことは見てわかった。力強い、どこか威圧的なものも感じる。
でも、ルエノとモココ、ルーとゴースには感じられる…絆のようなものが見えない気がした。
「ブビィ、勝つぜ!」
「ブビ!」
力強く頷いた俺のパートナーは、口から黒煙を噴き出してバトル相手のパラセクトを睨んだ。
「ルエノ、合図頼む!」
「わかったわ。ちゃんと見とくから、ジャッジも任せて。準備はいいわよね?」
「勿論!」
「いつでも」
身構える俺とブビィとは反対に余裕そうなアドスに少しもやもやする。すっとルエノが右手を上げ、次の瞬間勢いよく降ろして合図を叫んだ。
「始め!」
「クロスポイズン!」
「ほのおのうず!」
同時に叫んだ俺とアドス、そしてそれを聞いて同時に動き出したブビィとパラセクト。ブビィが吐き出した炎がうずを巻いてパラセクトをのみ込む。その小さい口から出たとは思えない熱量に一瞬姿が見えなくなったパラセクトだったが、大きな爪のような手で炎を切り裂きブビィの目の前に迫った。
それを咄嗟にバックステップで避けたブビィは、目くらましのためか口から真っ黒なえんまくを噴き出した。それに包まれたパラセクトだったが、ひるむことなくブビィのほうに的確に攻撃を続けてくる。
「ブビィ!もう一度ほのおのうずだ!」
「ブ…ッビィイ!」
一瞬、ブビィの動きが止まったように見えた。しかもブビィは俺が思っていたのとは違う、ひのこぐらいの炎でパラセクトを威嚇するように攻撃している。
「…え…?」
「…ルー?どうかした?」
ルエノたちが何か話しているような声が聞こえた。けど俺はバトルに夢中で、気にも留めなかったんだ。
「パラセクト、そこだ!きりさく!」
一瞬の隙をつかれ、ブビィに爪が振り下ろされる。地面に叩きつけられたブビィだったが、すぐに起き上がって少し汚れた顔を拭った。
「負けるなブビィっ!」
俺の声に少し頷いたブビィは、相手から少し距離をとるとその小さな拳に炎を纏い始めた。初めてブビィが出す技に、俺の心が躍るのがわかった。
「いっけぇえ!」
「ブビィイッ!!」
パラセクトより素早いブビィは、勢いよく相手の懐に入り込み炎を纏った拳で殴りつけた。少し地面を転がったパラセクトが苦しそうに立ち上がる。アドスのほうを見れば、何故か余裕そうに笑っていた。
「ブビィ!もう一発…ブビィ?」
ブビィが追撃せずに距離をとったことに首を傾げる。どこか、動きもぎこちない。
「かかったな」
アドスがそう笑う。そこで俺は感づいてパラセクトをよく見てみると、その周りにキラキラと何かが舞っているのが見えた。
「ほうし…ブビィっ大丈夫か!?」
パラセクトのとくせい、ほうし。ブビィはそれにやられてしまったらしい。苦しそうにはしていないけど、動き辛そうだ。きっと麻痺してしまっているんだろう。
「パラセクト、シザークロス!」
「ブビィ!えんまくで目くらましだ!」
突進してくるパラセクトに、ブビィがなんとかえんまくを放つ。それを見てアドスが今度は声を上げて笑った。
「いい事教えてやるよ。パラセクトはきのこポケモンって言ってな…虫の体を背中の“きのこ”が操ってるんだぜ?」
「なっ…!」
「つまりだ」
パラセクトがブビィに向かって、二本の強靭な爪を振り下ろす。
「目は飾りみたいなもんなんだよ!」
「ブビィっ!!」
ブビィが地面に倒れる。思わず動き出そうとした足を止めたのはルエノの声だった。
「待って!まだ勝負がついたかわからない、カウントとるから!」
ジム戦っていう公式戦をしてきたルエノはしっかりとバトルを見ていてくれていた。ジッとブビィを見て、カウントを呟く。ブビィはもうボロボロだ、見てわかる。
強い風が吹いた。どこか湿った風に、もしかしたら雨が降るかもと頭のどこかで考えた。気が付けば空はどんよりと曇っていて、気温も大会時より下がっている。
ルエノのカウントが3を数えたとき、ブビィがゆっくりと体を起こしてルエノのカウントを止めた。
「ブビィ…まだ、戦えるのか…?」
心配になってそう聞けば、大丈夫だと言わんばかりに両足でしっかり立った。体は傷だらけだし、握り締められた手は少し震えているように見える。
「次で終わらせるぜ、ブビィ。ありったけの力込めてくれよ!」
俺の言葉に反応したのは、何故かブビィではなくルーで。勿論、そのときの俺はそんなことに気付きはしなかった。
「悪あがきだな、パラセクト!もう一度シザークロスをくらわせてやれ!」
「ブビィ!はじけるほのお!」
ブビィが俺を一瞬見た。その瞳が何を訴えていたのかわからなかったが、それは本当に一瞬で。すぐに炎を溜め始めたブビィに、パラセクトがまた襲い掛かる。
目の前に来たパラセクトに、ブビィがこれ以上ないほど溜めた炎をはじけさせる。広範囲に広がった炎は、パラセクトをのみ込んで中々収まらない。アドスが度肝を抜かれた顔でその光景を見ていたが、中々収まらない炎とそこから姿を出さないパラセクトに俺を睨んだ。
「もういいだろ!やめさせろっ!」
「ブビィっはじけさせ過ぎだぜ!もう…ブビィ!?」
やめさせようと近寄ったその時、ブビィから溢れる炎は止まる所か暴走するようにひのこを振りまき始めた。
それには流石にルエノもバトルの審判どころじゃなくなったのかこちらに駆け寄ろうとするが、ひのこが邪魔をする。
「ブビィ!もういいんだ!ブビィッ!」
大きすぎる炎とひのこが邪魔をして、ブビィが見えない。そんな俺の視界の端に見えたのは、紫の髪だった。
「だめっ…気付いてっ…!」
ルーだ。危ないってのにブビィに駆け寄って、その両腕で抱きしめようと手を伸ばす。危ない、そう叫ぼうとしたけど、不思議とブビィを包む炎は何事もなかったかのように一瞬で消え去って。
残ったのは戦闘不能になって倒れているパラセクトと、ルーの腕で死んだようにぐったりしているブビィだけだった。
何が起きたのか、頭がついていけなくて呆然としていると、倒れていたパラセクトが赤い光に包まれてアドスのモンスターボールへと戻って行くのが見えた。ルエノがルーとブビィに駆け寄り目をひんむくと後ろにいたモココに鞄を持ってくるよう指示を出す。ゴースがふわりとブビィの隣に舞い降り、起きろと言わんばかりに頬を舐めるがブビィは反応を返さなかった。モココが持ってきた鞄からきずぐすりを取り出したルエノはすぐに手当てを始める。
「リオ!何やってんのよ、しっかりして!」
ルエノの怒声に近い言葉にはっと我に返る。すぐに駆け寄れば、心臓を何かにわし掴みにされたように冷や汗が背中に流れた。
バトルの傷だけじゃない、あの炎に自分もやられたのかブビィは酷い傷を負っていた。なのに、首からかけられたネックレスだけは、羽飾りだけは傷だらけの手に握り締められ傷一つなかった。
「…その傷じゃ助からないかもな」
アドスの一言が突き刺さるように響いた。
ぽつり、と雫が上から地面を叩いた。その音は徐々に大きくなっていき、足元を濡らしていく。上を一枚脱いでブビィを包むように巻いて抱き上げた。ルーが鞄から出した傘を俺の上に広げてくれた。
「…絶対、助ける」
「リオ、ここからならエンジュのポケセンのほうが近いわ、急ぎましょう!」
ルエノがモココに合羽を被せつつ自分の傘を広げた。
「助けるって…お前が何か出来るわけ?ポケセンに連れてってそれで終わりだろ?」
アドスが鼻で笑って歩き出した。その背中を見て、何かが心に引っかかった。目の前で苦しむ自分のポケモンを見たことがあるあいつも、アドスも今の俺と同じような心境だったんだろうか。だったらなんでイトマルを見捨てるようなことをしたんだろうか。
もしかすると、アドスは…。
「トレーナーが、パートナーが信じてやらないで誰が信じてやるんだよ!助かるって…待っててやらないでどうするんだよっ!!」
俺はそうアドスの背中に叫んだ。そして衝動に従ったままエンジュのポケセンに向かって雨の中を走り出す。しっかり両腕でブビィを抱いて、苦しそうな呼吸に泣きそうになりながら。背中には確かに、アドスの視線を感じたまま。



その後の記憶は凄く断片的だった。頭が混乱していて、ポケセンについてジョーイさんになんて説明したのか、とか、ずぶ濡れの俺に誰がタオルを渡したか、とかよく覚えていない。
ただ、ジョーイさんに告げられた言葉だけはしっかりと記憶していた。
『大変深刻な状況です。外傷は勿論ですが、内側まで何らかのストレスがかかっていたようで…原因は今検査していますが、私たちにも初めての症状ばかりで…』
なんとか手をつくす、と言ってくれたジョーイさんに、俺はただ頭を下げるしかなかった。一緒に聞いていたルーとルエノ達はふらりとどこかにいなくなっていて、椅子に座ってぼんやりしているといつの間にかロジーが目の前にいた。どうやらルーが連れてきてくれたらしい。
そこからはロジーも検査に加わって、忙しそうにブビィのいる緊急治療室に出入りしていた。俺はただそれをガラス越しに見て祈ることしか出来なくて、悔しさと情けなさで前が霞むばかりで。

閉じていた目を開ければ、ジョーイさんと話していたはずのロジーが隣でガラス越しにブビィを見ていた。
「僕は…君たちとまだ少ししか交流をしていないけど、君たちのことを友人だと思っているし、理解したいとも思っているよ」
突然話し出したロジーに、俺は俯いた顔を上げられなかった。彼は手元のカルテを確認するように見ると、深く溜め息をついた。それが何か意味しているのかは、すぐに知ることになる。
「リオ、君は…ブビィに何かを強要したことがあるかい?無理やり我慢させたりしたかい?」
「何、言ってるんだよ…」
「世の中にはそういうトレーナーがたくさんいるんだ。勿論僕は君たちがそういう子じゃないって信じているよ。とってもいい子だ、最近では珍しいくらいにね。でも…合致してしまうんだよ」
その言葉に見上げると、ロジーが俺と向き合って眼鏡を通して真っ直ぐに見据えていた。
「ブビィは何かの衝動を、ずっと堪え続けたんだ。それこそ、体の組織が傷付くぐらいに」
「…そんな、の…」
気付かなかった。ブビィはいつも元気にぴょんぴょん飛び跳ねて歩き回っていて…あれは、空元気だった?きっとあったであろう微かなその予兆に、気付いてやれなかった?もしかしたらブビィはどこかで俺に伝えようとしていたのかもしれない?
ぐるぐると頭に色んな考えが浮かんで漂い続けた。
「君が命令していたわけではないのなら、ブビィは何故我慢し続けたんだろうね…たまにこういう事例に出会って、考えるんだ。ポケモンは僕らと同じように考えて行動している、決して意思がないわけじゃない、それならちゃんとお互いの意思を伝え合えたらいいのになってね。ちゃんと言葉を繋げ合えたら、我慢したり、悲しいことが少なくなるのにね」
ロジーがぼそぼそと呟く言葉にルーが思い浮かぶ。ルーはあのバトルの時に、ブビィの声を聞いたんだろうか。だとしたらブビィは何を言っていたんだろうか。ブビィに伸ばされたあの両腕は、どんな思いを掬い上げようとしたんだろうか。
「取り合えず原因はわかったから、なんとか治療法を見つけてみるよ。君は少し寝るといい。昨日から寝ていないんだろう?」
わしゃわしゃと荒く頭を撫でてからロジーは立ち去った。その後姿はやっぱり大人で、自分が子供なんだと痛感した。アドスにあんな大口叩いておいて、何も出来ていない気がする。こんな気持ちで寝ろ、と言われても到底寝てなんかいられなかった。







もうすぐお昼。まだ雨はざあざあ降り続いていて道にはあちこちに水溜りがあった。エンジュ特有のお着物、お化粧に身を包んだ女性、まいこさん達が傘をさして歩いている。こんな日まであんな格好して出歩かないといけないなんて大変だ、と自分の服とつい比べてしまう。旅をしているからっていうのもあるけど、やっぱり動きやすい服が一番よね。合羽を着て前を歩く私の相棒、モココは少しテンションが高いのか雨の中踊るように空を見上げながら回っている。よくよく見ると口を大きく開けて雨水を溜めているだけだったからツッコミも含めて額にチョップを決めておいた。
「あの…ルエノ…」
「なぁに?」
後ろからついてきていたルーに呼ばれて笑顔で振り向く。傘をしっかり握ってきょろきょろしていた。やっぱり、あの子の側にいたいんだろうか。
「どこに、行くの…?」
「気晴らしよ、気晴らし。あの場にいたって辛いだけよ、貴女も…リオもね」
昨日ポケセンに駆け込んでからリオはブビィのことしか考えてないのか塞ぎ込むように周りを見なくなってしまった。きっとリオにとっては、今までの人生の中で一番辛い出来事が起きてしまっているんだと思う。それくらいいつもの彼の面影はなかった。何も食べないし、寝ようともしないし、何もしようとしない。ただ仏頂面で緊急治療室の中を見ているだけ。なんだかんだとここまで一緒に来てしまったけど、正直今一緒にいたらこっちまで駄目になる気がした。
だからルーとゴースを連れて散歩がてら外に出た。天気は相変わらずだけど、雨の匂いとか音は私は嫌いじゃない。
「正直…私も辛い」
「え…」
「リオって何考えてるかわからないんだもの、慰めようにも言葉がわからないわ」
いっつもヘラヘラしてて、ポケモンが大好きで、私が知っているのはそれくらいだった。
シャッターが閉まったお店の軒下にお邪魔して傘を閉じる。別に行く宛があったわけじゃないから、ぼんやり雨が降る景色を見つめた。
「ルーは…リオとブビィのこと、どれくらい知ってる?」
「えっと…昔から、一緒にいて…仲が良くて…」
「やっぱり、そんなもんよね」
私も多くを話していないからなんとも言えないけど、ブビィの様子は異常で。それが何か過去に関係しているなら、どんなことを二人は背負っているんだろう、と、柄にもなく他人のことを考えてしまう。
「あ…それと…」
少し濡れてしまったのか、二つに結われた髪の片方を撫でながらルーが呟いた。
「お父さん…を、捜してる」
「お父さん?リオの?」
「そう…だから、旅をしてた…の」
初めて聞いたリオたちの旅の理由。不思議に思っていた一つがわかって心のどこかがスッと広くなった気がした。
「お父さん、かぁ…。家族は、心配になるよね。ルーは何人家族?」
「え…えっと…」
リオのことも謎だけど、一番の謎はルーだった。初めて会ったときから感じていたこの子の纏う不思議なオーラ。それからポケモンの声が聞ける能力。長い前髪で顔がほとんど隠れている容姿も手伝って一般人って感じがしなかった。どこかのお嬢様とか、権力者とか、実は他地方のジムリーダー!とか色々考えたけど、少し交流してみて全部違うという考えに至った。
世間知らずという言葉の、もう一つ上にいるんじゃないかってくらいこの子は物事を知らない。色んなことを教えてあげた気がするし、聞かれた気がする。でも私は、このマルルーモという女の子のことを何一つ知らないんだ。
ルーは私の質問に困っているのか、ゴースを抱きしめてうつむいてしまった。もしかして家族は誰一人いないのかもしれない、だとしたら申し訳ない質問をしてしまった、と、私がフォローしようと口を開いたときだった。
「モコッ!!」
突然モココが雨の景色の中に電撃を放った。それは何かとぶつかって相殺されたのか雨を蒸発させ白い煙が風に運ばれてこっちまでくる。
驚いてそっちに目を向ければ、こんな土砂降りだっていうのに傘はささず立っている一人のトレーナー。そして足元には鋭い牙を見せ威嚇する四本足の黒いポケモン、デルビルがいた。あっちから攻撃してきたであろう事は明確だった。
「ちょっと、ここ街中よ!?何すっ」
私が喋ってる途中だっていうのに、さっきも攻撃を放ったであろうデルビルがまた口から炎を噴出す。モココが素早く対応してくれてまた電撃を放って相殺した。
「なんだってのよ!モココ、手加減しなくていいわ!」
私が戦闘態勢をとった瞬間、トレーナーの男はすっと右手を上げて人差し指で何かを指した。
「その娘を渡せ」
「っ…!」
私の少し後ろにいる、ルーだ。ルーの腕からゴースが飛び出し、ルーを隠すように浮遊する。
「何その台詞、ドラマの見すぎ?大人なのに馬鹿みたい」
挑発すればボロを出してくれるかも、と思って、本音交じりに馬鹿にしてみる。でも男の表情は何もない、真顔のままで。少し不気味にすら見えた。
「ル、ルエノ…!」
ルーの焦った声に彼女が見ているほうに視線を向ければ、裏通りから何人も目の前のこいつの仲間であろう人影がこっちに走ってくるのが見えた。だって皆同じ黒いコートにデルビルを連れているんだもの。
ていうか、こんな大勢の相手は無理!
「モココ、わたほうし!ルー、濡れちゃうけど、我慢してね!」
モココから放たれたたくさんのわたが相手の視界を遮った。傘なんか差してる暇はなく、ルーの手首を掴んで雨の中に走り出した。大勢の男たちが来てるほうとは真逆の、その昔落雷で焼けてしまった塔のほうに。





気が付けば、雨の中に立っていた。何をしていたんだろう、何かを持っているわけでもなく、ただ外に出ただけらしい。自分のことなのに曖昧なのは、俺も相当疲れてるってことなんだろうな。
ブビィの姿が頭に焼き付いて離れなかった。いつも俺の隣で笑って、同じものを同じように見ていたはずで。ルーみたいな能力がなくったって、俺たちは通じ合えてて、分かり合っていると思っていた。
濡れた服が体に張り付いて気持ち悪い。靴の中も水を含んで歩くたびに嫌な感触がする。耳元の羽飾りも水を吸ってぺちぺちと頬を叩いた。
「…何、やってるんだ」
ふと、雨が止んだ。正確には何かに遮られたらしい、俺の周りだけ水がこなくなった。声がしたほうを見れば、今の天気には似合わないキラキラした金髪が見えた。不機嫌そうに眉間にしわが寄っているのにどこか上品そうな空気をまとっているそいつは、昨日ルエノと喧嘩していたアグアだった。どうやら差していた大き目の傘を、俺の上に傾けてくれたらしい。
「何も、してないぜ」
「馬鹿かお前、傘を持たないで外に出る天候じゃないだろう」
少し離れたところではヘイガニが嬉しそうに雨に当たっている。水ポケモンは嬉しい天気だろうな。
「…あの可愛いお嬢さんとは一緒じゃないのか?」
そう聞かれて気付いた、ルーとルエノはどこに行ったんだろう。あの二人に何度か声をかけられたような気がする、でもなんて言われたかとか正確な時間が全くわからなかった。
何も答えない俺に深い溜め息をついたアグアは、鞄から真っ白なタオルを出したかと思うと俺に投げつけた。
「何があったか知らないが、そんな顔をしていたらあのお嬢さんが心配するんじゃないのか」
「…ブビィが…」
「…は?」
突然呟いた俺に、アグアは怪訝そうな顔をした。その時だった。
「ちょっと聞いた?さっき女の子達が追われてたって」
「聞いた聞いた、黒いコートの男たちにだろ?不審者すぎるよな」
「強そうなモココが一緒にいたけど、大丈夫かしらね」
モココ、という名前に反応する。俺はすぐアグアの傘から抜け出すと、世間話をしながら歩いていたエンジュの住人であろう人たちに話しかけた。
「あのっそのモココを連れてた女の子たちって、どういう特徴でしたか?」
「え?えぇっと…一人が茶髪で、もう一人が紫の髪で二つに結ってて…ゴースを連れていたらしいわ」
確信した俺はすぐにお礼を言い走り出そうとする。でも、そこでふと気が付いた。
困っている人を見捨てられないこの性格でいつもすぐ走り出せていたのは、ブビィがいたからだ。ブビィと一緒ならどんなことも乗り越えられるって自信があったからだ。そのブビィが、今はいない。
思わず俯いて無力な自分の足元を見ていると、ぱしゃぱしゃと水溜まりを気にせずアグアが歩いてきた。
「追われてるのか、あのお嬢さん…と、あの守銭女」
「…らしい。多分、ルーが目的かもしれない。少し…特別な力があるから」
今まで何故かポケモンに狙われることがあったルー。人間にも目をつけられたんだとしたら、大変なことになる。でも、俺一人に何が出来るだろうか。何の力も、パートナーも近くにいない俺に、何が。ここは大人しく、この街のジュンサーさんに話をしにいったほうが…。
そんなことを考えていると、また隣のアグアが大きな溜め息をついた。
「僕が言ったこと、忘れたのか」
「え…」
「男なら、最後まで守り通すのが筋ってやつじゃあないのか?」
父さんと再会したあの日、強いリザードンに挫けそうになったあの時、現れたアグアはそう言ったんだ。アグアの言葉に、曇っていた頭の中の霧が晴れる気がした。
「…アグア、頼みがある」
「聞こう」
傘を肩にかけ腕を組んだアグアはどこか偉そうで。足元にはいつの間にかヘイガニがいて、俺を見上げていた。
また雨に打たれている俺は、ぐっと濡れた拳を握り締めて息を吸い込んだ。
「ルーとルエノを助けたい、俺と一緒に来てくれ!」
「…ここで会ったのも何かの縁だろう、今日だけだ」
アグアはそう言って何故か勝ち誇ったように笑った。足元のヘイガニはやる気に満ちているのか「ヘイヘーイ!」と返事をくれた。
まずは二人がどこに逃げたのか聞き込みしないと、と走り出せば、傘を差したまま隣を走るアグアが何かを思い出したかのように声を上げた。
「そういえば君、いつも一緒の相棒はどうしたんだ」
「ブビィは…今、緊急治療室なんだ」
「は!?それって…」
「でも、いつまでも落ち込んでてもブビィに笑われるよな…。それに、気付いたんだ」
足を止めて、ポケモンセンターのほうを見る。さっきまでの自分の暗さを思い出して、なんだか笑えてきた。
「ルーも、ブビィも守れるくらい、強くならないとな」
「…君は馬鹿なんだな」
さっきから溜め息ばっかりなアグアに笑顔で返す。少しだけ、雨が弱まったような気がした。
「ポケモンより強くなれるわけないじゃないか」
「体は流石に無理だけど、心は違うだろ?」
そしてまた走り出す。この天気のせいで大通りも人がまばらだ、聞き込みはするけどどれだけ情報がもらえるかちょっと不安だ。
「…そんなこと言う馬鹿、初めて見たよ」
「さっきから馬鹿馬鹿って…失礼な奴だな!」
そう振り向けば、傘の中で少し肩を震わせて笑っているのが見えた。それを見てつられて笑う。
濡れて張り付く服も、嫌な音をたてる靴も、ぬかるんだ土も、今は嫌じゃなかった。
雨の後は絶対気持ちのいい晴天が広がるんだ、その下でルーと、ブビィと、皆と笑いたい。
だから

「絶対助ける、守ってやるからな!」

誰に言ったのかわからないけど、俺は雨で霞む景色の中に叫んだ。





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