コトリ、小さな音と共に、彼のカップもテーブルに置かれた。
空になったカップの底では、微かに残った紅茶の雫が、明る過ぎる程に明るい部屋の電灯に照らし出されて光っている。


「そもそも、キミのその認識が間違っている。」
「どういう事?」
「フランスの民俗学を学んでいた私が、何を考えてか、脈絡もなくボディーガードという職業を選んだ。そう思う事が、間違っているのさ。」
「……え?」
「私は物の初めから、そういう仕事をしている人間だった。そう考えれば、疑問はないだろう?」


アレックスは目を見開く、その仕草しか出来なかった。
彼の告げた言葉を、心の中で繰り返す。
そもそもがそういう仕事――、ボディーガードとは明言しなかったが、きっと表には出せない仕事、人に知られてはいけない仕事をしているのだと言いたいのだろう。


「それはつまり、出逢った時点で、全てが嘘だったと? 名前だけじゃなく、貴方の立場も何もかもが……。」


民俗学を学ぶためにやってきた留学生という、その姿自体が嘘であり、本当は何かを探るため、何かを調べるために大学に潜り込んでいた、と。
そんな事が本当にあるのだろうか。
映画かドラマのような、そんな状況が。
だが、目の前で微笑む彼の並外れた美しさと、その容姿とは見合わない逞しい肉体と筋力を思い返せば、そんな嘘みたいな事もあるのかもしれないと、妙に納得してしまう。


「まさか……、今も何かを探るために、グラード財団に潜り込んでいるの?」
「それは違う。今の私にとって、ボスは城戸沙織嬢、ただ一人だけだ。ただし、キミと共に居た頃のボスは、また違う人物だったけれどね。」
「大学で何を探っていたの? 何のために?」


それを聞く意味があるのかすら、アレックスには分からなかったが、彼女は更に問い質した。
信じろと言われても、俄かには信じ難い事実。
信憑性を得るためにも、もっと詳しく話を聞かなければいけないと、アレックスは感じていた。
こんなに少ない言葉だけでは、とてもじゃないが嘘か真かの判断なんて出来やしない。


「探っていたのは、私じゃない。私は囮。探っていたのは、もう一人の方だ。」
「もう一人……。」


少しだけ考えて、アレックスはハッとする。
言われてみれば、彼と同じくギリシャから留学してきていた男がいた。
黒髪で暗い印象の、そして、目付きが鋭くて怖かったので、誰も好んで彼に近付こうとはしなかった人。
誰もが彼の輝かんばかりの美しさに目を惹かれた一方で、誰一人としてその男には興味も持たず、注意も払わなかった、そんな男が。


「貴方が、スペイン人だと言っていた、あの人の事?」
「そう。私がこれでもかと周りの注意を引き付けておけば、アイツが動き易いだろう?」
「そんなにしてまで、一体、何を……?」
「あの大学は、一般の人が持っていてはならない『モノ』を所有していた可能性があった。それが本当にソコに有るのか? 有るとしたら、何処に隠されているのか? 私達は、それを探らねばならなかった。」


当時の彼を思い出す。
囮という割には、いつもツンケンとしていて、集まってくる人達を出来るだけ近付けようとはしなかった。
それでも、彼の美しさに群がる人は多かったが、その一方で、酷く愛想がないのも確かだった。
きっと囮というその役割を負う事は、彼にとって不本意だったのだろう。


「どうして民俗学を?」
「その『モノ』が隠されている場所として真っ先に考えられたのが、大学の博物資料室だったからさ。徹底した湿度・温度の管理をされた収蔵庫は、個々の収蔵物ごとに分けられて、厳重に管理されている。それも担当の学芸員の許可なくしては、開ける事も出来ない。隠し場所には持ってこいだろう。」


博物資料室の周囲を彷徨いて、怪しまれないのは歴史学や考古学、そして、民俗学を学ぶ生徒や研究員だろう。
当時の彼の年齢を考えれば、教授や準教授に化けるには無理があるから、学生という身分で潜り込んだのだ。
国立博物館並みに管理が厳重で、思うように捜索が進まなかったのだが、根気強い調査の結果、目当ての『モノ』が確かにその大学にある事を突き止めたという。
それはアレックスが日本へ旅立った後、僅か半月後の事だった。





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